既存の価値観への革命へ誘う甘い囁き
人が誰かに何かを伝えるとき、何かを感じ取るとき、つまり入力されたものを出力し、そしてそれを受信するとき、そこには翻訳という行為が介在する。翻訳には必ず情報の削ぎ落としと誤解が発生し、それをできるだけ減らすべく、人類は高度に発達した言語を獲得してきた。しかし高度で複雑であるがゆえに、言語間で行われる翻訳で起こる欠落や誤解は、ときに意味の伝達さえ不可能にし、コミュニケーション不全を引き起こす。
パヴェウ・パフチャレクのキュレーションによって京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで開催された「Lost in Translation」は、8組のアーティストによって構成される展覧会だ。パフチャレクのテキストによれば、本展は「大変動の時代に世相を追い風として、世界の価値観を刷新し、新しい持続可能なモデルを構築することが可能か」「資本主義を否定し、不平等を是正し、社会から排除されてきた集団も包括する新しいシステムが提案できるか」「言語コミュニケーション上の齟齬や失敗が芸術的実践の基礎となるか、逆説的に相互理解の最良の方法とならないか」の3つをテーマとして掲げ、これに対してアーティストが継続的に取り組んだ成果が、「災害ユートピア」「不可能を可能に」「ロスト・イン・トランスレーション」の3つのパートから構成されている。
展覧会はまずはじめに、西條茜とバロンタン・ガブリエによるユニット「TŌBOE」によるインスタレーションで幕を開ける。会場には生物的なフォルムと肌理をもつ陶の立体が点在し、壁面にはTŌBOEによるパフォーマンスの映像が流れている。映像では2人がそれぞれ、あるいは一緒に陶器に息を吹き込み、まるで木管楽器のような音が鳴る様が映し出されている。パフォーマンスにおいて、立体はそれ自体が登場人物であると同時にコミュニケーションのツール、デバイスとして機能し、2人のあいだの関係性を仲介している。そして、鑑賞者は物言わぬ目の前の立体に静寂を孕んだ内側の空間を想起することで、その関係性に巻きこまれていく。
2階に上がった部屋で展開される高田冬彦の作品はとてもエロティックだ。一瞬足をひらくことで股のあいだから漏れた光を明滅させる「ホタル」、頭と足を逆にして重なり合った2人の男性の股間でバスケットボールを押し潰そうとする「しぼんでいくボール」、2人の男性が1枚のボクサーブリーフを無理矢理に履こうとする「のびのびカルバン」の3つの映像からなる《新しい性器のためのエクササイズ》。テニスをする男性の股間部分がピンク色に光り、ウエアに男性器のシルエットが浮かび上がる《Dangling Training》。そして部屋で眠る少年の耳元で2羽の操り人形の鳥がエロティックなアラビアの昔話をささやく《The Princess and the Magic Birds》。鳥が囁く昔話は、耽美で文学的な表現を用いながらも、非常に過激な内容であり、登場人物の関係性がめまぐるしく転回されていく。
アリツィア・ロガンスカの《ダークファイバー》では、光ファイバーケーブルの製造工程を映した映像がジョージアの合唱曲「チャクルロ」とともに展開される。チャクルロは本来武装蜂起する農民を歌った歌だそうだが、本作では、ジョージアの読み書きのできない高齢女性が誤ってインターネットケーブルを切断した逸話をもとに構成された歌詞が歌われている。荘厳な合唱曲にのせて流れる光ファイバーの製造工程は、工業的な広告イメージにもかかわらず、どこか神聖なものであるかのように見せられている。また、歌詞ではハッカーコミュニティから引用された情報化社会の恩恵と優位が勇壮に歌い上げられながらも、「インターネットを知らない」という女性の存在は、社会の多層性とそのあいだにある格差をあらわにする。
川嶋渉の《東洋絵画の起源》は、「日本画」という概念を取り扱い、絵画を物理的に溯って分解することで、絵画として完成した状態では覆い隠されていた「日本画」のもつ欺瞞をあらわにしようとしている。今回の作品では、岩絵具を固着させる膠、そして形体としての屏風がフォーカスされ、剥がされた皮そのものの形体、並べられた膠の色や質感の個性は、獣の皮からつくられる膠の匂い立つような生々しさとその物質性を強調する。そして屏風の裏打ちに描かれた文字からは、絵画の裏側で展開される、表層とは異なる時間と空間の存在感が顔を出している。川嶋の作品は「日本画」という言葉とそれが指し示す作品、技法、あるいは理念を切り分け、その本質を言葉の成立に関わる近代的ナショナリズムなどから蒸留しようとしている。
