「空気と水」(Air and Water)はヤン・ヘギュの2002年の展示タイトルである(*2)。 ポストコロナ・パンデミックの序幕として記録されるであろう2020年、ヤン・ヘギュは、同じではあるが他の言語といえる化学記号を使った同名の展示タイトル、「O₂ & H₂O」で故国に帰還する。空気と水の隠喩は、生命の源であり、ひとつの自然現象のように展覧会場に自ずと溶け入り、浸透する。
展覧会場の入り口であるソウルボックスに入ると、過去15年間深く掘り下げられてきた多様なブラインドのインスタレーションのひとつ《沈黙の貯蔵庫—クリックされたコア(芯)》(2017)が圧倒的な大きさと形状で置かれている。コバルトブルーのコア(芯)は非常に微かな速度でゆっくりと回転しながら、外縁の黒いブラインドと徐々に重なりつつ開閉、収束と分散を通じて波の模様をつくりだしていく。これは、ドイツの社会科学者ノエレ・ノイマンが唱えた「沈黙の螺旋」に似ている。
沈黙の螺旋は、個人の意思表明行為が社会的多数の意見に大きな影響を受けるというメディア理論である。個人が備えている類似—統計的な感覚器官(Quasi-statistical Sense Organ)を通して自分の見解が多数の意見と一致すると知覚するならば、自らの意見表明を自由に公表する。だが、少数の意見に属すると自覚したときは、社会的孤立への恐怖を振り払うために意見表明を自制することになり、結局、多数の意見だけ拡散され、少数の意見はますます沈黙に陥るという理論である。こうして支配的な意見である世論が形成される様子を、ノイマンは「沈黙の螺旋」と呼んだ(*3)。
このような意味で《沈黙の貯蔵庫—クリックされたコア(芯)》は、まるで2017年と2020年を横断する危機と破局、災害と切迫さという韓国社会を貫通する感覚のアッサンブラージュのように読みとれる。2017年朴槿恵(パク・クネ)前大統領の退陣要求の運動と弾劾審判、セウォル号1000日を追慕する大規模なろうそく集会とセウォル号の引き揚げ作業の本格化、新しい政権の誕生など、社会的・文化的・経済的に極限の変曲点に到達した韓国の切迫さにおける内在性が、2020年の気候災害と社会の両極化、ポストコロナ・パンデミックと同時代的日常性の崩壊という、個人の身体と生命、国家的な規律と社会的合意が共鳴する情動的な調律の場として、よりいっそう触発されるのだ。
《沈黙の貯蔵庫—クリックされたコア(芯)》を通して作家は、相互浸透性の関係、私たちが日常で当然視してきた世論という公的言説の非正常的な浸透性と呪術とシャーマニズムという個人的な情動の利害関係を両価的に表わし、抽象的意味と非可視的機能を視覚的構造物として再現してみせているのだ。ヤン・ヘギュの新作《五行非行》(2020)は、《沈黙の貯蔵庫—クリックされたコア(芯)》という近代性とは正反対にあるシャーマニズムを通して、古代と現代の同時代性、呪術と護符が私たちに喚起させる慰安、陰陽五行の調和で疫病を退治するというポスト・コロナ時代の不穏な隠喩と冗談、アニミズムと精霊信仰を通じた說位說經(*4)によって、救済することができず、統制されることができないものを慰める装置となっている。
これはジル・ドゥルーズが、ダイアグラムを通じて抽象化された思考と意識が、絵、図式、コードという視覚的具現物に変換される地点を指摘したことと通じている。ダイアグラムとは、現象についての視覚的な再配列、あるいは現象自体が目に見えないながらも察知することができる抽象機械(Abstract Machine)に変換される地点である(*5)。ブライアン・マッスミはドゥルーズのダイアグラムを拡大させてバイオグラム(Biogram)という概念を主張した。これは、個体の抽象関係網内の複雑な条件──例えば世論形成に対する個々人の知覚を通じた情動の様相──のなかから、自らの調整と仲裁を通して新たな認識を可能にさせる潜在的かつ、抽象的な認識の地図といえる(*6)。
