プレイバック!美術手帖
1967年9月号
特集「裁かれる今日の芸術」

『美術手帖』創刊70周年を記念して始まった連載「プレイバック!美術手帖」。美術家の原田裕規がバックナンバーから特集をピックアップし、現代のアートシーンと照らし合わせながら論じる。今回は1967年9月号の特集「裁かれる今日の芸術」を紹介。

文=原田裕規

1967年9月号特集「裁かれる今日の芸術」内、中原佑介文「模型千円札事件──芸術は裁かれうるか」より(P66-67)

 1967年6月、東京地裁は赤瀬川原平に対し、通貨及証券模造取締法違反の罪で有罪判決を下した。俗に言う「千円札裁判」である。「裁かれる今日の芸術」と題された本特集は、この判決から3ヶ月後に刊行された。特集では、千円札裁判のみならず、チェリストのシャーロット・モーマンが公然わいせつ罪で逮捕された「トップレス・チェロ演奏会事件」、ジム・ダインやヘルマン・ニッチェらが罪に問われた猥褻事件などの「芸術裁判」が取り上げられている。

 特集の主要な書き手である中原佑介は、この「芸術裁判」という言葉を指して、次のように書いている。「『芸術裁判』とは、法律を楯にとって芸術を裁くことをいうのではない。法律が芸術を問題にしないという点が特徴なのである」「つまり、『芸術裁判』とは、はじめから芸術を芸術ならざるものとして取扱い、裁くもののことなのだ」。

 この流れのなかで中原は、「芸術だから無罪である」と述べるのではなく、芸術の論理と異なる論理(例えば、生活の論理)を区別することに多くの紙幅を割いている。その作業が必要とされた背景には、千円札裁判において、一審の検察官が論告で「芸術評価は犯罪既遂後の情状にすぎない」と述べた事実がある。再び中原の言葉を借りるならば、この検察の認識からは、芸術が「大目にみてほしい」と主張するための要素くらいにしかとらえられていないことがわかる。つまり、検察に代表される多くの非専門家にとっての芸術観が、「うまい」「きれい」「心地よい」などの言葉に代表される──戦後、岡本太郎がまっさきに破壊しようとした──旧い価値観からいまだに更新されていないことが示されているのだ。

 なぜ、これらの価値観はしつこく残存しているのか。それは、「うまい」「きれい」「心地よい」などといった評価軸が、いずれも経済の論理と容易に結びつきうるものだからだ。例えば、一見して芸術が世間から受け入れられているように見えたとしても、実のところその内実は経済活動でしかないという状況も数多く存在している。ゆえに、こうした生活の論理とは異なる論理、そして、それに基づく独立した経済圏が確立されることなしには、芸術に対する認識が更新されることもありえないのだ。2019年現在でも、依然として「裁かれる芸術」には、これと同様の作業が必要とされている。別の論理と、それに基づく経済圏、つまり、自由なイマジネーションが担保される空間を確立すること。そのためのしたたかな「政治」こそが、いまもなお芸術には欠けているのではないだろうか。

『美術手帖』2019年12月号より)