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地域レビュー(東京):関貴尚評 小川晴輝「Continuum」(HARMAS GALLERY)/竹村京「となりのにわ」(タカ・イシイギャラリー 六本木)

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事は、関貴尚(美術史家・美術批評家)が8月〜9月に東京で開催された展覧会のなかから、小川晴輝「Continuum」展と竹村京「となりのにわ」展を取り上げて考察する。

文=関貴尚

小川晴輝「Continuum」展の展示風景 ©Haruki Ogawa

因果の偽装、あるいはエッジ的なものについて

小川晴輝「Continuum」(HARMAS GALLERY)

 会場に足を踏み入れると、幾重にも折り曲げられた幾何学的な多面体が、壁面からせり出しているのが見える。一見するとレリーフのようだが、ギャラリーの照明に目をやれば、その光がもたらす実際の影の向きと、目の前にある深い影とが矛盾していることに気づく。

 小川晴輝は、パネル間の隙間に生じた実際の影と、絵画による描かれた嘘の影を周到に重ね合わせ、錯視を生み出す画家だ(*1)。しかし、彼をいわゆるトロンプ・ルイユやオプ・アート的な錯視の技巧に長けた画家として理解するにとどまるならば、その制作の射程を見誤ることになるだろう。2009年のデビュー以来、小川は絵画を厚みのある物体として扱い、絵画とは表面の下に隠された三次元の量塊であるという認識を作品の核に据えてきた。そこにあるのは技巧の精緻さではなく、絵画の存在様態へ向けられた、一貫した問いである。

 HARMAS GALLERYでの今回の個展は、東京ではじつに10年ぶりの開催となる。会場では2015年から継続されている「Fusion」シリーズを軸に、2019年から現在までの作品群が展示され、作家の近年の思考と展開が凝縮された空間となっていた。

 「Fusion」シリーズを特徴づけるのは、複数の支持体を分割・結合し、ひとつの画面を構築するマルチパネルの形式だ。異なる支持体を接合するこのアプローチ自体は、エルスワース・ケリーの絵画やフランク・ステラのシェイプト・キャンバスなど、美術史のなかではめずらしいものではない。だが、モダニズム絵画の系譜において、たとえばステラが支持体の物理的形体を画面の内部形体と一致させ、イリュージョンを排除したのに対し、小川のアプローチは逆説的だ。小川は絵画の物理的条件をイリュージョンの排除ではなく、むしろそれを増幅させるための装置として利用するのである。

 ここで重要なのは、本来は絵画空間と現実空間を境界づけるべきエッジが、小川の作品においては画面の内部へと侵入し、増殖していることだ。小川は自身のウェブサイトのなかで、支持体の正面と側面のあいだにはどちらともいえない「折り目」があり、それがキャンバスのエッジにおいて直角をなさないことを根拠に、そもそも「どこまでを平面とするか」自体が曖昧なのだと論じている(*2)。

小川晴輝《Fusion ⅩⅢ》(2019)アルキド、リネンにアクリル塗料 98.6×108.4×6.2cm ©Haruki Ogawa

 通常の絵画であれば、こうした折り目の曖昧さは支持体の周縁部にとどまる。しかし小川は、それをパネル間の継ぎ目へと拡張し、画面全域を覆う虚構の折り目として執拗に反復させるのだ。ギャラリー入り口脇に展示された、4枚のパネルからなる《Fusion ⅩⅢ》(2019)は、その構造を端的に示している。画面に走る、紙を折り畳んで広げたような鋭い稜線は、周縁にあるはずのエッジが画面内部へと侵入した姿にほかならない。そこでは、パネル間の物理的な継ぎ目=エッジと、描かれた虚構の線とが分かちがたく重なり合っている。

