美の裏側にある権力の構造を暴く
笠原恵実子「DR 2019-」(The Third Gallery Aya)
均質なホワイトキューブのなかに、コインが並べられた3台の展示ケース。壁面には何かを示唆する単語が書かれた表が3枚置かれている。展示台の内部の規則的に置かれたコインは、それぞれが潰されたかのような形状になっており、もとの意匠はほとんどわからない。ギャラリーに整然と置かれたこれらに共通するのは、それぞれ、あるいはそれらの要素が互いに作用し「秩序(order)」をかたちづくっている点である。

本展は「DR 2019」の名の通り、笠原が2019年から始めた旧ドイツ国鉄(DR)を扱う一連の制作を紹介するものであり、そして14年から手掛けてきた近代の鉄道による越境を提起する同プロジェクトの最終章といえる内容である。会場にあるファイルの中には各国の鉄道の路線コードと国名のコードが用意され、鑑賞者は壁面の単語がなにを意味しているか知りたいのならば、手元のファイルを繰りながら、コード名と照らし合わせ壁面の記号を読み解いていく必要がある。それは、初めて降りる海外の駅で手元の情報を頼りに路線図を解読するときのような感覚でもある。
壁面に掲示されている格子状の表。そこに書かれたコードは、一見すると何を示しているのかわからない。しかしギャラリー全体を見回してみたとき、その配置と個数が展示台の中のコインとそれぞれ対応していることに気がつく。各マスに書かれたそれぞれの語句の接頭辞は、硬貨が潰された場所を、接頭辞に続くアルファベットは、その硬貨が流通している発行国や地域を示す。笠原はコインを線路に載せ、電車に轢かせることで偶発的にその形を生み出していったという。この表とコインは、笠原自らがその場所の鉄道路線に赴き、硬貨をつぶすアクションが行われた記録の集積にもなっているのだ。
笠原の鉄道線路にコインを置き潰すという営みは、展示の案内文が言うように、たしかに「子どものいたずら」(*1) じみたものだ。だがいっぽうでそれを「子ども」と措定できてしまう意味もまた考えねばならない。その行為がなぜ子供じみているのか? それはなにに対してのいたずらか?
興味深いのは、ここに置かれているコインには、もうその国では使用できないものも含まれていると同時に、実際に使うことができるものも多数含まれ、さらには発行元である国や地域がすでに消滅したものも多い。笠原は、今回発表した旧ドイツ国鉄でのアクションのほかにも、これまでシベリア鉄道、旧南満州鉄道、アメリカ大陸横断鉄道で、同様のアクションを行ってきたが、それらはすべて近代における植民地主義と深く関係している。人の移動を司る公共的機構である鉄道と、貨幣経済を交換によって周遊していく貨幣たち。効率や体系という言葉でつくられたその秩序をあえてずらし潰していく笠原の制作は、法や国家が当然とする美の基準──つまり、美しいものは(規則)正しいということ──を揺らがせてみせる。
秩序に対して美しいという感覚を抱くことは、芸術の枠を超えた様々な領域でもごく自然にあることだ。規則性や法則を見出し、カオスを排除する姿勢は、容易に世界を把握しうるかのように見える。なぜならば、秩序だった事物は、美しいと同時に、管理しやすく、支配しやすい。都市を貫く鉄道は、人々の移動方向とその量を把握しやすくしたし、貨幣体系は、モノの現実の尺度に縛られない取引で、モノもモノ以外も、あらゆる事物を統一した尺度で見ることを可能にした。笠原がこれまで手がけてきたシリーズでは、北米の大陸横断鉄道や南満州鉄道が扱われていたことからもわかるように、鉄道の敷設はしばしば植民地の形成へとつながる。笠原は、植民地形成に使役された鉄道路線や、硬貨に象徴される通貨制度が強制する規範を、鉄道という方法を用いて剥奪しようとする。それは、秩序の美しさの背後で管理や監視を受け入れ、越境や侵略が起きても止めることができなかった社会への言及でもあるだろう。人々は時おり植民地の擁護理由に「知」や「技術的発展」「近代化」を挙げてみせる。当事者によるそうした言説は支配に対する複雑な反応として判断しなければならないが、その言葉を加害者側が用いるとき、それは管理のしやすさを秩序の美しさで覆い隠しているだけなのではないだろうか?

