序章
私は最近、90人の未来学者、著作家、デザイナー、科学技術者、政策決定者からなるグローバルなグループ「スペシャル・サーカムスタンス・インテリジェンス・ユニット(特殊事情諜報機関)」によって書かれた『グレイ・ブリーフィング』(*1)という共同文書に出会った(*2)。 この文書が投げかけるのは次のような問いだ:「新型コロナウイルス感染症の流行が一年以上続いたとしたら、ヨーロッパと北米はどうなるだろうか?」MITのソフトウェアによって3つのシナリオが予測されたが、そのどれもが私たちの知る世界にさよならを告げることを意味している。
どのシナリオも、大規模な失業から始まる。シナリオ1はピラミッド・シナリオで、政府が富裕層の利益となる政策を実行し、その結果として不平等が広がり、貧困と暴力が悪化する。シナリオ2はレヴァイアサン・シナリオで、政府がより強くなり、その権力を社会的目標と集団的利益のために利用するようになる。シナリオ3はヴィレッジ・シナリオで、無能で持続不可能な国家の対応が社会の断片化を促し、脆弱な地方によるDIY解決策と支援に帰着する。
ブリーフィングによると、最終的に功を奏するのはレヴァイアサン・シナリオで、すべての人が犠牲を払ってローカルな解決策を見出すよう動員され、政府支援のもとボトムアップ型の実験を行うようになる。公共財と社会福祉に焦点があたり、経済が変容し、より弾力性のある持続可能な基盤がつくられる。これにより、危機後の回復がもたらされ、新たなニューディール政策、新ニューディールに至る。1935年にアメリカで導入された公共事業促進局(WPA)のモデルをもとに、新しい公的ネットワーク、デジタルサービス、広く利用される次世代ヘルスケアシステム、そして気候対応力の高いエネルギーや交通、住宅などに関するプロジェクトが重点的に取り組まれるようになる。政府は、案内役および実施パートナーの両方の役割を果たすという。
ブリーフィングはいくつかの核心に迫る問いで締め括られる。新型コロナ後のルネサンスはどのようなものになり得るだろうか? 長きにわたるコロナ危機は、社会的想像力の新たな時代の呼び水となるだろうか? この「大いなる転換」という挑戦を前に、私たちはどうしたら、より健全で、公平で、充足した世界を想像できるだろうか?
文化の面では、変化に対する人々の不安や懸念に配慮しつつも、実験を恐れずに新たなアイデアを受け入れられるよう人々の背中を押すことが課題となると、ブリーフィングは指摘する。つまり、そのふたつの間で精妙なバランスを見つけなければいけないということだ。ニューディール政策の起草者であるフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、1932年にこのように述べている。「国家は──私がその気質を間違えているのでない限り──大胆で持続的な実験を必要とし、要求している。ひとつの方法を取り上げて試すのは常識的なことだ:もし失敗すれば、それを率直に認めてまた違う方法を試せばよい。しかし何よりもまずは、やってみることだ」(*3)。
ニューディール政策から学ぶ
未来は、往々にして過去の断片から創出される。1990年代後半、私は素晴らしいストリートフォトグラファーで映像作家、そしてウォーカー・エヴァンスの友人でもあったヘレン・レヴィット(1913〜2009)と親しくしていた。彼女は、大恐慌下の1937年にロイ・ストライカーがニューディール政策の一環として組織した農業安定局(FSA)の写真プログラムに参加し、ドロシア・ラングやゴードン・パークスほか多くのアメリカ人写真家たちとともに、農村の貧困をとらえた25万枚にもなる写真を撮影した。
レヴィットは私に、社会を根底から揺るがす世界的大危機(つまり今私たちが経験しているような危機)がある日到来したら、ルーズベルトのニューディール政策の遺産と、それが文化に何をもたらしたのか、そしてそれが文化とともに何を成し遂げたのかを見直すべきだと語った。彼女の言葉を思い出した私は、その会話を記録したメモを探し出した:いかにして民主的で分権的な政府による芸術支援を実現できるのか。いかにしてアーティストと社会環境を結び付けられるのか。レヴィットはまた、このような大規模な政府によるアーティスト支援プロジェクトには先例があることも教えてくれた。1926年にはメキシコ政府がアーティストを雇用し、公共建築に壁画を描かせていた。
