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2019.12.29

システマチックな都市空間に風穴を開ける。藤田直哉評 トモトシ「有酸素ナンパ」

「あいちトリエンナーレ2019」に参加するなど、気鋭の新人作家として注目を集めるトモトシ。現在、埼玉県立近代美術館では、そのトモトシの個展「有酸素ナンパ」が開催中だ。本展でトモトシは、都市と人間、あるいは都市における人間同士の関係性を問い直す実践を「有酸素ナンパ」と定義。新作を含む映像作品の展示を通じて、都市に潜在する様々なシステムの無根拠さと脆弱さを抉り出している。以前よりトモトシの活動を追ってきた批評家の藤田直哉は、本展をどう見ただろうか?

文=藤田直哉

「アーティスト・プロジェクト#2.04 トモトシ」(2019)展示風景 撮影=奥祐司  
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 トモトシは1983年生まれの作家で、豊橋技術科学大学建築工学課程(建築意匠)を卒業後、建築設計業務やコンセプトデザインなどに携わった経歴を持つ。ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校にも第1期生として参加し、「WIRED CREATIVE HACK AWARD 2019」で準グランプリ、「デイリーポータルZ新人賞2017」では優秀賞を受賞した。「あいちトリエンナーレ2019」の豊田会場では、トヨタの遺跡のような作品《Dig Your Dreams》(2019)を展示し、話題になった。

 個人的に好きな作品は、セブンイレブン前にあるギャラリーを、コピー用紙でセブンイレブンに見せかけた《セブンイレブンでセブンイレブンを買う》(2018)というインスタレーションである。見かけをセブンイレブンに寄せることで、住人がざわつき、社会のシステムに不思議な波を立てた。

 このように、トモトシは「建築」「都市デザイン」的発想と、「ハック」的な感性を合わせ持った作家だ。そんな彼の新作映像を中心とした個展が、埼玉県立近代美術館で開催されている「有酸素ナンパ」である。タイトルからするとチャラそうだが、内容はけっこう真剣な都市論であり、社会論の実践であるようにも見える。

 新作4点、過去作3点の映像作品が、館内のあちこちで展示され、上映されている。メインの会場は廊下(通路)で、自転車が並んでいたり、リラックスできるような椅子があったり、横にならされたりする。そこに寝て観ていると、通る人たちが奇異な目で見ていき、なかなか複雑な感情を覚える。このような展示スタイルは、映像作品の内容と呼応している。今回の作品は、どれも公共空間で見知らぬ人々に関わっていく様子をとらえた映像作品だからだ。

展示風景より、トモトシ《カラーパーキング》(2019) 映像 撮影= 奥祐司

 たとえば、《グレイトイベント》(2019)。異様に長い棒高跳び用の棒を、東京オリンピックのTシャツを着たトモトシが、浦和から新国立競技場まで徒歩と電車で運ぶ。その際、棒を運ぶように通りすがりの人に頼み、片棒を担がせてしまうのだ。トモトシはオリンピック関係者ではないし、棒は浦和高校で使っている棒高跳びの棒なのだが、東京オリンピックのTシャツを着たトモトシが、新国立競技場まで運びたいというと、多くの人は喜んで協力してしまうという様子が描かれている。Tシャツと「新国立競技場」というワードによって、人々の意識がハックされ、行動や態度が発生するのである。

 そのほか、駐輪禁止の場所に自転車を停めにきた人たちに注意をし、色別に揃えて並べるよう指示する作品《カラーパーキング》も面白い。トモトシにはそんな権利はないはずだが、多くの人々が無意味な指示にしたがい、自転車は色ごとにまとまって秩序を形成していた。権威ある管理者であるかのように振る舞うだけで、人の行動をハックできてしまうのだ。

 「ナンパ」とは、このような街頭における見知らぬ人たちとのコミュニケーションを意味する。「ナンパ」は大半の場合、無視されたり、邪険にされるばかりでうまくいかない。だが、「棒高跳びの棒」や「東京オリンピックのTシャツ」などを利用すると、半ばハックのように協力行動を導き出すことができる。ちょっとした装置や見かけで、人々が協力したり命令にしたがうのを見て、私たちは皮肉を感じるだろう。人間とは、社会とは、秩序とは何かを考え、デザインとは何かを考え始めるだろう。

トモトシ グレイトイベント 2019 映像 © TOMOTOSI 
トモトシ グレイトイベント 2019 映像 © TOMOTOSI 

 この映像は、ちょっとした無意味なユーモアのようだが、そこにはぞっとするようなこの世界の空虚さが漂っている。「こうやって世界は動いているのだ」という事実性そのものへの信頼感(そうやってこの世界は維持されている)と同時に、私たち人間が織り成している秩序や、したがっている慣習があまりにも容易くハックされることの脆さと無根拠さに、ヒヤヒヤさせられる。

 だが、この容易にハックされてしまう脆弱性は、見方を変えれば希望であるのかもしれない。不必要かつ無意味な規則で自縄自縛になり、効率が悪く幸福度の低い社会をつくってしまいがちな「日本文化」のなかで生きている私たちにとって、そこに簡単に風穴が開くかもしれない、別様に変えられるかもしれないという期待が発生する。じつは隙間だらけだと知ることによる、風通しの良さと解放感もある。

 トモトシはツイッターで、「あいトリの二か月間、分断と連帯について考えていました。それがこのちょっとふざけたタイトルに繋がっているのかもしれません」と述べている。道行く他者とつながることを試みる本作は、見知らぬ人たちが激しく対立し分断するツイッターでの炎上と対比して考えられるべきだろう。現実の公共空間で、人々の協力行動を発生させ「つないでいく」方法の実験のようにも見える。

 だが、「日本」に強い愛着を持つと自称する人々が、電凸や脅迫を繰り返したあいちトリエンナーレを知る私たちは、協力を引き出すために必要な装置が「東京オリンピック」であることに、ナショナリズムの功罪を巡るアイロニカルな思いに誘われてしまうだろう。思えば、天皇や国家イベントも、国民の一体感、「国民」という感覚を生み出し、協力行動を誘うための装置なのだから。

トモトシ 美しい日本の私たち 2018 映像 ©️ TOMOTOSI

 本展の展示作品のなかには、《美しい日本の私たち》(2018)という、川端康成のノーベル賞受賞スピーチのタイトル「美しい日本の私」を参照した作品がある。ここでも東京オリンピックのTシャツが用いられている。また展示はされてはいないが、トモトシは以前、大江健三郎のノーベル賞スピーチから着想を得た《あいまいな日本の私たち》という作品も発表している。これらの作品から推測されることは、彼はいま「日本」の私たちの無意識的な社会を織り成す原理そのものを見つめ、可視化させようとしているのではないかということだ。

 大きな装置と個人の間にある広大な領域で作動している何かを可視化させることで、我々はそれを意識し変えることもできるようになる。半ば無力さへの諦念混じりにも思えるが、トモトシの眼はその領域を確実に鋭く見つめ、抉り出して私たちに提示してくれている。