さらば、全てのアヴァン……
1994年の旧訳から27年、改めて原題に即したかたちに訳された本新訳の副題「モダニズムの神話」──原題では「神話たち(Myths)」──こそ、今回のクラウスの攻撃の目標だ。作家、作品のオリジナリティ、キャリア、媒体たとえば絵画等々が一貫して立派にまとまっている(有機的)ことの根源が作品の深部に眠っている、批評はそれにふれる、というシナリオ。対して本書の全エッセイは、現行の芸術に即す新たな語り口を探す。神話解体。第1部では複数的なもの、オリジナルなきもの──「私生児」──として〈写真〉が召喚され、第2部では、指標的記号たる写真が刻印されるプロセス、表面でずらす操作、そのずれに論点が移る。前者の代表が「写真の言説的空間」、後者が「指標論」。折返し地点に置かれた標題論文で攻められるのはオーギュスト・ロダンについての教条的な定説=信念──いわばドグマだ。
──と、『エヴァンゲリオン』じみたあらすじで始めるほかない。なぜなら『アヴァンギャルドのオリジナリティ』が今日その批評的なアクチュアリティを向けうる対象とは、あらゆる作品を自身の嫡子と(レジティメイト)する語り、いわば父から息子への〈一子相伝〉、あの映画後半のだらだらと言い訳じみた(そのうえ女性キャラクターたちの口に転嫁さえされる)「ステートメント」、付和雷同、声、ひっくるめて〈モノローグ的なもの(the monological)〉と言えるからだ。
後年の著作『視覚的無意識』(1993)における私信や引用の交雑ほど顕著ではないが、ロダン研究者から届いた反論を紹介・〈返信〉した「敬具(シンシアリー・ユアーズ)」、ソル・ルウィット論とベケット『モロイ』からの一節とが交互に挟まる「ルウィット・イン・プログレス」、メディウムの〈別の逢い方〉への脱出を疑似数学的に実演する「展開された場(フィールド!)における彫刻」といったテクストは、非モノローグ的な批評、クラウスが本書最終章で呼ぶ「準文学的な(paraliteral)」実践の端緒だ。
「少年」は依然時代遅れの呪いである。本書は「代置と転位の世界」(384頁)──あらゆるものに代わりがいくらでもいるこの世界の諸条件に根ざして書かれている。
(『美術手帖』2021年6月号「BOOK」より)