1933年から1942年にかけてのアメリカ政府芸術プログラムの概要
アメリカでは、政府による芸術支援は1933年に始まった。1929年の勃発から大量失業へとつながった大恐慌の直接的な結果であった。文化史家ロバート・C・ヴィッツはこう指摘する。「危機のあまりの深刻さから、アーティストたちは従来の孤立したあり方を問い直さざるを得なくなり、アーティスト団体やいくつかの政府芸術プログラムを通して、新たなコミュニティ意識と社会的役割を見出すようになった」。ヴィッツは、モーリス・グレイブスが道端で絵画を売りつつ西部をさまよった様子や、ジャクソン・ポロックがヒッチハイクと貨物列車で国を横断した様子、アーシル・ゴーキーが大恐慌の年月を彼の人生で「最も絶望的で心が押し潰された」期間と呼び、「麻痺させるほどのその貧困がアーティストにとってどれだけ無益か」を語る様子を描写する。ヴィッツはまた、「この不安定な状況は、まともな仕事をするために必要な心の平和に対して何ひとつ寄与しない」と記したマースデン・ハートレーの言葉も紹介している(*4)。
アーティストは慈善的な支援の大部分を失い、多くの組合イベントや市場(1931年にニューヨーク市のグランドセントラルパレスで行われたインディペンデントアーティスト協会のアートマーケットなど)も、必要な収入を生むには至らなかった。アメリカ画家・彫刻家・版画家協会は1935年にイニシアティブを打ち出し、美術館は展示する作品のレンタル料を生存中のアーティストに支払うべきだと示唆した。しかし、従ったのはホイットニー美術館やサンフランシスコ美術館など数か所の美術館だけで、やはり必要な収入はもたらさなかった。次第に、大規模な政府によるイニシアティブだけが解決策をもたらせることが明らかになっていた。
美術史家エリカ・ベックも書いているように、1933年12月8日、ワシントンDCのエドワード・ブルース邸で、極めて重要な会合が開かれた。ブルースはアーティストであり、弁護士、実業家、出版者、そしてコレクターでもあった。万能型で実利的な彼の性質は、アーティストを助ける仕組みを生み出すのに向いていたのであろう。彼はアメリカ中から多くの美術館長を集めて丸一日におよぶ会議を開き、それにはエレノア・ルーズベルトも参加し、(フランクリン・ルーズベルトの叔父である)フレデリック・A・デラノが議長を務めた。ここで、初の連邦芸術プログラムである公共美術作品計画(PWAP)が策定された。公共建築のための彫刻や壁画装飾といった委託料を通じてアメリカ人アーティストに仕事を提供することを目的とした計画である。ベックは次のように総括する:
PWAPは、連邦救済プログラムのひとつとして、連邦緊急支援局から配分された資金をもとに財務省調達部門によって運営された。ワシントンのスタッフが中心となり、美術館職員などから構成される16の地域ボランティア委員会の助力を受けて、ディレクションを行った。プログラムの広義の目的は、(1)政府による芸術支援の民主的な方法を確立し、(2)全国の芸術活動を分権化し、(3)若く無名な才能の台頭を奨励し、(4)一般市民の芸術理解を深め、(5)アーティストとその社会環境のより密接な相互関係を促進することであった(*5)。
PWAPは1934年に終了し、その後ふたつの独立したプログラムに取って代わられた。ひとつは、またもブルースの監督下にあった絵画彫刻セクション(後に美術セクションとなる)と呼ばれるもので、財務省の救済資金の枠組みから外れて恒久的な機関となった。匿名の自由競争を通してプロのアーティストに公共建築の装飾を委嘱する組織で、社会における芸術への関心を高めることが狙いであった。
アーティストで壁画家のジョージ・ビドルは1940年にこう書いている。「800に近いアメリカの都市で600人以上のアーティストが雇用されたわけだが、納税者には1セントの追加費用もかからなかった。議会で可決された建築予算が運営資金として割り当てられたからだ」。ビドルはまた、「開かれた競争による選定のポリシーと、分権化(それは建築プログラムのほぼすべてが地方の小さな町で実施されたという事実からも明らかである)との組み合わせが、思うに、このセクションの最大の貢献であり、もっとも健全な影響だ」とも述べている(*6)。