 ここでいう「エッジ」とは、パネル同士を隔てる物理的な継ぎ目であり、作家自身のいう支持体の正面と側面のあいだの折り目であり、画面上に描かれた虚構の稜線であり、さらには絵画空間と現実空間を分かつ境界でもある。小川の実践が特異なのは、これら複数の水準をひとつのエッジ的なものとして画面内で多重化させていることである。つまり、二次元の平面(絵画空間)と三次元の立体(現実空間)とのあいだを揺れ動く、エッジ的なものの両義性=曖昧さ自体が、作品を内側から駆動させ、展開させる原理となっているのだ。

 この両義性に関連して指摘すべきは、小川の制作手法である。小川の絵画は基本的に、支持体となる素材の固有色を基準として、光(明度)を差し引くように陰影を描き加えることでつくられる。つまり、虚構の影は実際の支持体の色を起点として描き出されているのであり、これは、パネル間の継ぎ目という実際の構造を虚構の折り目へと転用する、先述したエッジの内部化と、まったく同じ発想にもとづいている。

「Fusion: Condensed」シリーズ ©Haruki Ogawa

 この発想をステンレスという素材において徹底したのが、新作「Fusion: Condensed」シリーズだろう。複数のステンレス製のパネルから構成されたこれらの作品の表面には、マットな絵具による陰影に加え、描かれた幾何学的な面ごとに角度を変えた緻密なヘアライン加工──金属の表面に髪の毛ほどの細い線状の傷を一定方向に施す表面処理技術──が施されている。そこで生じる強烈な立体感は、同一の光源下であってもヘアラインの筋目によって光の反射率が異なるという、金属特有の性質を利用したものだ。とりわけ印象的だったのは、斜めに移動し視点を変えてもなお、錯視が破綻せず、立体感が持続していたことだ。小川は素材の物理的特性を画面内に引き込むことで、平面という事実を凌駕する驚異的な錯視を立ち上げてみせるのだ。支持体のエッジを画面内部へと拡張・転用したのと同様、ここでは支持体それ自体の物質性が、錯視を成立させる装置として機能している。こうして、小川は支持体たる事物に、虚偽の証言をさせるのである。

 ところで、キュレーターの長谷川新は本展に寄せたテキストのなかで、小川の描く陰影を「光源の偽装」ととらえ、「捏造されているのは闇ではなく光源のほうである」と論じている(*3)。この指摘は的確である。だが、さらに一歩踏み込むならば、真に偽装されているのは光源というより、光源と支持体とのあいだに結ばれる因果関係のほうだろう。ギャラリーの照明が落とす影、金属面の反射、あるいは絵具の明度差による視覚効果──これらはいずれも現実の光がもたらした物理的な結果である。すでに見たように、小川は支持体への入念な加工によってこれらの現象をコントロールし、あたかも立体面が実際に傾斜しているがゆえの陰影であるかのように観者に錯覚させる。つまりここでは、光という原因と、影や反射という結果の結びつき、すなわち空間の因果が、巧妙に歪められているのだ。

 この偽装のメカニズムは、エッジの内部化の問題と不可分である。なぜなら稜線とは、光の当たり方とそれにともなう影の変化を決定づけ、空間の因果関係をもっとも強く喚起させる場所だからだ。画面内部へと侵入した虚構のエッジ=稜線は、偽の因果を立ち上げる起点として機能するのである。作品を斜めから眺めても立体感が破綻しないのは、この因果関係の偽装が徹底されているからにほかならない。

 ここに見出されるのは、虚構を斥けるべき現実が、むしろ虚構を支え、強化するという逆説である。ギャラリーの照明も、木材やステンレスや布といった素材も、表面の反射も、そして継ぎ目に落ちる影も、すべて本物である。それら強固な現実に支えられているからこそ、偽の光景は強烈な実在感をともなってあらわれるのだ。つまり小川の実践が示すのは、現実の再現でも物質そのものの提示でもなく、物質と知覚、現実と虚構とが互いの足場を侵食しながら成立する場である、ということだ。小川の絵画はそのような中間領域、すなわちエッジ的なもののうえで揺れ動いている。そうして小川は、現実を見ていると信じるわれわれの視覚の条件を、絵画の内部につくりだすのである。

