坂本龍一、李禹煥に出会う──解体から沈黙へ

坂本龍一が敬愛し、最後のアルバムとなった『12』のジャケットを手掛けたアーティスト、李禹煥。このふたりの実質的な交流の期間は数年間であるが、約半世紀にわたりその思想や作品で通底し合っていたようにも見える。​​年齢や出自が違う彼らをつなぐものとは何か? 本記事は、『12』を紐解くためのコラムの第二弾で、シリーズの最終回。

文=松井茂(詩人、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授)

2018年12月31日。李の自宅兼アトリエにて 撮影=李美那
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※去る3月28日に坂本龍一さんがご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。本原稿は坂本さんの生前に書かれたものです。

解体から始まる

 1969年。李禹煥(1936〜)は、高松次郎(1936〜98)について論じた文章で次のように書いている。

自然な世界のあるがままの光景にそのまま「出会い」たいという渇望──。作家であることを半ばやめつつある人間のまなざしに映る世界はなんと生き生きとしてみえてきたことだろう。(*1)

 この時期の高松は、タブローに実像を持たない虚像として影を描いたりしてきた作品から、布やネットをたるませ、それを置いただけの作品であったり、多摩川の河原で石に小数点以下の数字を書いていくような、無観客のパフォーマンスの「状態性」を見せるような制作を始めていた。高松の変化は、李の批評のみならず、ガラスを石で割ったパフォーマンスの痕跡をインスタレーションにした作品《関係項》(1968年)とも呼応していただろう。こうした動向は、1968年にフランスで始まった5月革命に端を発した、ポスト・モダニズムの始まりと連動する、既存の価値観への異議申し立てであった。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のような繁栄ばかりが誇示される社会状況は、マス・メディアの普及と浸透による、イメージ表現の過剰傾向にも現れる。マス・メディアの表現を制御するテクノロジーは、同時期の学生運動の封じ込めにも使用され、管理社会を進展してた。高松、李は、過剰なイメージの虚像表現を出発点に持ちながら、前述のようにこれを批判する方向性を打ち出していく。これが「もの派」の登場と言ってもよいだろう。

 同時期の1969年。坂本が、新宿高校でアジテーションの演説をする写真が残っている(*2)。李が《関係項》を最初に実践した新宿で、坂本もまたポスト・モダニズムの始まり、解体の時代の空気感を共有していた。そして1970年に東京藝術大学に入学し、音楽学部よりも美術学部に出入りし、高松の授業にも参加したという(*3)。2017年のインタビューで「いままでは、全然そういう気配はなかったと思うのですが」と笑っていたが(*4)、問題意識はあまり変わらず、自身の原型はこの時期にできたと発言していることに注目したい(*5)。

 そして「李禹煥が語る「坂本龍一の音と音楽」」(『ウェブ版美術手帖』、2023年3月19日)にもあるように、半世紀を経て、2人のアーティストは出会った。

2018年12月31日。李の自宅兼アトリエで話をする坂本龍一と李禹煥 撮影=李美那

繰り返されるニアミス

 クラシック音楽の解体は、西洋音楽に民族音楽を対置し、アコースティックなコンサートホールにメディア技術を導入することだった。もっとも現代音楽は、1970年頃までにこれを果たしていたが、坂本はさらにポピュラー・ミュージックを再配置することで、音楽のヒエラルキーを脱構築した。いっぽうで高松や李は、美術がマス・メディアの影響圏に近づいた1960年代への反発から、1970年代はファイン・アートとしての表現を先鋭化させていく。音楽と美術の領域で比較すると、反発するように見える大衆化とエリート化は、実際にはそれぞれの領域での脱構築の現れであった。

 YMO散開後の1984年。ヨーゼフ・ボイス(1921〜86)とナム・ジュン・パイク(1932〜2006)が来日し、「パフォーマンス」という言葉を人口に膾炙させる。坂本もこの年を「パフォーマンス元年」と指摘する(*6)。東京で開催されたパイクの展覧会カタログには、元々交流が深い、李が寄稿している。坂本は、パイクとパフォーマンスをし、同年ニューヨークに渡り、ヴィデオ作品を共作することにもなる。李は、1970年代から親交をもったボイスについては、「拡散する表現の時代をリードしながら、己の身体的行為や生を支える根源的な素材へのこだわりが強く、私は多くの示唆をうけた」という(*7)。いずれにしても李と坂本は、1960年代末のニアミスに続き、1984年にはパイクを介してニアミスしていたことになる。

 同じく1984年。坂本は『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)を刊行している。この本は、10人のアーティストにブックデザインを依頼した未刊行の目録で、ある意味でニューアカデミズムと呼ばれる動向がもたらした最良の表現のひとつと言ってよいだろう。そして10人のアーティストには、高松次郎が含まれていた(*8)。高松がデザインした書籍は、マルセル・デュシャン『グリーン・ボックス』、オクタビオ・パス『マルセル・デュシャン あるいはガラスの館』、グレゴリー・ベイトソン『千年王国・バリ』、木村敏『時間発生の臨床学』、グレゴリー・ベイトソン『イルカを撃つな』である。

『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)

 2017年のインタビューの際、雑談としてこのことを坂本に聞いたところ、編集者に高松への依頼を任せてしまい、直接会うことはなかったと話していた。これもまた高松とのニアミスである。

