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「展覧会」を疑え。フィリップ・パレーノと島袋道浩が語るアートの在り方

東京・神宮前のワタリウム美術館で、フランスを代表するアーティストであるフィリップ・パレーノの日本における美術館初個展「オブジェが語りはじめると」が開催。1994年から2006年にかけて制作された作品(オブジェ)が再構成されて並ぶ本展を通じ、パレーノは何を見せるのか? 来日したパレーノが親交のあるアーティスト・島袋道浩とともに「展覧会」や「アート」の在り方について語り合った。

構成=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長) 通訳=田村かのこ(Art Translators Collective)

島袋道浩とフィリップ・パレーノ。展覧会会場にて

 フランスを代表するアーティスト、フィリップ・パレーノによる日本における美術館初個展「オブジェが語りはじめると」が、東京・神宮前のワタリウム美術館で開催されている。「オブジェが語りはじめると」と題された本展では、1994年から2006年にかけて制作した作品(オブジェ)が再構成されて展示。各作品が互いに影響を与え合い、つながる空間が創出された。本展開催に際し、かねてから親交のあったアーティスト・島袋道浩とパレーノが対談。「展覧会」というフォーマットや、パレーノの作品について語り合った。

アーティストは「grammar(グラマー)」でつながる

島袋道浩 フィリップとは20年くらい前、僕がヨーロッパで作品を発表し始めた頃に出会ったんだよね。その頃から彼はフランスでとてもリスペクトされているアーティストのひとりだった。当時は他のアーティストたちも集まって、よく一緒にご飯を食べたりしていたよね。僕にとっては同じ日本人のアーティストよりも親近感を抱く、ちょっとお兄さんのような存在。

島袋道浩

フィリップ・パレーノ 「親近感を抱く」と言ってくれたのは嬉しいね。私自身、島袋の作品を見てつながりを感じていたし、作品を通じてのつながりというのは、ときに国などのつながりよりも強いものだと思うよ。

 例えば、タイのリクリット・ティラヴァーニャやイギリスのリアム・ギリック、スコットランドのダグラス・ゴードンなど、彼らの作品を通じて友情を感じることがある。そういった友情は、美学的な共通意識から生まれてくるもの。これは「grammar(グラマー)」とも言えると思う。視覚的なものを超えて、お互いを理解する「grammar」を共有しあっている感覚がある。

 物理的に近い距離にいるピエール・ユイグやドミニク・ゴンザレス=フォステルなどは友人としても近いけど、それはバケーションを一緒に過ごすという近さではなく、同じフィールドのなかで、ひとつの織物をそれぞれの作品を通じて編んでいるような近さだと思う。

フィリップ・パレーノ

島袋 興味深いのは、その共通の「grammar」が誰に習ったわけでもなく、ある時期に世界同時多発的に出てきたことだよね。

パレーノ それはおそらく、私たちがアーティストとしてつながるときは、いわゆるコミュニケーションではなく、何か別の共通理解、視点やヴィジョンを共有することでつながっているからだと思う。

島袋 不思議な感覚だし、それがアートの素晴らしいところだよね。フィリップはいまや世界でもっとも注目されるアーティストのひとりだけど、その美術館での個展がいままで日本で行われなかったことが不思議で、それは日本のアートの状況を語っているとも思う。今回、この個展を行うにあたって「日本での開催」ということを意識した?

パレーノ 日本で、ということはとくに意識しなかったかな。地理的な文脈にはあまり興味はなく、気にすることは天候くらい。

 ただ、作品を展示するスペース、空間はいつも気にかけていて、空間に呼応するように作品を見せたいとは思っているんだ。建物がどこにあり、どんな建築で、どんな空間があるのか。その中を歩いているとき、その空間がどんなふうに観客に語りかけるのか。空間に作品を置いたとき、空間と作品がどのように対話するのか。こうしたことを考えながら展示はつくるので、空間自体にはとても気をつけて考えた。

島袋 そう言うと思っていたけど、一応聞いてみた(笑)。このワタリウム美術館の建物についてはどう思った?