*1──筆者が訪れた際、在廊していた作家から聞いたところによると、この手法はディズニーランドなどの建築で用いられるエイジング塗装に近いのだという。
*2──小川晴輝「虚と実がお互いを行き来する関係性-絵画の空間性(イリュージョン)と物質性を新たに繋ぐ-」Haruki Ogawa、https://www.haruki-ogawa.com/statement/(2026年10月12日最終閲覧)を参照。また、支持体の折り目をめぐる問題は、本展に出展された立体作品「Roentgenpainting」シリーズとも深く結びついている。透明樹脂を層状に流し込んだこの作品は、正面からは色面が重なり合った一枚の絵画のように見えるが、側面へとまわり込むと層状の樹脂の断面があらわになり、その構造や制作プロセスが露呈するという、いわば絵画をX線撮影するかのような仕掛けをもつ。正面のイリュージョンと側面にあらわれる構造とが、同じ物体のうちに同居するこの仕組みは、「Fusion」シリーズが追求する、支持体の正面と側面のあいだの折り目の曖昧さという主題とまさに響き合っている。
*3──以下を参照。長谷川新「平和的野営」HARMAS GALLERY、https://drive.google.com/file/d/1DFLkLDzsuHD_XrQZZE7ptR5Hxtviy8gE/view(2026年10月12日最終閲覧)。

竹村京の修復倫理

竹村京「となりのにわ」(タカ・イシイギャラリー六本木)

 竹村京の個展「となりのにわ」は、作家自身が経験した複数の偶発的な出来事を起点としている。ギャラリー発行のプレスリリースには竹村による日記風の文章が寄せられており、塀越しに隣家の庭を覗く描写からはじまり、隣家の葡萄棚を祖母の家の藤棚と勘違いした話や、隣人の焚き火が突風で燃え上がりかけた騒動、久しぶりに会った知人夫婦の倉庫が隣家からの貰い火で焼失したエピソードなどが綴られている(*4)。塀を隔てた隣の存在と、そこから不意にもたらされる喪失──。

 水戸芸術館での個展「うごくせかい」と同時期に開かれた本展は、竹村が継続してきたふたつのシリーズ、すなわち刺繍を施した薄布を写真やドローイングに重ねた平面インスタレーションと、壊れた事物を絹糸や金糸で縫いなおした「修復」シリーズを軸に構成されていた。以下では、水戸で発表された《修復されたN半島の屋根瓦》も視野に入れつつ、竹村の文章に記された塀、誤認、貰い火という3つのエピソードを糸口として、その修復実践がもつ倫理的射程を探ろうと思う。

竹村京《Garden in K. City and Garden Next Door》(2026)絹糸、シルクオーガンジー、オイルバー、H.T.の引き出しを切断した部材(端材)に白い水彩絵具 32.2×31.6×2 cm  Courtesy of Taka Ishii Gallery 撮影:髙橋健治

 まずは作品を具体的に見ていこう。刺繍が施された平面作品を特徴づけるのは、2枚のパネルが隣接する対(ペア)の構造である。たとえば《Garden in K. City and Garden Next Door》では、タイトルが示すとおり「K市の庭」と「隣の庭」という、地理的に離れたふたつの場所がモチーフとなっている。わずかな隙間を保って上下に隣り合う2枚のパネルは、それ自体がふたつの庭の関係を示唆するものだ。各パネルには蔓棚を思わせる格子状の構造物が描かれ、そのうえに重ねられた半透明の薄布には、銀、緑、赤の糸で植物が縫い付けられている。