ヤン・ヘギュは「互いに異なる温度差により発生する水の凝結は、静かで慎重な疎通のモデルである。違いを認知し維持するのなら、涙と汗が流れようとも、ともに共存することができる」(*7)と語った。まるでガラス瓶に凝結した水滴のように、ガラスに透過されたH₂Oという物質と水と呼ばれる実在がその実、現実に共存しているかのように、ヤン・ヘギュはやや低めだが、断固として言葉を投げかける。客体が語りかけささやく言葉の間を歩きながら、私たちが特異な意味や何か決定的な意味を見つけようとするのなら、むしろ何も見出だすことができないかもしれない。
しかし、精密に考案されたディテール、例えば画面の合成や特殊撮影に主に使用されるグリーンとブルーの色、すなわちクロマキー(Chroma Key)で内部が構成された壁体の通路(*8)、そしてその間を通過する粒子のように入り込んでいく観客には、自ら《ソル・ルウィット逆さま―21倍に拡張され開かれたモジュールの立方体》(2020)、《ソル・ルウィット逆さま―3倍に縮小された、構造物》(2020)と《音がでる家物》を舞台化させることも、《九角形ドア開閉》に別の次元に移動することも、トロンプルイユ(*9)のように、あたかも2Dを介して3次元的へのタイムスリップをすることもできる《DMZ非行》(2020)のように、あらゆる「仮定」が開かれている。無心に繰り広げられたものたちに注目するときに初めて、視覚言語化されたヤン・ヘギュの文法は解読されることになる。
2002年フランクフルトのドレスデン銀行で開かれたヤン・ヘギュの個展「空気と水」の展示構想は、作家の個人的な経験をもとに進められたものだ。作家はガソリンスタンドで「空気と水」という案内板を発見し、訝しくも思った。なぜならそれは、ガソリンスタンドという空間の主な業務が油を注油する場所であるにもかかわらず、タイヤに空気を注入してウォッシャー液を補充する行為という副次的ながらもあまりに根本的な作業を生硬に表象していたからである。
今回の展示では、空気と水を化学記号で置換し、隠喩や比喩、換喩や記号で表象化される現実のなかで、私たちが現実を認識したり、あるいは気づくことができない無形の経験と感覚を、現実の抽象性という概念を通じて導き出しているのである。
ヤン・ヘギュは、自然災害やパンデミック・パニックの状況、国境、異常、災難などに代表される政治的局面、世界情勢がもたらした社会の二極化の状況、技術の進歩に表出されるアンビバレントな感情など、つねにぶつかりあうが実体を把握できない日常の現象を、記号として併置する。これによって作家は、あたかも空気と水がO₂とH₂Oとして置換されるように、同一のことを指し示す他の言語的表現の移行期の間に、その実、他の現象が起きていたのではないかと反問し、私たちがいま現在、何を知らず、何を知りたがり、そしてそれを通して、何をすることができるのか、ということについての疑問、すなわち、現実の抽象性に対する絶え間ない過程を展覧会場のなかで繰り広げている。
それは、成し遂げられなかったメランコリアと、散り散りばらばらになった私/君/私たちをつなぐための熱望によって混ぜ合わされた、ある善意に満ちた英知と超然さ、大胆につかつかと展覧会場を歩きながら、私たちが運命のようにぶつかることになる様々な形態の顔で残存しつつ、新しい欠乏と不在のために一時的に定住しているヤン・ヘギュたちの肖像なのだ。
質料と形状が混成化され、非虚構と虚構が代わる代わる実在界と想像界をつくり出し、現実と比喩が互いにもつれ合い、滑り、散らばる瞬間に初めて、ヤン・ヘギュが伝えたい苛烈な無形の言語が隠密な輪郭を露わにし、語り出す。熱望が変化させる自我の流れ、その地点を通過すれば、ふたたびその前に戻ることができなくとも、その心の地形は変化の証であり、痕跡として残ることになる。あたかも軟性化された空気と水がたまるときに、広がらないように促成する力をも備えているかのように、あたかも流動性を回復した空気と水がその軟性を維持し続けようとするかのように、目に見えない流れをふたたび還流させ、切れてしまった節を結び、流れを継いでいるという確信感、それらは結局、ヤン・ヘギュの風/熱望/不可能性が触発するメランコリアの磁場の内部なのである。