笠原の作品は意識的に「秩序」がかたちづくられており、それはたしかに美しい。だが作家が本展で展示している《AESTETICS/POLITICS》(2026)の存在によって、むしろそれは鑑賞者自身を巻き込むかたちで、この社会の秩序(=美)の裏側にある「政治」を露わにする。もともとは1枚の紙の裏表として発表された作品 (*2)が、この会場においてはその癒着をはがされ、裏表をひと目で見られるように展示されている。つまりもともとは、表の美学=AESTHETICSを見ているときには、裏の政治=POLITICSが見えなかったものが、ここでは一挙に同時に示される。鈍色に光るその表面には、鑑賞者自身の顔が歪みながら写し出される。
展示台の硬貨は、それぞれの文脈や潰され方が多様であり、その傷や歪みも固有で唯一無二のものであるのにもかかわらず、作家の美的感覚によってあえて均質に、美しく展示される。しかし作家は、唯一無二の形をしたこれらの硬貨を、あえて均等に並置し展示することで、硬貨が元来帰属していた制度や規範の存在に言及し、不均衡と均衡が同存する様を可視化する。コインを潰し、それらを均質に並べるという行為を通じて、作家は美しさの裏側にどうしたって存在するものを見せつける。これはつまり、便利さや美しさ、清らかさで納得させてくる外面の裏にある、それを見せてしまっては権力側が困ってしまうものを暴露してしまう。それこそまさに政治であり、数多の個人の生き様であり、唯一無二の個別性である。
その手法は、同じく展示されていたつけまつげでつくられたシリーズ「Plaids-brown」にも通じている。均等に配置されたグリッド上の平面に目を凝らせば、そこに映るのはおびただしい数の人工的まつげの集積である。法や国家という大きな秩序を対象とする、笠原の作品群に通底する美の裏側。それは、美を人為的に扱う領域である芸術に携わる者もが意識しなくてはならないことであり、また芸術だからこそ到達することができる地点なのではないか。
*1──展示の案内文(https://thethirdgalleryaya.com/exhibitions/dr-2019/)より、2026年3月29日閲覧。
*2──笠原恵美子「CN-JP-RU」『多摩美術大学研究紀要』第29号、2015年、5-9頁。
見えないものへの慈しみをめぐって
キリコ展「わたしの子宮」(ギャラリーヤマキファインアート)
本展はこれまでも家族や母性に迫る制作を行ってきたキリコが、写真と立体(手芸ともいうべきだ)の2つのアプローチで、2025年3月4日に摘出された自らの子宮について制作した作品群の展示である。
これらの写真と立体が基本的に扱っているのは、見えないものへの接近だろう。子宮という内臓を写し出そうとする一連のポートレイト、そしてまさに見ることができなかった(そして術後も見せてもらえなかった)子宮を医療写真から構築しなおし立体にする作業によって、キリコは視覚では到達しえない何かに近づこうとしている。

「セルフ・ポートレイト」の作品群は、一見すると写し出されている身体のスケール感などから、ある一定の距離をもって定点で撮影されたものにも写る。だが他方でその表情を見てみると、それは定点で自らカメラを置いて撮影したというよりは、信頼できる他者に撮影されたかのような、恥じらいや気まずさ、ふと漏れ出る笑顔のような、素朴な感情があふれている。ときに不安げに、あるいは安心している表情、桜の下でこちらを向いて笑う表情。それらにはセルフ・ポートレイトと言われる作品がしばしば持つような射貫くような視線、演出された自我が見つけられない。むしろそれはもっと無防備なのだ。感覚的にはそれは「家族写真」のようである。

この親密さはいわずもがな、鑑賞者に向けられたものではない。話し言葉がふんだんに折り込まれた日記からもわかる通り、それは親しい何かに向けてのまなざし──家族、対話を重ね手術をともにした医者、そして何より子宮に向けてのなにかである気がする。
「本はまるでカメラのようだ。フィルムを入れ、フォーカスを合わせ、撮影し、現像する。カメラ・オブ・スクラの原型は暗い部屋であり、心、まだ開かれていない本、(中略)または子宮のよい比喩だった」 (*2)。
これはアメリカの美術批評家のルーシー・リパードが1979年に発表した小説『アイシー/ユーミーン』の一部である。リパードはここで、本(あるいは言葉)、カメラの原型である暗い部屋、心、子宮を「暗がりにあるもの」として比喩によってつなげている。啓蒙がしばしば光の比喩で語られるように、何かを明るみに出し照らし出すことは知の象徴であると同時に、照射する/されるという主体と客体の権力勾配をむき出しにする行為でもある。他方でキリコの制作は明らかに、子宮という臓器を「客観的に」「医学的に」再現する行為ではない。キリコの撮影する写されない子宮、そして綿と布による子宮を再現したぬいぐるみのような作品は、暗い部屋を暗い部屋のまま留めている。「写真は何を映し、何を取りこぼしてしまうのか。そしてテキストは、その空白を補うことが出来るのだろうか」(*3)。動いている像や記憶を、一瞬のさなかに留めてしまうかのような写真と文章というメディア。一体そこでは、何が明るみに出され、あるいは何が写し出されないのか。子宮をめぐる、キリコの写真とテキストの限界を探る根源的な問いはむしろそのまま、リパードのいう「暗い部屋」につながっている。

だが子宮を「暗い部屋」として扱うその行為のなかにこそ、視覚の一方向性のみでは措定できない、ある意味で双方向的とも言いうるような子宮と自己との関わりが浮かび上がる。《シキューちゃん》(2026)というその作品名から即座に理解できるように、日記の最後にある「ママはシキューちゃんのお葬式を展覧会でしようと思うねん」(*4) という言葉のように、ここでは子宮という他者が立ち上がっている。子宮があることが即ち女性であるということではないのにもかかわらず、子宮という臓器は、あまりにも社会的意味を付与され過ぎている。作家は写真と言葉と立体によって、子宮に対する一定の距離感、しかしそれでもある自分の身体への慈しみを、切実に描き出している。
*2──Lippard, Lucy. I See You Mean. Chrysalis Books, 1979, p.35. 翻訳は『アートワーカーズ』(2023年、フィルムアート社)での拙訳をもとに、修正している。
*3──会場内の作家の日記より
*4──同上


























