「マリリン効果」:フィリップ・パレーノの大作《マリリン》を読み解く

ポーラ美術館で現在開催中の「フィリップ・パレーノ:この場所、あの空」。この展覧会でも中心的な存在と言える映像作品《マリリン》(2012)を、パリ国立高等美術学校教授のクレリア・ゼルニックが読み解く。

文=クレリア・ゼルニック(パリ国立高等美術学校教授) 訳=中野勉 監訳=ポーラ美術館

展示風景より、フィリップ・パレーノ《マリリン》(2012) ©︎Andrea Rossetti

 その映像作品はたんに《マリリン》と題されている。「マリリン・モンロー」ではない。つまり1962年8月4日から5日にかけての夜、自殺か定かではないが、遺体で発見されたファム・ファタール(魔性の女)を体現するあの映画スターとは違うということだ。ただ「マリリン」とだけ言った場合、その言葉が指すのはおそらく、むしろ「マリリン効果」、あるいは「マリリン現実」とでも呼ぶべき何かである。「マリリン」は映画フィルムに投映されたイメージ、幻想、影でありながら、過剰なまでの存在感を放つ身体をもつアイコンでもある。彼女はこの2つの様態のあいだを絶えず揺れ動き、とらえどころがないが、私たちの世界のあり方についてなにがしかを告げるものでもある。世界とは裏面をもつ入れ子構造だ、と彼女は言う。フィリップ・パレーノにとって「マリリン効果」とは、世界が脱現実化していくことの別名にほかならない。

ダブル

 1959年、マリリン・モンローはこう書きつけた。「私はひとつの幻想だ」。つまり自分はイメージ、シミュラークル、事物の裏面である、と言ったのである。それはマリリン・モンローからはがし取られた薄い膜のようなものだ。フィリップ・パレーノが映像作品《マリリン》(2012)で舞台に載せてみせるのは、まさしくそのような膜である。ポーラ美術館で開催中の展覧会で同作は、パレーノが提案する入れ子状の思索を補強するまったく新たな会場構成の一環として展示されている。

 初めにダブルがある。2という数字は左右対称を成しつつ、現実の中に一つの断層を開き、このうえなく具体的な現実のただなかにひとつの亀裂を開く。〔ボイスオーバーで流れる〕アルゴリズムを用いて再現されたマリリンの声は彼女の官能性を余すところなく伝えるが、一本調子で無個性でもある。このようにして声は見る者とのあいだに距離を置き、ある現実の空間を即物的に、あくまで即物的に描写していく。描写されているのはウォルドーフ・アストリアの一室。まさしくマリリン・モンローが1950年代に暮らしていたホテルだ。だがこの即物的描写のただ中にそれを攪乱する要素が生まれてくる。どもり、二重化が口を開ける。「真鍮のランプが2台」「開口部が2つ」「クッションが2つ」「グラスが2つ」「部屋は実際には2つ──27号室と28号室」〔訳註:ポーラ美術館の展示では日本語字幕が用意されている。ここでは文脈を考慮して訳文を一部改変した〕。窓が2つ、空間が2つ。空間はそれ自体が2つの部屋に増殖しており、マリリンがノーマ・ジーンとマリリン・モンローという2つの名を持っていたこと、グラマーな表層に包まれたフィルム上のアイコンであり、かつ傷つきながらも生き抜こうと試みるごく普通の女性であるといったように、彼女が2つの人格を具えていたことを反映する。ロボットアームがマリリンの綴った字を再現するが、文字はそれ自体増殖し、調子が狂い、故障し、どもり、抹消する。スタンリー・キューブリックの『シャイニング』では、同じ文言を機械のごとく繰り返し書く行為が狂気の訪れを表していた。『マリリン』でも増殖と反復は、一見ぴかぴかのこの【場景】(ルビ:デコール)が、落ち着いた色調にもかかわらず、ねじれ、ヒビ割れつつあることを明かす。

