多孔化するアート
2020年に初めて発令された緊急事態宣言以後、新型コロナウイルス感染症の感染拡大によって文化活動に携わる者も大きな打撃を受けてきた。とくに、一度に多くの集客を見込むような大型事業は中止や延期が余儀なくされていたことが記憶に残っている。現在は様々な対策が講じられているがオミクロン株の感染拡大もあり、まだまだ不安定な状況は続くのだろう。
いっぽうでコロナ禍においては大型事業に比べ、特定地域やコミュニティに密着した日常の延長につくられる小規模なプロジェクトは活発化してきた印象もある。プライベートから瞬時に発信が可能となったオンライン配信技術の急速な普及もその一端を担っているかもしれないが、それぞれが無理のない制作や発表を模索したことと、困難な社会状況においてもなお、つくらなくてはいられないという強い欲求がコロナ禍での表現を切り開いていたように思う。
このような観点から、アーティストが地域に介入するプロセスを開示した展覧会「Art for Field Building in Bakuroyokoyama:馬喰横山を手繰る」を見てみたい。本展は展覧会というフォーマットが取られているものの、これはあくまでも中長期的なプロジェクトのプロポーザルといった位置づけがなされているため、そうした意図も汲み取りながら考察する。
まず本展を主催するアートマネージャー・ラボは、主にアートマネジメントや文化政策の専門家によって立ち上げられた団体である。とくにコロナ禍での助成金申請や、アート業界のハラスメント防止などに関するメンバーの専門性を活かしたレクチャー企画をはじめ、地域、ビジネス、ジェンダーなど近年のアートの動向に応答するようなキーワードを軸にイベントを開催してきた。「Art for Field Building in Bakuroyokoyama:馬喰横山を手繰る」では、これまでのアートマネージャー・ラボの活動でも取り上げられている地域やジェンダーへの関心が強く反映されたものであることがわかる。
このような関心を背景に、本展は3名のアーティストのグループ展という構成をとっている。最初のフロアに展示している遠藤薫は、これまでの制作においても主要なメディアであった布に焦点を当て、未来の制作に向けて繊維問屋街の歴史をリサーチした。近年の作品でモチーフとなるパラシュートをはじめ、収集された陶器製の手榴弾など、そこは半ばアトリエのように調査や収集を続ける素材が並べられている。
社会構造とそのなかの個人の存在をテーマに過去の事件などのリサーチを通じて制作を行う工藤春香は、馬喰横山周辺が花街であった歴史に着目。花街では女性たち個人の意思ではなく、強制的に働かされる搾取構造があったという社会背景について文献を中心にリサーチした痕跡が展示されている。また、花街は文学などでは男性目線のきらびやかな世界として描かれることがほとんどで、女性目線の記録は少なかったことを指摘し、花街で働く女性の名が羅列された数少ない文献を参照しながら、女性たちの名前を綴るためのノートを用意していた。「芸者」とひとくくりにするのではなく、そこで働いていた個人へ思いを馳せることはできないかを模索する。
インドネシア・バンドンに住む本間メイは、馬喰横山への滞在は叶わなかったようだが、工藤と同様花街でもあった地域の歴史に応答するように、出産をめぐり女性たちが抱えていた身体的、社会的な苦痛を描き出す《Bodies in Overlooked Pain》(2020)、胎盤を埋める現地の風習を扱った《Our special organ》(2019)を展示していた。
会場は馬喰横山にあるシェアオフィス、MIDORI.so Bakuroyokoyama。展示会場は同ビル内の6〜7階で行われていた。6階の遠藤、工藤による展示ではリサーチのテーマや過程に比重が置かれていたのに対し、展覧会の最後となる7階に展示された本間は、ジェンダーといったキーワードに集約されるかたちでの展示となっていた。散りばめられたトピックやこうした会場構成からも、「街に息づく関係性を手繰りよせながら紡がれる新しい物語」を体験することを目指すとあった本展だが、半ば地域のなかから限定的な要素を抽出したような印象も受けてしまった。
ただし冒頭でも示したように、本展は馬喰横山での滞在やリサーチを経て制作された新作展ではなく、あくまでもアーティストが地域に介入するというプロジェクトの初動そのものに比重があるため、今後のリサーチや制作でそれぞれのアーティストの視点がどのように広がりや深みを見せてくれるかに注目したい。
アーティストの作品展開には期待しつつも、いっぽうで本展ではどのような対象者を想定し、何を目的としたのかを確認してみたい。ステイトメントでは「ばらばらに存在するプレイヤーをつないで関係性を編み、そのコミュニティを育んでいく」ことを目指し、地域の人々との出会いから生まれた問いや気づきを自分ごととして捉えていくアーティストの存在が鍵であると示されている。そしてそれらの成果は、会場となるMIDORI.so Bakuroyokoyamaに集積させていくとある。
ここから本展において重要なことのひとつが、アーティストの介入によって新しく育まれるコミュニティの構築だとわかる。こうした意図からすれば、それは必ずしも開かれた「展示」というフォーマットを採用する必要はなかったのかもしれない。地域コミュニティとのワークショップや、3名のアーティストの過去作の鑑賞会など、公になるイベントでなくとも「フィールドビルディング」には多様な選択肢がありそうだ。現時点の展示では、具体的にどのようなアーティストと地域コミュニティとの出会いがあったのか、また地域の人々からのどのような期待が込められているのかが見えにくい構成であった。今後アーティストの介入や地域コミュニティの変化がどのように考察され、発信されていくのか気になるところだ。
このように特定地域やステークホルダーとのあいだで生まれる固有の価値観は、とくに広くアートコミュニティの鑑賞者を想定するような展覧会において、差異が生じやすいと思われる。ここでは、誰がどのような人に向けて作品やプロジェクトを開いていくかというセンシティブな調整が隠されている。このようにプロジェクトごとに多様な価値観が生まれる状況を「多孔化するアート」と捉えてみたい。多孔化するアートとは、大文字のアートワールドに必ずしも回収されることはない、特定地域やコミュニティに生じる変化によって達成される価値を模索している状態にあるものだ。
多孔化というキーワードによって本展を読み解くことは、構造的な面だけの理解にとどまらない。近年注目される「ケア」という概念において、自己の同一性に固執するのではなく多様で流動的な存在として自己を位置づけるチャールズ・テイラーの「多孔的な自己」(*1)もキーワードになっている。遠藤が制作に向けて収集している工芸品、工藤が示した歴史に名を刻まなかった個々人の存在、本間が描き出す女性たちが抱えた身体や社会の苦痛。そこには例えば、アートワールドという大きな主語が覆い隠してきた声によるポリフォニーが読み取れる。
また主催者が持ちうるアートマネジメントや文化政策の知見、3名のアーティストの特徴やリサーチの着眼点、地域のプレイヤーをつなぐフィールドビルディングという手法それぞれが持つ複数性や、新しい価値観への視座が立体的に絡み合って見えてくる。
しかしながら、多孔化したアートを捉えることができるレビューは、筆者のような一鑑賞者だけの声ではないのかもしれない。フィールドビルディングという手法も、アーティストだけが声を発するのではなく、点在していた地域のプレイヤーの声こそが響き合う場になることが重要ではないだろうか。そして多孔化する世界で、それぞれがそれぞれの声の在り処を、届ける先をしっかりと見据えることがいまアートに試されているのかもしれない。
*1──小川公代は『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021)のなかで、チャールズ・テイラーの「多孔的な自己」からヴァージニア・ウルフの小説における両性具有性に言及し、他者を思う共感と想像力の重要性を説く。