2階から1階へ降りる階段ではピョトル・ブヤクの《スリープ・ナウ・イン・ザ・ファイア(火の海に沈め)》が流されていた。森の前で白い布を被せられ台の上に横たわった防疫服姿の男が、悠々とタバコをふかしている。景色と、男の姿、そしてタバコを吸うという行為、それぞれが矛盾しながら静かに時が流れていく様は、環境や多様性に関する様々な議論を並列して想起させる。
ウーカシュ・スロヴィエツの《ヤコブの夢》では、清潔でデザインされた部屋で何人かが生活をしている姿が映し出されている。ソファで酒を飲んだり、ベッドや床で寝たりしている彼らは着古した格好で、その手も土か油で薄汚れている。彼らは家を持たない路上生活者であり、舞台はコロナ禍による旅行者の減少によって利用者のいないアパートメントホテルである。これはスロヴィエツによる、アートが社会的経済的平等をもたらす一つの提案である。彼ら路上生活者は資本家によって支配された健全な社会に対して手を伸ばすことしかできないゾンビであるが、彼らがアパートに入り込むことによって、投資家は撤退し、住宅の価格は下がり、ゾンビは人間になる、というストーリーが展開される。精細につくり込まれた映像は剥がされた壁に投影されており、描かれる健全な社会とその影にあるゾンビの世界の表裏を想起させる。そして鑑賞者の立つ場所は果たしてどちらなのか、我々に問いただす。
最後のエリアで展示されているのは笹岡由梨子の《Planaria》だ。様々な国の民族衣装に身を包んだ魚の頭をした人形が12通りの異なった殺され方をし、それを奇怪な風体のキャラクターが祭壇に捧げるようにコレクションしていく。耳に残る歌詞とメロディーの歌にのせて行われるこの儀式は、不気味でグロテスクでありながら全体的にコミカルな印象を与える。しかし、同時に実際の世界で起こる悲劇を濃密に想起させ、人形が祭壇に掲げられるときの「誰が殺したんや!」という関西弁の叫びは、強烈なリアリティと鋭さを持って鑑賞者を抉る。
展覧会全体はショッキングピンクのデザインで統一され、作品間の動線にもピンクのLED照明による演出がなされている。会場には退廃的で淫靡な雰囲気があり、それぞれの作品のもつ性質とも合わさって、まるで未知の宗教の儀式に迷い込んだような奇妙な厳粛さと居心地の悪さがあった。既存の展覧会のシステムとはある意味真逆の環境をつくり出すこの仕掛けによって、意味伝達の不可能性やコミュニケーションの不全を否応なしに意識させられる。言葉が含まれる映像作品のすべてに字幕が入れられていたことも、最近の展覧会、あるいは作品では決して特別なことではないにもかかわらず、「Lost in Translation」のタイトルのもとでは、それだけでひとつの意味を獲得している。
──ロスト・イン・トランスレーション
「ロスト・イン・トランスレーション」という言葉は、何かしらの欠落、意味伝達の不可能性、それに伴うコミュニケーションの阻害や疎外感を指しているように思える。しかしこの態度を肯定的に捉え、迷うことを自分に許すなら、それはお定まりの型やスキーマに従うこと、頼ることをやめ、完璧で誤謬のない退屈な翻訳では誰も気づかないような、全く別の新しいコミュニケーションをひらくきっかけとなるのだ。
展覧会の3つ目のパートの最後、「ロスト・イン・トランスレーション」についてパフチャレクが記したのが上のテキストだが、このなかの「迷うことを自分に許すなら」という一文がこの展覧会の鍵ではないだろうか。つまり、社会の持続可能なモデルの構築と、不平等を是正する新しいシステムの提案というスケールの大きな問いに対する最初の一歩は、翻訳というプロセスが必然的に内包している、情報の欠落や誤解といった意味の不完全性と、その結果引き起こされるコミュニケーション不全を直視し、自らその失われた部分を解釈することを受け入れる、とても個人的で小さな許容から始まる。
そして本展は、そのきっかけや気づき、モデルとシステムの可能性を示しながらも、その答えは用意していない。自らを許容して新しいコミュニケーションをひらくきっかけを掴んだとき、それは既存の価値観や不平等を刷新し、自らの足で屹立して、新たなシステムを求めて戦うレジスタンスの一員となることを意味する。パフチャレクによる本展は、既存の社会へ向けた革命へ誘う、悪魔的な甘い囁きである。そしてその囁きが奇妙な厳粛さとリアリティを持っていつまでも耳に残るのは、私たちの社会の現状を鋭く暴いているからにほかならない。