契機としてのグリーンランド

 2008年、坂本は北極圏、グリーンランドを旅した。これは科学者やアーティストのプロジェクト「ケープ・フェアウェル」の一環だった(*9)。

人間が自然を守る、という言い方があります。環境問題について語るとき、よくそういう言い方をする。でもそれは、ほとんど発想として間違いなんだと思います。人間が自然にかける負荷と、自然が許容できる限界とが折り合わなくなるとき、当然敗者になるのは人間です。困るのは人間で、自然は困らない。自然の大きさ、強さから見れば、人間というのは本当に取るに足らない、小さな存在だということを、氷と水の世界で過ごす間、絶えず感じさせられ続けた。そして、人間はもういなくてもいいのかも知れない、とも思った。(*10)

 1968年に始まった近代への異議申し立ては、人文学がもたらした、思想的なエコロジーの始まりであった。当時の意識化が、人間を主体とする自然観に留まっていたことは否めないだろう。20世紀後半、加速する気候変動がやっと人類の終わりの始まりを自覚させ、自然科学に基づくエコロジーへと実践される。「人新世」や「ポスト・ヒューマン」と言われる言葉が一般的に使われるようになった。

 冒頭に引いた、「自然な世界のあるがままの光景にそのまま「出会い」たいという渇望」を表現の衝動にしてきた「もの派」は、アートヒストリーに組み込まれて久しいわけだが、より広く社会的な観点から、その注目をあつめるようになった。このことは、2022、23年に開催された、李の大回顧展の成功からも窺われることだろう。歴史的な「もの派」の回顧であると同時に、現代の表現として、自然と人間の関係性を再考させる最良の展示であった。

 話しを戻すと、2017年のインタビューで、坂本が、李の名前を召還するきっかけのひとつとなった背景には、地球環境の変化を表現に反映するきっかけになった、グリーンランドの体験があったのではないかと、私は想像している(*11)。歴史的な「もの派」としての李ではなく、現在進行系の表現者である李への新たな注目と発見があったのだろう。

沈黙へ

 坂本は、エコロジーな音楽はないという前提と断った上で、もしそれがあるとすれば、「人間的なものを否定するようなものではないか」という(*12)。李もまた、2018年の文章で次のように書く。

私の作品に見られる沈黙の性格は、おそらく非 – 人間的だ。それは作品が特定の素材や方法の駆使もさることながら、やはり発想の根幹が自然や外部との関わりにあるためであろう。私は人間の言葉を拒むわけではないが、人間以外の音や声にも耳を傾けてみたい。(*13)

 「坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2 IS YOUR TIME」(ICC、2017〜18年)で展示されたインスタレーションでは、東日本大震災に被災したピアノが使用された。坂本は、このピアノに「自然に還る姿」を見出す。これに前後して李は、坂本が音楽を担当した、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画『レヴェナント: 蘇えりし者』(2016年)の環境音と音楽が聴き分けられないような表現に触発されたという。

 2019年に李は、ポンピドゥー・センター・メスでの展覧会に際して、坂本に音楽を依頼する。坂本は李の家を訪ね、「音のないところの音を録」ったという(*14)。半世紀を経て行われたコラボレーションは、時宜を得たふたりの「非 – 人間的」な沈黙に接近する表現として結実した。人間の沈黙によって捉えられる音や声、時間や空間だ。

2018年12月31日。李の自宅兼アトリエにて。本文にあるように、坂本が「音のないところの音を録」った日である 撮影=李美那

 2022年。坂本は国立新美術館に「李禹煥」展を訪問し、李自ら案内したという。ふたりのアーティストの相互浸透が、約半世紀の潜在的な関係から顕在化し、直接の接点を持ったことに大きな意義を感じずにはいられない。1969年に李が高松に対して、「作家であることを半ばやめつつある人間のまなざしに映る世界はなんと生き生きとしてみえてきたことだろう」と書いた。これは李、坂本の現在の表現についても同様だろう。人間を脱中心化するために、アートが持つ「沈黙」の表現が問われているのだ。坂本の最新アルバム『12』の音源と、李が手がけたアルバムジャケットは、そのプロセスの階梯であり、さらに次のアルバムが待たれる。

*1──李禹煥『出会いを求めて』田畑書店、新装改訂版、1974年、113頁。
*2──坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社、2009年、65頁。
*3──坂本龍一ロング・インタビュー「あるがままのS(サウンド)とN(ノイズ)にM(ミュージック)を求めて」『美術手帖』2017年5月号、21頁。
*4──同、20頁。
*5──坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社、2009年、76頁。
*6──坂本龍一ロング・インタビュー「あるがままのS(サウンド)とN(ノイズ)にM(ミュージック)を求めて」『美術手帖』2017年5月号、28頁。
*7──李禹煥『両義の表現』みすず書房、2021年、86頁。
*8──その他の9人は、井上嗣也、赤瀬川原平、安西水丸、細野晴臣、浅羽克己、沼田元気、奥村靫正、日比野克彦、菊地信義。
*9──https://www.capefarewell.com/ryuichi-sakamoto/
*10──坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社、2009年、245頁。
*11──近年坂本がコラボレーションする、霧の彫刻家、中谷芙二子は以前からグリーンランドを作品の想像力のひとつとしてきた。その背景には、グリーンランドで研究を続けてきた科学者である父親、中谷宇吉郎の影響がある。
*12──坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社、2009年、244頁。
*13──李禹煥『両義の表現』みすず書房、2021年、32頁。
*14──「李禹煥が語る「坂本龍一の音と音楽」」『ウェブ版美術手帖』、2023年3月19日。
*15──坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」『新潮』2023年2月号、166頁。