フィリップ・パレーノ マリリン 2012

裏面

 見たところいかにもぴかぴかしたこの現実にマリリンの声が対峙し、描写し、そこに置かれた物体を二重化させていく。じつをいうとこの現実は薄っぺらな外被にすぎない。それが覆っているのは、世界とのつながりを失ってしまったひとつの世界だ。マリリンの声が身体を欠いているのとまったく同様に、じっさいには2つの部屋から成るこのホテルの部屋は、身体、肉、重みを失ったひとつの世界の場景、外被、シミュラークルに変わる。とすれば身体を欠いたこの声は亡霊であり、かつてあった何かが消え去ってしまった場をふたたび訪れているのである。実質が抜き取られると現実は、アウラを、光をまとい、映画になる。フィリップ・パレーノの映像作品の魔術とはまさしく、現実から中身を抜き去ると同時にイメージを創造する点に存している。マリリンというパラドクスが位置するのは、おそらくこの点だ。「私は幻想だ」と1959年にマリリンは言った。幻想とはつまり、非現実の存在、アウラとしてのイメージ、この2つの組み合わせである。現実の身体がその場から姿を消しつつも、取り憑き、圧倒し、つきまとう──それが映画の力、とりわけハリウッドという夢を製造するあの機械の力だ。フランスの哲学者ジャック・デリダが言っていたように、「映画とは亡霊を立ち戻らせる【芸術】(ルビ:わざ)である」。亡霊とはつまり、幻想であると同時に、きちんと解消されていない過去に苦しめられている存在たちのことだ。ここでのマリリンはじっと動かない〔訳註:原文はsage comme une image. 直訳すると「【絵】(ルビ:イメージ)のごとくおとなしい」〕と同時に、亡霊のように、決して得られぬ休息を求めて彷徨っている。

 それだけではない。このホテルの部屋のきちんと片付いた現実が、二重化されることで揺らぎ、AI──身体を欠いた魂、すなわちまさしく亡霊と呼ぶべきもの──のテクノロジーを介して強迫観念がそこに忍び込んでくるとすれば、この侵入によって内部と外部、身体と精神、覚醒状態と悪夢との境界線は完全に消滅する。

「巷に雨の降るごとく わが心にも雨が降る」

 整然としたこの部屋にひとたびヒビが入り、その核心部で二重化が始まると、すべてが一種の根本的などもりにとらわれて揺らぎだし、あらゆるカテゴリー分けが消滅する。月並みといえば月並みだが、この消滅は雨という形をとって進行する。激しい雨がホテルの部屋の窓の向こう、ニューヨークのビル群のファサード上を流れ落ち、物の輪郭や線を溶解させる。フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌのよく知られた詩句にならって言わねばなるまい──「巷に雨の降るごとく わが心にも雨が降る」。つまり、雨は客観であると同時に主観である。声は揺るがないのに対し、この場景の中のすべては震える。残っているのは情動という覆い、悲しみあるいは恐れの塊ばかりだ。イメージは脱現実化され、もうひとつ別の現実へと私たちを投げ込む。対象なき苦しみ、生きにくさ、承認欲求等々、いずれも具体的な内容を欠いてはいるが、否応なしに苛酷で圧倒的な経験である。豪奢、栄光、成功は薄まり、水を浴びて黒い雨が斑染みをつけたかのような場景よろしく崩壊する。残るのは対象なき怒り、神経症という「心理」だけだ。紙に〔ロボットアームが〕猛然とペンをふるって顔をいくつも落描きしていく。それらはまるで、ここにはいないマリリンの身体、顔をかたどっているかのようだ。虚ろな目をしたモジャモジャ頭の顔たちは、リアルであると同時にコンピュータ生成の、現前していると同時に不在の、あるいは馴致されたマリリンにかたちを与えるのである。

