沖縄との関係を結び直し続ける
曽我大穂ライブパフォーマンス 「Cinematic dub Night -ミニシアター編」(シアタードーナツ)
「CINEMA dub MONKS」「仕立て屋のサーカス」名義でも知られる曽我大穂による一夜限りのライブパフォーマンス『Cinematic dub Night』が、沖縄市(通称・コザ)のミニシアター「シアタードーナツ」を舞台に開催された。映像、サウンド、朗読、インスタレーションを横断するその表現は、1本の映画を体験するような時間だった。
CINEMA dub MONKSは1999年に沖縄で結成された。2000年代にはヨーロッパ各地を巡りながら、沖縄とスペインをはじめとする各地で出会った人々や風土に育まれるように活動してきた。結成当初はバンドという形式ながらも、既存の音楽ジャンルには収まりきらず、彼ら自身も「どこにも属していない存在」と感じていたという。

偶然にもこの日は、CINEMA dub MONKSのメンバーだった故・ガンジー西垣の命日でもあった。彼らが沖縄で活動していた時期、私はその現場を直接知ることなく過ごしてきた。しかし、友人を介して断片的に話を聞く機会は多く、長らく気になる存在であり続けた。今回の公演で、曽我が紡ぎ出すサウンドや朗読、語りによって構築された空間を体感したとき、それまで噂として聞いていた出来事や記憶が初めて具体的な像を結び、ひとつのパズルが完成するような感覚を得た。25年以上にわたる活動の軌跡やその背景には2000年代の沖縄とヨーロッパを往還する人的交流から生まれた、自由度の高いオルタナティブな芸術文化の実践がある。
曽我のパフォーマンスの特徴は、徹底した即興性にある。上演前に内容を固定することはなく、楽曲の断片や言葉、身体の動きといった複数のモチーフを、その場の空気や観客の気配に応じて選び取り、再構成していく。朗読に用いるテキストもつねに数冊携行し、自作の文章や詩、批評などをその場で抽出しながらコラージュする。必要であれば改変も辞さない。そのため、毎回内容は異なり、その日、その場所でしか成立しない作品となる。

また、曽我は音や映像だけでなく空間全体を編集対象として捉える。スピーカーの配置や映像投影の位置、照明の変化までも含めて、音・像・身体を同一のレイヤーで構成する。今回の公演でも、照明や映像の操作そのものが即興的に介入し、ときには進行をやり直すプロセスさえ観客の前に開示された。完成された作品を提示するのではなく、生成され続ける過程そのものを作品として共有する姿勢が印象的だった。
約20名ほどを収容するシアタードーナツの親密な空間は、今回のこの実践にふさわしい場であった。観客との距離が近いからこそ、その場に集まった人々の気配さえも作品へと取り込まれ、「いま、ここ」でしか生まれない物語が立ち上がる。曽我自身も、即興とはたんなる自由演奏ではなく、その日に集まった人々や土地の状況から「読むべき言葉」が立ち上がる行為だと語る。
興味深いのは、こうした表現が沖縄では必ずしも当初から受け入れられていたわけではないことだ。結成初期には、メンバーが沖縄出身ではないことや主流の音楽イベントでは周縁的な存在として扱われることも少なくなかった。いっぽうで、2000年代初頭のバルセロナをはじめとするヨーロッパでは熱狂的に受容され、口コミによって評判が広がり、後の活動展開の契機となった。その評価が「逆輸入」されるかたちで沖縄や国内での注目へとつながっていったのである。

曽我らは「物語のある音楽」を掲げ、フルートやウッドベース、パーカッション、ピアニカ、サンプラーなどを用いながら、照明の代わりに映像を使い、音と人と映像によって1本の映画のような時間を立ち上げる。2005年には那覇市の旧前島アートセンターで企画展「リスボン/バルセロナ/沖縄―美術・音楽・地方都市・シネマ ダブ モンクス」が開催され、地方都市の視点から音楽とアート、文化の接点を探る試みが行われた。それから20年を経たいまもなお、彼らの活動は沖縄との関係を緩やかに結び直しながら続いている。
既存の制度やジャンルに捉われない自由さは、沖縄におけるオルタナティブなアートシーンを支えてきた重要な要素のひとつである。曽我の実践は、場所と人との偶然の出会いを起点に、芸術がどのように地域や世界と接続し得るのかを改めて示していた。
アーカイブを通して八重山を見つめ直す
山里節子、ヴァレリー・ポルトフェ、松竹喜生子、本原秀雄、カビラ・ヤスヲ「近いようで遠い、八重山から沖縄へ」(佐喜眞美術館)
八重山(石垣島)を拠点に活動する平和活動家・山里節子に託された、米国人地質学者によるフィルムおよび写真アーカイブを軸に構成されたグループ展。企画はヴァレリー・ポルトフェ。本展は、建築・リサーチプロジェクト「Map Office」として、第52回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展(2007)に香港代表として参加したポルトフェが石垣島へ移住し、山里と出会ったことから始まった共同プロジェクトである。