ふたつ目は、ホルガー・ケイヒルのディレクションのもと実施された連邦美術計画(FAP)と呼ばれるプロジェクトだ。公共建築や道路、その他大規模な工事などの公共事業を通して数百万人の失業者を雇用したニューディール政策期の政府機関である公共事業促進局(WPA=Works Progress Administration、1939年に Work Projects Administration と改称)の一部で、美術、パブリック・アート、ポピュラーアート、工芸、そして民芸の橋渡しをすることを意図していた。美術セクションの主な課題のひとつとして、アーティストたちへの支払いが複数回に分割されていて、その都度承認しなければならないという点があった。そのため、アーティストが壁画を完成させる際に、リスクを避けて妥協しがちになってしまったのだ。いっぽう、FAPではすべての参加アーティストが給与を受け取っていたので、それほど監督する必要がなくなった。
ケイヒル曰く、「アーティストと公衆との関係を回復するために、民主的かつ参加型の偉大な文化プログラムを組織するのは、私たちの時代の役目である。大恐慌こそが、プログラムが回りだすために必要なショックであり、組織化された共同体の干渉なしでは、芸術が何世代にもわたって抜け出せなくなるような暗黒時代に突入するであろうことが明確となった」(*7)。
ジョージ・J・マヴィリアーノも示しているように(*8)、FAPは4つのカテゴリーに分けられ、そのすべてがアーティストと公衆との間にある分断を埋めることを目的としていた:
1. 美術:壁画、彫像、画架絵画、グラフィックアート
影響範囲がもっとも広かったのは壁画である。ビドルの言葉を借りれば、「壁画芸術がその最大の表現に達するとき、そこには常に普遍的な宗教があった──つまりそれは、アーティストが社会の全階層と共有する共同の社会的信念や目的である」(*9)。
2. 実用芸術:ポスター、写真、アメリカのデザインに関する目録、工芸品、ジオラマ、舞台装置
『アメリカン・デザインの総目録』は、19世紀アメリカの装飾芸術や民芸を百科事典的に調査したもので、工芸品や織物を描いた1万8千以上の図版が収録されている。
3. 教育サービス:ギャラリー、アートセンター、芸術教育、研究、情報
4. 技術スタッフおよびコーディネーター
ケイヒルのもっとも重要な発明は、100以上のコミュニティセンターを創設したことだ。それらの施設は世代を超えて人々をつなぎ、より多くの人たちにとって芸術をアクセスしやすいものにした。マヴィリアーノは次のように書いている:
コミュニティアートセンターは、限られた人のみが芸術を理解できるといった奇妙な概念を打ち破るのに一役買った。ますます多くの人たちが娯楽としての芸術の価値を見出すようになり、プロのアーティストと一般の人々とのつながりができることで、コミュニティにおける芸術の領域が広がった。それまで芸術および芸術への関心が薄かったアメリカの地域に芸術を導入する手段として、これらのプログラムは機能していた(*10)。
ビドルにとって、FAPの成果は、美術セクションよりも劇的なものだった。FAPは、5000人以上のアーティストを雇用し、1400点以上の壁画を制作した。5万枚以上の絵画、ならびに9万枚の印画、3700点の彫刻、そして3万枚のポスターの複製95万枚以上が、アメリカのパブリックコレクションに収蔵された。
ジョン・デューイから学ぶ──プラグマティズムの再考
あたかも隔離された場所で自己肥大していく根のない植物のように、芸術は放っておいてもなんとかなるものだという説がある。芸術支援が限りなく縮小される今のような時代においてはとくに、社会が組織立てて何かをする必要はないと、多くの人は思いたいであろう。たとえどんなことが起ころうとも、屋根裏部屋で飢えに苦しむアーティストの数人かは、芸術の命を守り抜くだろうというのだ。しかし、この説が成立しないことは火を見るよりも明らかだ。 ──ホルガー・ケイヒル『New Horizons in American Art』(1936)