 注目すべきは、上下どちらのパネルがK市の庭で、どちらが隣の庭なのかが画面上では明示されておらず、植物の刺繍も、赤い葡萄の実とも垂れ下がる藤の花ともつかない両義性を帯びていることだ。これに関連して触れるべきは、作家の文章に記された誤認のエピソードである。ある冬、隣家の庭の葡萄棚を見た竹村は、それをかつて祖母の家にあった藤棚だと思い込み、暖かくなってからじつは葡萄だったことに気づいたのだという。現在の隣の庭と、過去の記憶である──おそらく祖母が住んでいたであろう──K市の庭。空間的にも時間的にも隔たった両者は、パネル間の隣接と、刺繍がもたらすイメージの両義性を介して結びつく。藤棚という誤認の層と、葡萄棚という事実の層が、どちらかいっぽうに固定されることなく画面上に共存し、保持されるのだ。つまり「となり」の光景が、遠く離れた家族の記憶を呼び起こす契機となり、ふたつの庭がひとつの多層的な情景としてあらわれるのである(*5)。

竹村京《Garden Next Door》(2026)絹糸、シルクオーガンジー、インクジェットプリント、アクリルプレート、ドイツ製のフォトフレーム 212.5×178cm、25.1×20.2×0.9cm Courtesy of Taka Ishii Gallery 撮影:髙橋健治
竹村京《Tree and Flag in V. City from Window》(2026)紙に水彩、アクリルプレート、ドイツ製のフォトフレーム 24.8×24×18.3cm Courtesy of Taka Ishii Gallery 撮影:髙橋健治

 空間を隔てつつ結びつけるこの隣接の構造がより直接的に示されていたのが、《Garden Next Door》や《Tree and Flag in V. City from Window》におけるアクリル板の仕掛けである。《Garden Next Door》では、モノクロームの大判プリントのうえに赤い花と緑の葉の刺繍を施した薄布が重ねられ、少し離れた壁面には赤いアクリル板が配置されている。観者がアクリル板越しに写真=刺繍を覗き込むと、赤い花の刺繍は背景に溶け込んで消失し、緑の葉は暗いグレーへと沈み込む。同様に、《Tree and Flag in V. City from Window》においても、額装された水彩画の斜め横に緑色のアクリル板が設置されており、それを通すことで緑の色彩が沈み、描線だけが浮かび上がる。

 対象と観者のあいだに介在し、両者の関係を媒介するこのアクリル板の仕掛けは、竹村が文章に記した塀と重ねて理解することができるだろう。視界を制限され、隣接する対象を断片的にしか見ることのできない塀越しの経験が、ここでは光学的現象として変奏されているのだ。

 だが他方で、隣接がもたらすのは、視覚や記憶の交錯といった認識論的な関係ばかりではないだろう。現実において隣接関係は、ときに不意の喪失をもたらすこともある。実際、竹村の知人夫婦(S家)の倉庫は、隣家からの貰い火によって焼失してしまった。こうした喪失を主題とするのが「修復」シリーズである。竹村はここで、平面作品において誤認を画面上に保持したのと同様、壊れた事物をもとどおりに復元するのではなく、傷ついた状態のまま引き受けてみせる。両義性を保つことと損傷を残すこととは、ともにひとつの確定した状態へと回収しない手つきなのだ。

 竹村の修復手法は、損傷の痕跡を消さずに残すという点において、しばしば金継ぎと比較される。だが、金継ぎが器の強度や機能を回復させ実用へと戻すのに対し、竹村の修復はそうした機能の回復を目指さない。両者の違いは素材の選択からも明らかだ。竹村は修復に際して、漆や金属のような強固な接合材ではなく、きわめて脆弱なシルクオーガンジーと絹糸を採用する。そこで目指されるのは、もとの姿へ引き戻すことではなく、事物が負った傷をそれ自体として保持することである。

左:竹村京《Renovated: S. Family’s Wooden Dish》(2026)絹糸、シルクオーガンジー、S家の木製の皿 4.5×35.5×33.5cm、右:竹村京《Renovated: S. Family's Wooden Elephant》(2026)絹糸、シルクオーガンジー、S家の木製の象 13.4×21.4×11.8 cm  Courtesy of Taka Ishii Gallery 撮影:髙橋健治