パレーノ いままで展示してきた空間は、どれもそれぞれの個性を持っていた。良し悪しの問題ではなくてその個性をつかむことが大事なんだ。建築は詩的なものなので、それを見せたい。例えば太陽が動いていくと作品は変化するよね。人々が普段気にかけていないそういうことに私は目を向けている。良い空間と悪い空間があるのではなく、空間は様々だということ。

フィリップ・パレーノ展会場風景 Courtesy the artist; Pilar Corrias, London; Gladstone Gallery, New York and Brussels; Esther Schipper, Berlin Photo © Yasushi Ichikawa

「展覧会(exhibition)」を疑う

島袋 今回の展示は、この年表記が重なったタイトルにも反映されているように、古い作品から最近の作品まで、違うときにつくられた複数の作品で構成されているよね。

本展メインビジュアル

パレーノ 今回の展覧会に出品した作品は、この20年でほかの展覧会でもコンスタントに見せていた作品たちだけど、一つひとつは不完全なものなんだよね。そのことを説明するために、私は「準客体」という言葉を使うんだ。

 つまり、作品そのものは準客体=不完全な状態であり、それだけでは存在意義がなかったり、用途がわからないものとして存在している。私がプレイヤーとして展覧会のなかに作品を配置して、空間として仕上げていくことで、作品として機能する。だから私は、ひとつの空間を前にして展覧会を考えるとき、まずは空間を見て、手のひらの上で作品を転がすようにして、どうすれば空間全体が機能するかを考える。

 ワタリウム美術館では階と階の間に色々な視点が存在していて、上から見下ろすときと下から見上げるときに起こる視点の分断など、様々な要素があるよね。そういったことを考えながら、それぞれの作品の配置を考えていくことで完成していくんだ。

島袋 それについて僕が思い出すのは、ハラルド・ゼーマンが言った「展覧会というのは空間の詩である」という言葉。アーティストはいろんなオブジェクトとか作品を使って、そこの空気をつくっている。ひとつの場をつくっている。

パレーノ その通りだね。数ヶ月前、ニューヨーク近代美術館のプロジェクトに携わっていたんだけど、そのときも「展覧会」という言葉について疑っていかなければならないと思ったんだ。

 つまり「展覧会」の定義というのは、いろんなオブジェや映像などを時間と空間の中に配置して、それを連続の中である順序によって見せるということで、そこには必ず「始まり」と「終わり」がある。でも、その「始まり」と「終わり」は本当に必要なのか? もし「始まりと終わりが必ずある」という考え自体を取り払い、何か別の方法で作品を提示する方法を考えたとき、それは「展覧会(exhibition)」ではなく「顕現(manifestation)」になる。ひとつの提示や語りになると思うんだ。

  「顕現(manifestation)」においては、必ず何かが起こらなければならないということではなく、何かが起こることもあり得るし、何も起こらないこともあり得る。

 例えば「かたちが出現する」ためには、「かたちが出現する」だけではかたちが出現したことにはならなくて、観客の目が「かたちが出現する瞬間」をとらえることで、初めて「かたちが出現する」ということになる。そうしたときに、何かが起きることが本当に必要なのか? もしかしたら何も起こらなくても、その「出現」は可能なのかもしれない。そうしたことを考えたととき、「展覧会」という言葉そのものもとらえ直し、「manifestation」するということに視点を移すことが、ひとつの手段としてあるんじゃないかなと思う。

フィリップ・パレーノ展会場風景より Courtesy the artist; Pilar Corrias, London; Gladstone Gallery, New York and Brussels; Esther Schipper, Berlin Photo © Yasushi Ichikawa

島袋 僕も多分似たようなことを考えていると思う。僕なりの言い方でいうと、「森のような展覧会、場をつくりたい」。「森のような」というのはどういうことかというと、どこからでも自由に出入りができて、人によって見つけるものが違う。ある人はそこで蝶が飛ぶのを見ていたり、ある人は蛇を見つけたり、またある人は枯れ葉を踏む音を聞きながらただ歩いていたり、そういう自由で開かれた空間、そういう状況をつくれないかなというのは僕が思うこと。多分それはいまフィリップが言ったことと似てるのかもしれないね。

フィリップ 展覧会をそのくらい自由に保つというのは、アーティストとしてもとても勇気が要ることだと思う。自分の展覧会であっても、観客をコントロールしたり、力を行使することをいかに手放せるか。でもいまの時代、それができるのはアートくらいなんじゃないかな。いろんな次元で、いろんな側面においてそういったことがやりにくくなっている。権威を手放せることが、アートにおける最後の砦のひとつなんじゃないかと思うんだ。

