誌面での論争はいかに始まったか
いまでこそ『美術手帖』は美術の「現在」を伝える専門誌として知られているが、意外にも1948年の創刊当時は「手帖」という名が連想させるように、美術の入門誌としてスタートしていた。その色合いを残しながらも、以後「現代美術の雑誌」へと舵を切っていった分水嶺にあるのが本臨時増刊号である。
本号が刊行された57年は、ミシェル・タピエの来日によって日本の美術界に「アンフォルメル旋風」が吹き荒れ、読売アンデパンダン展が「反芸術」の牙城として急進化し始めた時代だった。誌面は大きく3章に分かれており、第1章にはアンフォルメル旋風を手引きした岡本太郎の評論「現代美術の背後にあるもの」があてがわれている。続く第2章の「現代美術の世界の状況」ではピカソからポロックに至るまで、当時最新の現代美術がカタログ的に紹介される。それはあくまでも総花的な紹介であり、それ以前の「手帖」的な性格が色濃く反映されているが、問題となるのは続く第3章である。
国外の巨匠が淡々と並べられた前章に対して、第3章の「現代作家の制作方法」では、国内の現役作家8名の制作が、生々しい撮り下ろし写真と作家自身の言葉によって紹介される。そのなかには本号の中心人物である岡本も含まれるが、注目したいのは駒井哲郎と河原温のパートだ。
まず、岡本は自身のパートのなかで「芸術の衝動」の重要性を説き、それゆえに「あらゆることを私はやる」と高らかに宣言している。こうした主張は当時岡本が各所で繰り返していたものだが、まるでその内容を予期していたかのように、駒井は「純粋に自分のやりたい仕事だけをやっていられる人は、幸運」と辛辣に述べる。さらに最若手にあたる河原は「岡本太郎さんの対極主義についての私のささやかな意見をのべてみたいと思います」と切り出すとともに「対極主義とその実際の作品との関係、対極主義の理論的構造については、まったく意見らしい意見もだされていない」「対極主義理論そのものにも多くの欠陥があった」などと歯に衣着せぬ論戦をけしかけている。
もちろん、このように論争的な状況は編集側が企図したものではなかった。そうではなく、各作家へ平等に誌面が与えられたことで可能になった「アーティストの暴走」だったのである。「手帖」らしいフラットな構成だからこそ生まれた「手帖」らしからぬ不穏な雰囲気──『美術手帖』を現代美術の最前線へと押し上げた契機には、こうした想定外の空気があったのだ。そしてじつのところ筆者は、現在の『美術手帖』からはこうした「暴走」が消えつつあり、57年より前の「手帖」へと戻り始めていると感じている。
(『美術手帖』2024年4月号、「プレイバック!美術手帖」より)