ジャーナリストとしてキャリアを始めたホルガー・ケイヒルは、もともと、伝説的な書籍『有閑階級の理論』(1899)の著者であるソースティン・ヴェブレンのもとで経済学を、ホレイス・カレンのもとで美学を、そしてジョン・デューイ(1859〜1952)のもとで哲学を学んでいる。彼はその後、美術館で豊かな経験を積んでいく。ニューアーク美術館(アートとコミュニティのプロジェクトを主唱したジョン・コットン・デイナ館長が彼のメンターであった)に勤めたのちに、アメリカ近代美術館に移り、1935年にFAPのディレクターになるまでそこで働いた。彼はアメリカの芸術に新しいムーブメントを起こすべく意図的に動いていたと、マヴィリアーノは指摘する。彼の行動計画は、アーティストの作品を社会のメインストリームに再導入するためのフォーラムを創設することから始まった。デューイの哲学を用いて、このふたつを首尾一貫した全体に統合しようと試みたのだ。
マヴィリアーノは、デューイの80歳の誕生日にケイヒルが語った言葉を紹介している。ケイヒルが強調したのは、日常のなかに芸術を見出し、芸術と社会をつなぐことにデューイが与えた価値だ。彼は、芸術を通常教育の余分なお飾りとして見るのではなく、参加により体験されるべきものだと信じていた。ケイヒルはこう述べている:
間違いなく、芸術は人生に無関係な付属物やたんなる装飾品ではない。本当の意味で、芸術は利用されるべきだ:人間としての経験における物事や質感そのものと織り合わされなければならない。そのことによって芸術は、人生体験をより強烈で、深く、豊かで、鮮明で、一貫性のあるものにする。これは、アーティストが社会との関わりにおいて自由に働き、彼らが提供するものを社会が欲するときにのみ、可能になる(*11)。
まさに、「哲学的なアイデアは行動計画に翻訳されるのが常であり...哲学者の思想は日々のありふれた体験に入り込んでいくという事実」(*12)が、師であるデューイから受けたインスピレーションだったと、ケイヒルは書いている。
ケイヒルはデューイの著作『経験としての芸術』(1934)に刺激を受けた。この本は、芸術の民主化のためのマニフェストのように読めて、私の「Do It」プロジェクト(*13)の主なインスピレーションのひとつにもなっている。デューイは『経験としての芸術』のなかで、「資本主義の発展によって、芸術作品にとってふさわしい住処として美術館が振興されるようになり、それらの作品は庶民の生活からかけ離れたものだという考えが普及した」(*14) と説明する。芸術作品によって洗練され強化される体験と、日々の出来事によってかたちづくられる私たちの体験との間に、連続性を取り戻したいとデューイは考えていた。
ジリアン・ルッソが書くように、ケイヒルはデューイの『民主主義と教育』(1916)にも触発されている。これは、物質世界よりも先にアイデアが存在するというヘーゲルの観念論に反対する彼の立場をまとめた本だ。デューイはむしろ、環境が──コンテクストとの関わりが──現実を生み出し、アイデアにかたちを与えるといった唯物論を好んでいた。デューイは言う。「まず最初に考慮すべき重大な事柄は、生活は環境において進むということだ:ただたんに生活が環境のなかにあるというだけでなく、環境があるからこそ、生活がある。環境との相互作用を通して生活になるのだ」(*15)。 ルッソが指摘するように、「改革を実行に移すためには、哲学が実際に適用され、試され、積極的な参加者を得る必要があると、デューイは考えていた」(*16)。 そしてそれはまさに、ケイヒルがFAPで行ったことだ。巨大で具体的で実用的な実験室において、デューイのアイデアを適用し、広めたのだ。
芸術作品を通してのみ、人間同士の完全なコミュニケーションが可能となり、芸術を通してのみ、経験の共同体を持つことができると、デューイは考えていた。この経験の共同体というアイデアをもって、次にヨーロッパに目を向けてみよう。ケイヒルがアメリカでFAPの急進的な実験を始めていた1920年代と30年代、ヨーロッパではアレクサンダー・ドルナーがハノーファー州立美術館の館長として実験を行っていた。その後ナチス・ドイツから逃亡したドルナーはアメリカに移り住み、そこでデューイと友好を結んだ。デューイは、ドルナーの『<美術>を超えて』(1947)に序文を寄せている。