だからこそ初めて私たちは、この世界がどのようにつながっているのか(《音が出る太い縄》)、目に見えるものと見えないものの連結網が何なのか(《五行非行》、《真正なる複製》)、そして、それらは私たちがいま踏みしめているこの場所(Topos)とどのように連結しているのか、ということに微かながらも目覚めさせてもらえるのだ。こうしたことを自覚した瞬間、凝結した展覧会場、そのなかでの空気や水のように、ゆっくりと染み込んでいくメランコリアが還流し始める。
*1──このヤン・ヘギュ展のレビューは、ヤン・ヘギュの図録『O₂&H₂O』(2021)に掲載した「メランコリアの還流:ヤン・ヘギュの空気と水(Melancholic Reflux: Air and Water of Haegue Yang)」(ソウル,現実文化研究,2021)から部分的に抜粋および、修正した内容である。
*2──2002年フランクフルトのドレスデン銀行で開かれたヤン・ヘギュの個展「空気と水」(Air and Water)は、あたかも空気と水の化学式で表記されたO₂&H₂Oの言葉遊びのように読みとける。
*3──Noelle-Neumann, E, “The spiral of silence: A theory of public opinion” Journal of Communication, 24 (1974): 43-51
*4──說位說經は、白い窓戸紙(障子紙)に神霊、菩薩、花の模様等を切り抜いて鬼神を捕まえ閉じ込める道具として使われる。「経を説く」という意味をもち、ヤン・ヘギュの作品の間に置かれているまた別の作品《真正なる複製》(2020)は、機械で変調された作家の声が呪術のように展覧会場の廊下に響き渡る。
*5──Deleuze, G, Foucault, trans. Sean Hand (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1988), 34
*6──バイオグラムは、抽象性に対する視覚的具現のみならず、視覚に反転されない個々人の実体的な経験を通じて蓄積された感覚、特定の知覚で定義される以前の根源的感覚(primordial sense)、マッスミによれば、「現在のなかに感知された過去や未来のイメージ」等を称する。Chapter 8, Strange Horizon: Buildings, Biograms, and the Body Topologicを参照すること。Brian Massumi, Parables for the Virtual: Movement, Affect, Sensation (Durham, NC: Duke University Press, 2002), 177-207
*7──「MMCA 現代車シリーズ2020: ヤン・ヘギュ—O₂ & H₂O」展 ブロッシュアー(ソウル 国立現代美術館,2020), 2
*8──壁体の前の面は白い色で塗られており、後ろの面はなんの筆使いもない生の状態になっており、観客が外を見る方向の内側だけがクロマキー(Chroma Key:画像/映像編集技術のひとつで、特定の色を持つ領域を切り抜き、そこに他の画像/映像をはめこむもの)で構成されている。
*9──トロンプルイユ(Trompe-l’oeil)とは、実物と錯覚するほど精密で生き生きと描写された絵のこと。これは単に眼の錯視を利用した油絵なのではなく、実際と虚構のあいだで衝突する現実を反映する。DMZという韓国の情勢的災難や技術的媒介を通じて世界を理解し、解釈する手段として作動する万華鏡やロボット昆虫のように人間に欠乏した能力を拡張し、人間の疎通や身体的限界を補完する補綴術(Prosthesis)として、過去と未来の歴史的記憶を現在に媒介する中層的場所および、時間として機能する。