 たとえば、貰い火によって焼損したカイ・ボイスンの木製玩具を用いた《Renovated: S. Family's Wooden Elephant》は、この修復の性格をよく示している。黒く炭化した象のオブジェ全体が薄布で包まれ、欠損した鼻や耳、尾、足には白い綿が新たにあてがわれ、それらの付け根には金糸が巻かれている。傷口に巻かれた包帯を思わせるこのささやかな所作に示されているのは、対象に刻まれた傷跡をひとつの記憶として守ろうとする倫理的態度にほかならない。

「竹村 京 うごくせかい」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、2026)展の展示風景より。《修復されたN半島の屋根瓦》(2026) 撮影:木暮伸也

 水戸芸術館で展示された《修復されたN半島の屋根瓦》は、こうした竹村の修復実践をより大きな喪失の記憶へと接続するものであった。六本木の展示において私的な出来事として語られていた隣家の火事は、ここでは能登半島地震という社会的な規模の災害へと拡張されている。

 震災で廃棄された黒瓦の欠損部に古着をあてがい、蛍光シルクの糸で縫合したこのインスタレーションでは、青や緑のLEDで照らされた瓦と観者とのあいだに、緑や赤のアクリル板が配置されている。観者がそのアクリル板越しに瓦を見ると、瓦の黒く重い実体は闇へと沈み、修復された欠損部だけが鮮やかに浮かび上がる。六本木の作品におけるアクリル板が刺繍の存在を消失させる装置であったのに対し、水戸でのそれは、LEDの光を遮断し、蛍光シルクの発光のみを透過させる光学的フィルターとして機能している。

 すでに触れたように、観者と対象とを隔てるこのアクリル板を、こちら側とあちら側を分かつ塀としてとらえるなら、われわれは塀越しに隣家の庭を覗き込むように、遠く離れた被災地を見つめていたことになる。暗闇に浮かび上がる蛍光色の修復痕はあまりに美しく、ともすれば他者が被った災害を美学化してしまう危うさと隣り合わせである。

 だが、そうした危うさのいっぽうで、修復の手から漏れた膨大な数の瓦が、アクリル板という塀を越えて、われわれの立つこちら側の床にまで溢れ出していたことは重要だ。作家は、丹念に修復された少数の瓦と、未修復のまま放置された膨大な瓦とを対置させることで、美学化の危うさにみずから歯止めをかけてみせるのだ。

 むろん、大量の瓦の提示がそれ自体スペクタクルに陥りかねないことや、その対比の図式性を指摘することは可能だろう。アクリル板が瓦の重い実体を不可視化する装置である以上、床に溢れる瓦の群れは、そうした不可視化に対する一種の免罪符のようにも見えてしまう。

 だがそれでもなお、修復から取り残された瓦が境界を越えてわれわれの足元にまで迫るとき、他者の喪失を安全な場所から見つづけることは困難となる。このとき、「となり」とは、隔てられているがゆえに直接には知りえず、しかしこちら側とけっして無関係ではありえない場所である。

 竹村の作品において、塀やアクリル板は、向こう側との境界であると同時に、隔てられたものとの関係を意識化させる媒介でもある。傷ついた事物を守ることと、守りきれないものの存在を見つめること──その両者を引き受けるところにこそ、竹村における修復の倫理があるのではないだろうか。

*4──以下を参照。https://www.takaishiigallery.com/jp/wp-content/uploads/KT-2609_PressRelease_JP-1.pdf(2026年10月13日最終閲覧)
*5──こうしたイメージの両義性は、薄布を壁からわずかに浮かせて直接ピン留めし、糸の玉留めをしない制作手法によっても強調されている。とりわけ、ギャラリーの空調を受けて薄布が微かに揺らめいていたことは印象的だった。それは、イメージがひとつの意味に固定されることをたえず保留しつづけるかのようであった。

編集部