ドルナーの重要性は、美術館の役割や機能を今日的な定義に革新したことにある。それはつまり、実験室、そして発電所=Kraftwerkとしての美術館だ。ドルナーは様々な場で、美術館について次のように書いたり語ったりしている:永続的に変化する状態にあり;ものとプロセスとの間を行き来し(「プロセスというアイデアは、私たちの確実性のシステムにすっかり染み込んでしまった」);複数のアイデンティティを抱える場で;先駆者であり──能動的で、遠慮せず;相対的な(絶対的ではない)真実であり;美術史のダイナミックな概念に基づいていて;しなやかで、つまり融通のきく建物で柔軟な展示を行い;アーティストと様々な科学分野との間に架けられる橋である(「人生の異なる領域を検証することなしに、現在の視覚作品にとって有効な力を理解することはできない」)。
秩序と安定性を強調する古典的で伝統的な展示は、私たちの──変わりやすく不安定で、過剰なほどの選択肢があり、決して予測しきれない──生活や社会環境を反映していないということを、ドルナーはよく知っていた。
結末
真珠湾攻撃後、アメリカは第2次世界大戦に突入し、保守的な連邦議会は次第に政府による芸術プロジェクトに反対するようになった。それまでの5年間にわたった芸術支援は驚くほど生産的で、何千ものパブリックアート作品を生み出した。107軒のコミュニティーセンターはすべての人に開かれており、そこで行われたアートや工芸のクラスに何百万もの人が参加した。地域レベルでも全国レベルでも開催された匿名のコンテストは、コミュニティ意識を生み出した。何百万の観客が訪れる展示が開催され、美術館のない地方に住む多くの人にとって、オリジナルな芸術作品を経験する初めての機会となった。政府のプログラムによる多数のイニシアティブを通して、若いアーティストたちがさもなくば貧窮していたであろう環境でも働く機会を得た。そしてそれは、次の10年間に創造的な才能が爆発的に生まれるきっかけとなった。スチュアート・デイヴィス、マースデン・ハートレー、アーシル・ゴーキー、フィリップ・ガストン、ウィレム・デ・クーニング、リー・クラズナー(彼女はWPAが彼女の命を救ったと発言している)、ジェイコブ・ローレンス、ノーマン・ルイス、アリス・ニール、アド・ラインハート、そしてマーク・ロスコは、みな、絶望的な状況にあった彼らのキャリアにおいて決定的な初期の段階でFPAの計画が実施されたことの恩恵を受けている。
現在、世界は極度の危機に瀕している。アーティストにとっても、誰にとっても、不安定で危うく、深刻に憂慮すべき今という時期にこそ、WPAに匹敵するスケールの芸術救済対策が至急必要である。これは経済を支えるという意味でも、アーティストを支えるという意味でも、非常に重要だ。特に美術館は、展示壁を超えて人々とつながる方法を考えなければいけない。この時期にアーティストと文化を支えるのは、公的な機関のコレクティブな役割だ。芸術機関が自らのプラットフォームをアーティストに開くとき、世界の悲惨な問題の多くを、誠実さと希望を持って深く掘り下げられるようになる。世界がアーティストを必要とするときがあるとしたら、それは今だ。
ウイルスの余波のなかで世界が自身を再建しようとするとき、都市も進歩しなければならない。地域も進歩しなければならない。国々も進歩しなければならない。そして政府はそのためのインフラを整えなければいけない──何百万もの新たな雇用とビジネスチャンスを生み出すための転換に、様々なコミュニティを巻き込むということだ。
グリーン・ニューディール
ルーズベルトによる政府主導の芸術支援プログラムを現代のツールボックスとしてとらえ直し、新ニューディールについて考える際に、ジェレミー・リフキンの本『グリーン・ニューディール』(2019)を参照してみると興味深い。ここでリフキンは、気候変動に対処し、経済を変容させ、ポスト化石燃料時代のグリーンな文化を創り出す緊急プランを提案している。大恐慌下のニューディール政策による動員と大規模な連邦プログラムが、政党の差を超えて支持を得て、そのインフラを第2次産業革命に参入させたように、グリーン・ニューディールはすべての電力を再生可能な資源から起こし、雇用を作り、新たなグリーン経済の研究を促進する。
