戦争と幼少
戦後80年を迎えた今年、各方面でかつての戦争をめぐって様々な企画が組まれている。むろん美術も例外ではない。そのうち最大規模と言えるのは、東京国立近代美術館(以下、東近美)で開催された展覧会「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」であろう。
同館は、1970年の大阪万博の年に接収先であった米国から返還された153点の「戦争記録画」を所蔵(ただし無期限貸与)するが、今回そのうち本特集展示と所蔵作品展示と合わせて総34点(前後期)を公開している。さらに後者では各所に小企画を設け、事実上、全館を挙げて戦争と美術の問題に取り組んでいる(本展についてはその長短も含め『東京新聞』8月10日付朝刊に評を寄せたので参照されたし)。
それにしても、なぜ80年なのだろう。かつての戦争についての記憶をつなぐ企画は、毎年8月が近づくとおのずと増える。それがさらに10年単位となると規模も大きくなる。が、去る戦後70年のときよりも、今回の80年のほうが様々な企画の声が耳に飛び込んでくるのは気のせいだろうか。あるいはそれは、風化が10年ごとに加速度的に進んでいることへの危機感ゆえなのか。あるいは、いま世界の各所で紛争が起こり、多くの人々が戦火に巻き込まれている生々しさからだろうか。事実、報道などを通じて痛感するのは、戦争は人類の文明とともにあり、それが生まれて以来いまに至るまで終わることがないということだ。
その意味で人類史とは戦争の歴史であると言って過言ではない。というより、いっそ人類とは戦争なのだ、と言いたいくらいだ。もしそうなら、世界から戦争をなくしたい、流血の争いごとをこの世から根絶したい、と多くの人たちが心から願っているにもかかわらず、戦争は決してなくならない。人類が人類であるかぎり、戦争はこれからもずっと起こり続ける──残念だがそう考えざるをえない。それでもなお問いたい。人類にとって戦争の対極にあるものとはなんなのか。
このように人類を尺度に考えてみたとき、80年という年がにわかに意味をもち始める。というのも、80年とは端的に言って人間という個体の平均的な寿命を示す時の経過であり、その意味でひとりの人間が体験した戦争が次の世代へと引き継がれることのひとつの時限的単位、すなわち臨界点であるとも考えられるからだ。このような生命体としての有機的な時の区切りというのは、歴史では必須となる年表的な時間の経過とは大きく異なる。わかりやすく言えば、戦後80年とは、敗戦の年にゼロ歳でこの世に生を受けた赤子が、やがて天寿をまっとうするに至るまでの時の経過(寿命)でもある。もしそうなら、戦後80年というのはやはり戦後50年(半世紀=それこそ歴史的な区分だ)というのとも、直近の戦後70年というのともかなり異なる意味をもつ。
このようなことを念頭に置いたとき、ギャラリー58(銀座、東京)での「戦後80年1945年の記憶」展のもつ意味は決して小さくなかった。というのも、ここに集った5人の美術家たちが「戦後80年」という尺度をともにしているのは、まぎれもない生物学的な時間(幼少期)に戦争を体験しているからだ。世に言われる戦争画が、成熟して分別もある画家たちによって描かれた「大人」の絵画であるとするなら、「1945年の記憶」展での篠原有司男は敗戦時13歳、中村宏は12歳、赤瀬川原平が8歳、吉野辰海が5歳であって、もっとも若い石内都でも敗戦から約1年7ヶ月後の生まれである。そこにはある程度の年代の幅があるけれども、人生において未熟でまだ分別のつかない「幼少期」に戦争の記憶を植えつけられたものたちによる美術としてなら、一室に括ることができる。そして、これは同展に合わせて作成されたパンフレットに寄稿された菅章による文章(「戦争の記憶と美術─戦後80年の視点」)によってわたし自身、気づかされたのだが、「彼らより3、4歳年長であれば、池田龍雄のように海軍航空隊に入隊し、予科練習生となったかもしれないし、さらに4、5歳以上年長であれば、学徒出陣で戦地に赴き、戦没画学生となった可能性が高い」、そういう意味での「幼少期」ならではの成熟の「免除」によって、この5人は戦争と准接的に固く結びついている。


言い換えれば、「1945年の記憶」展での美術家たちは、幼少であるがゆえに戦争の記憶がある意味、未整理で、その未整理さにおいてかつての戦争の現実を、逆により迫真的に受け止めている。なぜかといえば、そもそもかつての戦争そのものが未整理で、しかも敗戦が露呈させたものこそ、国家としての未成熟さであったからにほかならないからだ。加えて、「1945年の記憶」展で取り上げられた美術家たちは、この展覧会のみならず、そのそれぞれの作家性において、しばしば幼少性とも呼びたくなる諧謔やマンガ的要素、対象への異様なまでの肉薄感が見られるのだが、そのような広い意味でネオ・ダダ的とも呼びたくなる特性は、じつは戦争を幼少の目で捉えたという生物学的な「覚え」にこそ起源があったのではなかったか。例えば、この「1945年の記憶」展で、もっともわたしの目を引いたのは、これまでほとんどまったくと言ってよいほど戦中の記憶について語ったり、描いたりしてこなかった篠原有司男が、すべて新作というかたちで、自宅に防空壕を掘る父親の姿や、疎開先で迎えた敗戦の一報を、この画家の持ち前の尽きせぬ幼少性、ダイナミックな稚拙さを存分に発揮して、まるで昨日の出来事のように描き切っていたことだった。


さて、美術をめぐる戦後80年ということでいうなら、もうひとつ、水戸市立博物館で開かれた「いま、戦争を語るということ」展についてもふれておきたい。本展は、副題にある通り、同博物館が所蔵する先の戦争にまつわる戦争被災物(資料)の数々を、河口龍夫の「作品」(《関係一植物・HIROSHIMAのタンポポ》)と対面的な「関係」で個別に配置する試みである。先の「1945年の記憶」展に倣い、河口と戦争との「関係」を生物学的な尺度で見れば、1940年生まれの河口は敗戦時に5歳ということになり、年齢でいうと赤瀬川よりは若く、吉野とちょうど同じ年齢に当たる。まぎれもない幼少期であり、通常は赤瀬川や吉野らネオ・ダダの面々と河口が同じ括りのなかで見られることはない。だが、戦争と敗戦の記憶を幼くして心の底に備えたという点で、そして今回主題化されたタンポポという野草が、大人になってからというよりも、幼い時分の記憶に深く根ざす傾向があることも相まって、わたしは戦争という主題を通じ、河口のなかの概念以前にある幼少性と今回、出会い直した気がした。

その点で、初日に開かれたアーティストトークのなかで河口自身の口から重ねて語られた、芸術と戦争は対極(無関係)にある、というくだりの強調は、仮に戦争という蛮行の芯にあるのが大人による殺人の正当化であるなら、そのような能力をもたない(もてない)、未成熟ゆえの幼少性に備わる殺戮能力のなさが生み出す想像力の飛翔こそが、芸術の源泉なのだ、ということにならないか。つまり、戦争の対極にあるのは幼少性だったのだ。

わたしは、大人たちによる大規模な殺戮と破壊によってひしゃげ、ものとしての原型さえ留めない「資料」と、そのかたわらで戦争に対抗するわけでもなく、ひたすら「無関係」にたたずむだけの、タンポポやトンボやセミの亡骸からなる河口の「作品」を見て、そんなふうに考えずにはいられなかった。
(『美術手帖』2025年10月号、「REVIEW」より)



























