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坂本龍一ロング・インタビュー。あるがままのSとNをMに求めて【3/4ページ】

音楽とインスタレーションのあいだ

坂本 今回のアルバムのテーマのひとつとして、始まりがあって終わりがあるようなひとつの時間ではなくて、複数の時間が同時に進行しているような音楽はできないかということを考えました。いちばんわかりやすい例としては、作曲家のジョルジュ・リゲティの《ポエム・サンフォニック》(1962)という、メトロノームを100台使う作品です。この作品は、複数の時間が同時進行していて、中心となるテンポはありません。世界中を見渡しても、こういう音楽はあまりないですね。民族音楽にしても中心となるテンポがあります。こうした複数の時間を持つ作品は、終わりがない

ように設計されているのですよね。始まりも終わりもないので、いつまでも続けられるのです。アルバムに収録するには、どこかで終わらなければいけないから、便宜的に終わっているのですけど……。永遠に「繰り返し」が起きないような音楽が、ここのところ好きですね。

──もの派は、瞬間的なハプニングを作品として固定することからインスタレーションを展開してきました。突飛かもしれませんが、もの派から音楽における演奏を考えたとき、指揮者のセルジュ・チェリビダッケを想起します。彼はどんな曲を指揮しても、一般的な演奏の1・5倍くらい遅い。音楽は流れない。むしろ時間が滞留します。結果として楽曲の時間が解体して演奏は無時間的というか、時間芸術に抗うような、サウンド・インスタレーションに近づいていく気がします。グレン・グールドが2度目に録音したバッハの《ゴルドベルク変奏曲》(1981)にも同様のことが、言えるかもしれません。『async』におけるMの要素にも、こうした演奏に近い、「滞留する時間」が設計されているような印象を受けます。

坂本 それは前のソロ・アルバム『out of noise』(2009)をつくったときに強く意識したことですね。アルバムを出してから、ピアノだけのツアーをしました。そのときに強く感じたことは、ピアノは「もの」だということなんですよね。音楽としてではなく「もの」としての響きを聴かせたいと思いました。音楽を抽象的なところから見ると、座標軸上に点が打ってあって、時間が流れていき、それを美的に構築していくこと、と言える。でも違う観点からみれば、ピアノは「もの」の集積でもある。響きも「もの」の音だと思って、《Merry Christmas, Mr.Lawrence》(1983)みたいな曲でも、ゆっくりとモヤーンと反響させて弾いたら心地良くて、それでゆっくりと弾き始めました。ロンドンのコンサートで作曲家の藤倉大くんが聴きにきて、「なんであんなに遅く弾くんですか?」って怒られちゃいました(笑)。「いまはそういう気分なんだよ」って言ったのですが、ピアノを弾くということでもそうなるわけで、響きを聴こうと思ったら、演奏は遅くならざるを得ないんですよね。チェリビダッケの指揮は、次の小節にいかないような、止まっちゃってるようなね、音楽が落っこっちゃいそうな、進んでいかない感じですが、僕は大好きですよ。響きを聴こうと思ったらどうしてもそうなっちゃう。

 だから音楽には、作曲したり、演奏したりといった要素があるわけですけど、「聴く」ことも音楽だっていうところに到達しないといけないわけです。やっと10代で知り合ったジョン・ケージの思想に触れた(笑)。「聴く」ということがすこしわかってきたかな。いまは弾くよりも、「聴く」ことがとても大事だと思っています。今回のアルバムも「聴く」ことをとても大事にしているかな。

 そういう意味でも、やはり1970年前後、18歳頃の意識に戻っているのかも。大学に入ったこの時期の問題意識は、ヨーロッパ近代の音楽システムからいかに離れるか、離陸できるかということでした。簡単に言うと、100人の演奏者がいてみんな同じ時間で進行している──もっともこれは西洋音楽に限らない、人間の逃れ難い性向かもしれませんけど──、そのことに抵抗感を持っていたわけです。それで「違うやり方を試したらどういう音楽ができるのか?」と考えて、大学に入ると民族音楽学者の小泉文夫に民族音楽を学び、シンセサイザーなどの新しい楽器とともに電子音楽にも触れるようになりました。

一人で音を出しながらマイクで録音することも少なくないという

編集部

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