今はもちろん1930年代とは時代が異なる。リフキンも指摘しているように、アメリカ全土に安価な水力電気を提供するために連邦政府が巨大なダムを建築して管理するといったルーズベルトのニューディール政策をコピーするわけではない。21世紀のためのグリーン・ニューディールは、ローカルに発電される再生可能エネルギーを中心として、Wi-Fiなどを通して境界を超えて連携する地域的なインフラのネットワークによって運営される。21世紀には、世界のすべての州も都市も国も、環境に優しく回復力のあるエネルギーを自給自足することが比較的可能になる。産業革命のインフラは、横方向に拡張し、多数の小規模なプレーヤーを巻き込むことで、最も効果的に効率よく機能する。グリーン・ニューディールは、このような横につながる複数の協同組合を必要とする。それらのすべてが協働することで、ゼロに近い限界コストとゼロに近い二酸化炭素排出量を達成するスマートでグリーンな第3次産業革命が起こる。
終章:APG/バーバラ・ステヴィニーとジョン・レイサムから学ぶ
今この時期に、いかにしてアーティストを支援すべきかという議論に関しては、もうひとつ興味深い先行事例がある。バーバラ・ステヴィニーとジョン・レイサムによるアーティスト・プレイスメント・グループ(APG)だ。これは1965年に考案されたアイデアで、すべての組織、企業、財団、そして政府機関に(つまり民間セクターと公的セクターのどちらもに)、アーティストを変化の主体=媒介として雇うことを義務付けるものだ。このアイデアを現在の情勢に照らし合わせると、かつてないほどの意味を帯びてくる。
ステヴィニーとレイサムは、その生涯を自然科学と人文学を統合する世界観の創造にささげた。現実をホリスティックかつ直感的にとらえられる人のみが世界を変えることができると、彼らは信じていた。APGは、芸術とアーティストの影響をより大きな社会に広げていくためのイニシアティブであった。異分野間の境界を軽々と飛び越えるレイサムの姿勢は、彼が人生をかけて発展させた時間に関する哲学「フラット・タイム(平らな時間)理論」によって裏付けられている。この理論によると、私たちは、感覚と空間に偏った現在の世界観から、社会的、経済的、政治的、そして美的な構造を一連の出来事として並列し、知のパターンを記録していく時間ベースの宇宙論にシフトするという。時間と歴史を直線状で累積的なものとして理解するのは馬鹿げていると思っていた彼は、現実をラディカルに再構成する「出来事構造」を提唱した。これによって、すべての分野を包括する宇宙の理解に達することができるというのだ。
私が最初にレイサムとステヴィニーの仕事の素晴らしさに気づいたのは、1994年、ロンドン南東部にある彼らの住居「フラット・タイム・ハウス」に、アーティストのダグラス・ゴードンが連れて行ってくれた時だった。この訪問の記録は──私のアーカイブにあるのだが──ゴードンと私がレイサムに会いに向かうタクシーのなかから始まる。その会話でゴードンは、いかに彼が、レイサムが描写する「附帯の人」としてのアーティスト像に影響を受けたかを話している。レイサムは、社会におけるアーティストの役割はまさに新たな考え方を創造することだと考えていた。この「附帯の人」としてのアーティストこそが、社会の重要なポジションにアーティストを配置するというAPGのミッションを実証していた。これが意味するのは、社会における枠組みや名称はそもそも流動的だということであり、ゴードンはとくにこの点に惹かれていた。つまり、「私たちはだれも、今いる時空に縛られる必要はない」のだ。これは革新的なアイデアである。なぜなら、変化は可能で、その変化はすぐにでも起こせることを示しているのだから。
私たちがレイサムとステヴィニーを訪問したとき、彼らはまるでレヴィットを復唱するかのように、ある日大きな社会経済危機が訪れるとしたら、APGのアイデアがとりわけ重要になるだろうと言っていた。もしすべての政府組織とすべての一定規模の企業組織がアーティストを雇用したら、ルーズベルトのニューディールと同じくらいの職を生み出すことだろう。
私はいつも、未来をどのようにかたちづくるかを考えるとき、アーティストを指針にしている。そして、どうしたらアーティストの主体性を高め、その力を活かすことができるのか、彼らの意見に耳を傾けている。私が彼らから学んだことのいくつかを、実践に移したい。危機に直面する今、私たちは、アーティストのアイデアやビジョン、そして社会への視点を、かつてないほどに必要としている。得てして、アーティストこそがもっとも大切で予見的なアイデアを有しているからだ。