 例えば本を考えるとわかりやすいけど、本を読んでいるときは好きなタイミングで読書をやめることができるよね。でもその本を読んでいないときでさえ、その本の途中にいるときはどこかでその本のことを考えていたり、ずっとその本の世界にいるような感覚があると思う。「いつでも戻れる」と。

 アートと作品そのものもそういうふうにあるべきだと思うし、同時にその観客の鑑賞体験もそうあるべきだと思ってるよ。鑑賞者も作家と共犯者というか、鑑賞者があっての作家だし、そういう体験がアートでも重要なんじゃないかな。

島袋 本の話が出たけど、フィリップの展覧会を見るときの感覚っていうのは、いきなり本の真ん中から始まってるみたいな感じだよね。最初から始まらないから、戸惑う人もいるんだけど、考え方を変えると、前にも後ろにも読んでいける自由がある。

パレーノ その通りだね。鑑賞者も自由に空間を浮遊し、好きなものを見つけ自分の物語をつくってほしい。付け加えると、私たちは「見ることができる状態」に慣れすぎている。何かを見逃していても誰かが教えてくれることもある。「僕はあれを見たよ」「僕は見逃したな」とか。同じタイミングでみんなが同じものを見なくたっていいんだ。

 映画館に行くと、照明が消えて一斉に映画を見始めて、みんなが同じスピードで脚本に従って、同じところで笑ったり泣いたりするのはむしろ変なことじゃない? 見逃してみるのもまた一興。別の何かが現れてくるかもしれないよね。

フィリップ・パレーノ展会場風景より、《マーキー》(2016) Courtesy the artist and Esther Schipper, Berlin Photo © Yasushi Ichikawa

島袋 フィリップの展覧会を見てもうひとつ感じることは、「意味のわからない外国語を聞いているような感じがするけれど、ここには何かルールがあるんだろうな」ということ。

 例えば僕はフランス語がほとんどわからないんだけど、そこにはルールがあって、そのルールに則った美しい音だってことはキャッチできる。フィリップの作品を見たとき、僕は理解できない外国語や音楽を聞くような感じで楽しむことができるんだけど、それでいいのかどうか(笑)。ルールや裏側のコンセプトを理解するべきものなのか、あるいは感覚的に体とか耳で楽しめているだけでいいのかどうか。

パレーノ 私が島袋の作品を見るときも同じように感じているので、まったくそれで大丈夫だと思う。私も島袋の作品を「自分に語りかけている、自分のためにつくられている」とさえ感じるときもあるし。ただそれは、例えば作品の言語を理解しているとか、作品の裏を理解しているということではなくて、でも自分はこれがなんなのか「わかる」という感覚。

 どこか特定の場所から見ようとするのではなく、自分の視点を浮遊させるような感覚でいると、それが何かをキャッチできるときがある。キャッチすると、たとえ言語的に理解できなくても意味がわかったりとか、たとえそのゲームのルールがわからなくてもその作品がなんなのか「わかる」。

 それは、感覚をオープンにしていかに自分をさらけ出せるかということ。例えば建築物の中にいても空気の流れはあって、それが作品にどういう影響を与えているかということは、自分を開いた状態でいると何か語りかけてくるものがあるんだ。

 「ビジュアルアート(visual art)」という言い方もややこしいところで、例えば映画のことを考えても、ビジュアルアート自体が孕んでいる矛盾をどうしても乗り越えられていない部分がある。それはつまり、視覚的なものと言語との関係性における矛盾。自分の目で見たものと、聞いた言葉もしくは読んだりした言葉、どちらを信じるのか──その問いのなかでずっと行ったり来たりしているような感覚があって、その矛盾はつねに作品が孕んでいると思う。どちらがいいという話ではない。例えば島袋の作品についても、見る前に作品の内容を聞くことで、そのときすでに作品が見えているような感覚になったこともある。そのように作品が見えることもあるし、そうでないこともある。

島袋 フィリップはすごくコンセプチュアルなアーティストと思われているけれど、すごく感覚的なところがあるよね。音楽をつくるようにアートをつくっているような。

パレーノ そうそう、音楽とアートに違いはないと思っているからね。

作品は更新されていく

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