展示風景より、フィリップ・パレーノ《マリリン》(2012) 
©︎Andrea Rossetti

腹話術

 だからマリリンの声は、あたかも彼女のものであると同時に他の誰かのものでもあるかのようだ。まるで誰かが彼女になりかわって喋っているかのよう、マリリン自身のイメージが腹話術よろしく彼女をとおして語るかのよう、マリリンは自分自身の亡霊に取り憑かれているかのようなのである。映画『ゴーストダンス』(ケン・マクマレン監督、1983年)に向けて撮影された際にデリダは、彼自身の亡霊、彼が自分について持っているイメージ、他者たちが彼について持っているイメージが、腹話術よろしく彼をとおして、彼になりかわって語るままに任せたのだと述べる。「映画とは亡霊 fantômes を立ち戻らせる芸術である」、つまりイリュージョンの芸術であるだけでなく、私たちそして他者たちの幻想 fantaisie の産物の芸術──幻想を投影する機械なのだ、とデリダは断言する。デリダにとって、映画とは精神分析に亡霊の芸術を加えたものだ。かつ実際、フィリップ・パレーノのこの映像作品において、マリリン・モンローは精神分裂と幻想によって構築されると同時に解体されている。その際に用いられる映画的演出法は、デリダの説く脱構築の手続きの一部であってもおかしくない。陽光は照らし出すと同時に焼き焦がすかのようであり、マリリンの名声は彼女を存在させると同時に消尽させるかのようだ。

世界内世界とプラトンの洞窟

 マリリンの声はたんなるシミュラークルでしかない。ホテルの部屋は二重化して左右対称をかたちづくるが、場景に秩序を与えるどころか、この左右対称は空間をどもらせる。雨と、重くのしかかる対象なき悲しみに耐えかねて、部屋は溶解していくようにみえる。シミュラークル、身体なき亡霊から、人工物、つくられた世界、魂なき身体への移行が生ずるのはまさにここにおいてだ。カメラと機械的な声はホテルの部屋からするすると後方に退きはじめる。この移動ショットによって距離を置かれ、脱構築された部屋は、豪華だが閉ざされた空間という当初のあり方から、文字どおりの【場景=舞台装置】(ルビ:デコール)、つまり映画のセット、たんなる視覚のトリックに変わる。

 著書『国家』のよく知られた一節でプラトンは私たちの世界を、洞窟の奥の岩壁の表面に投映された影のはかない戯れとして描写している。身を縛る鎖から自分を解き放って洞窟を抜け出し、現実だと思いこんでいたものがモノたちの影の戯れ(映画?)にすぎないと理解するには、驚異的な勇気が必要だとプラトンは語る。このモノたち自体も現実ではないのだということを知り、丘の頂上に登って太陽の光、すなわち諸本質つまりイデアの光こそがあらゆるものの源泉なのだと悟るには、さらに大きな勇気が求められる、と彼は言う。映画を見る観客は、洞窟に繋がれたこの人間に少し似ている。映画の観客は、眼前の大きな白のスクリーンに映し出されるイメージの実在を信じ、スターたち、すなわち映画館というほら穴の夜を照らし出す星々の実在を信じ、マリリンの実在を信じる。外にはなかば機械的、なかば神的な装置、すなわちこの上なく強力な回照器があって上映室を照らし出し、アウラを投映し、星々やスターたちをまるごとつくりあげていること、私たち自身さえもが実質なきいつわりの物体でしかなく、なんらかの役割を演じるふりをしているが、マトリックスによって操られているにすぎないこと、それを観客たちは知らない、あるいは知らぬふりを決め込んでいる。

  では、フィリップ・パレーノの《マリリン》は私たちに何を告げているのか? 「マリリン効果」とは、現実と人工物、スターのきらめく表層と奥底に潜む狂気、女性とその裏面、外見とシミュラークルなど、いくつもの世界が入れ子になった状態のことだ。いやもっと正確にいえば、安定した現実はもはや存在せず、フィルム上でイメージがちらつき、どもりながら、現実を崩壊させ幻想を繰り広げるばかりである。マリリンは存在しない。ならば私たちのほうは、いったいどんな亡霊になってしまったのだろうか?

展示風景より、フィリップ・パレーノ《マリリン》(2012) 
©︎Andrea Rossetti

編集部

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