*1──https://www.greybriefings.com 参照。
*2──ノア・ラフォードとシュモン・バザールの紹介による。
*3──1932年5月22日、ジョージア州アトランタのオグルソープ大学で行われたフランクリン・デラノ・ルーズベルトの演説。
*4──Robert C. Vitz, ‘Struggle and Response: American Artists and the Great Depression’, Labour History 57 ( January 1976).
*5──Erica Beckh, ‘Government Art in the Roosevelt Era’, Art Journal, vol. 20, no. 1 (Autumn 1960), pp. 2–8.
*6──George Biddle, ‘Art Under Five Years of Federal Patronage’, The American Scholar Vol. 9, No. 3 (Summer 1940), pp. 327–38, p.329.
*7──George J. Mavigliano, ‘The Federal Art Project: Holger Cahill’s Program of Action,’ Art Education, vol. 37, no 3. (May 1984), p. 27 (originally from 1944)に引用されているホルガー・ケイヒルの言葉。
*8──George J. Mavigliano, ‘The Federal Art Project: Holger Cahill’s Program of Action’, Art Education 37(3) (1984).
*9──George Biddle, An American Artist’s Story (New York: Little Brown, 1939), p. 264.
*10──マヴィリアーノ、前掲書、pp. 26–30。
*11── Jason E. Hill, Artist as Reporter: Weegee, Ad. Reinhardt, and the PM News Picture (Oakland, CA: University of California Press, 2018) p. 48に引用されているホルガー・ケイヒルの言葉。
*12──Holger Cahill, ‘American Resources in the Arts,’ in Art for the Millions: Essays from the1930s by Artists and Administrators of the WPA Federal Art Project, ed. FrancisV. O’Connor (Boston: New York Graphic Society, 1973), 33.
*13──「Do it」は、1993年パリで、ハンス・ウルリッヒ・オブリストとアーティストのクリスチャン・ボルタンスキー、そしてベルトラン・ラヴィエとの会話から始まった。きっかけとなったのは、アーティストによって書かれた指示書を出発点とする展覧会を作ることができるのかという問いである。それらの指示書は毎回新たな解釈によって実現される。これまでの27年間で、184回の「Do it」の展示が開催されている。
*14──Jillian Russo, ‘The Works Progress Administration Federal Art Project Reconsidered’, Visual Resources, issue no 34:1–2, 2018, p. 19に引用されているジョン・デューイの言葉。
*15──同上、p.18。
*16──Jillian Russo, ‘The Works Progress Administration Federal Art Project Reconsidered’, Visual Resources, issue no 34:1–2, 2018, p. 18.