いま問い直される「公共」 、90年代に見るその起源
1996年10月に出された本特集は、阪神淡路大震災の記憶も生々しかった当時、急速に変化していた都市空間、情報空間、そして国際芸術祭といった新しい公共空間パブリックスペースに対して、「パブリック・アート」というキーワードを媒介してアプローチしている。
とくに注目したいのは、96年に東京都主催で開かれた「アトピック・サイト」展のレポートだ。柏木博をチーフキュレーターに迎え、岡﨑乾二郎、四方幸子、建畠晢、高島直之がキュレーターとして加わり、40名以上のアーティストが参加、「都市とアート」や「社会とアート」をテーマにした展示が行われた。だがその先駆的な内容とは裏腹に、東京都による表現規制、展示物のわいせつ騒動、地域アート的なプロジェクトにおける住民とアーティストの確執など、現代に通じる様々な問題の原型も噴出した。紙幅の都合上、ここでその詳細を記すことはできないが、一連の問題には共通して「表現を成り立たせるための工夫」が不足していたと指摘することができる。
特集の冒頭にインタビューが掲載されている北川フラムは、おそらくそうした「工夫」の必要性を誰よりも早く実感していた人物である。当時は北川が「越後妻有アートトリエンナーレ」の実現に向けて動き出していた時期にあたるが、先行するファーレ立川のプロジェクトを振り返りながら、その準備段階で(運営にとっても表現にとっても)市民を味方にするプロセスがいかに重要であったかを語っている。ここで興味深いのは、既存の美術界が「文部行政とヒエラルキーに守られたリアリティのない場」であるため、そうではないリアルな場を求めて、彼が「芸術祭」という新たな公共圏の創出へと向かいつつあったことが言葉の端々から読み取れることだ。
また、それとは異なる視点で書かれた岡﨑乾二郎の寄稿文も興味深い。岡﨑は、問題発生の温床にはアートが社会システムに実装される過程で生じるズレがつねに存在していること、そして「芸術」の名のもとには底なしの内紛が封印されていることについて語っている。しかし「社会の起源」においては、そうした内紛、質的判断が成り立たない状態こそが自然であり、そこでこそ個々人の知覚にも意味が与えられる。「アトピック・サイト」展で岡﨑がキュレーションした「オン・キャンプ/オフ・ベース」は、そうした「社会の起源」をつくり出すことを目指して行われた試みだという(そこには初期インターネットからの影響も見て取れる)。芸術祭やネット環境をめぐる状況は、その後今日に至るまでめまぐるしく変化していくこととなるが、本特集で紹介されている実例は、いずれもその起源というべき豊富な思考の足跡を垣間見させてくれる。
(『美術手帖』2020年4月号より)