沖縄はしばしばひとつの地域として語られるが、本島と八重山のあいだには地理的距離以上の隔たりがある。八重山の歴史や文化、戦争体験、そして現在進行形の課題は、同じ沖縄県内でも十分に共有されているとは言いがたい。本展は、その見えにくい距離を浮かび上がらせながら、八重山から沖縄、そして本土へ向けて語られるもうひとつの沖縄像を提示していた。
その出発点となったのが、1955〜56年に石垣島で軍事地質調査を行ったアメリカ人地質学者ヘレン・フォスターのアーカイブである。フォスターは地質や土壌、水系、植生などを調査し、16枚に及ぶ主題地図を作成した。その過程で撮影された16ミリフィルム、カラー写真、スライド、地図群は後年、山里に託される。なかでも1950年代の八重山の日常を記録したカラー映像は貴重であり、歴史資料であると同時に、過去を現在へ接続する装置として機能していた。
ポルトフェはアーカイブを整理するなかで、山里自身の人生が島の歴史と深く重なり合っていることに気づく。17歳でフォスターの助手となり島中を踏査した経験、1975年に東京から帰郷して以降の反開発運動や反基地運動への関わり、そして祖母マジルから受け継いだ土地の記憶と生活の知恵。それらは個人史であると同時に、八重山の近現代史でもある。

興味深いのは、この発見が外部者であるポルトフェの視点によって引き出されたことだ。島の人々にとってなんでもない風景や記憶が、アウトサイダーの問いによって新たな意味を帯びる。ポルトフェは、反基地運動家として知られる山里の背景にある経験や思想に目を向け、活動家という枠を超えたひとりの人間としての姿を浮かび上がらせた。
現在制作中の映像作品《風に抗う》(2026-)も、その延長線上にある。山里は自ら制作したマジムンの衣装をまとい、歌い、島を歩く。フォスターの映像や写真と現在の風景が重ねられ、アーカイブ、個人史、環境運動が交差する物語が紡がれていく。
山里が強く影響を受けた祖母マジルは、戦時中に避難先から逃れる際、「権利など忘れなさい。芋を守りなさい」と語ったという。生き延びるためには理念よりもまず命を支える糧が必要だったのである。ポルトフェはこの「芋」をたんなる作物ではなく、土地に根ざした生存の知恵や文化の継承として理解し、「Save the Roots」という言葉へと翻訳した。Rootsとは根であり、祖先であり、文化であり、土地との関係性そのものでもある。

映像制作の過程で山里とポルトフェは島を歩き直した。地図を手がかりに洞窟やマングローブを訪れ、祖母から受け継いだ植物や薬草の知識を記録していく。そのフィールドワークから見えてきたのは、1955年と現在を比較しても石垣島の景観が驚くほど変わっていないという事実だった。都市部を除けば海岸線の多くはそのまま残り、フォスターが撮影した松の木もいまなお立ち続けている。本島とは異なる時間の流れがそこにはあった。
本展でとくに印象的だったのは、クロージングで行われた山里とポルトフェの対話である。展示だけでは容易に縮まらない鑑賞者との距離が、2人の対話によって一気に近づく。山里の記憶や経験を引き出すポルトフェのナビゲーションによって、アーカイブはたんなる歴史資料ではなく、生きた物語として立ち上がった。アーカイブを通して八重山を見つめ直すことは、「沖縄」という単一の語りを問い直すことでもある。
完成が待たれる《風に抗う》は、その成果をさらに広い文脈へ接続する可能性を持つ。本土での展覧会や上映の機会が実現すれば、それは八重山の物語を紹介するだけでなく、地域文化や環境、記憶の継承を考えるための重要な対話の場となるだろう。山里節子とヴァレリー・ポルトフェの協働は、島の過去を記録するだけではなく、その未来を構想する営みでもある。



























