1998年の幽霊、2015年のヴィデオ、2020年の視聴者
2020年3月末、映画監督の濱口竜介が自作の短編映画『天国はまだ遠い』(2016)をオンラインで1ヶ月限定配信した。『天国はまだ遠い』は既に劇場公開された映画だが、本作は2020年の春にいかなる意味合いを帯び、各人の自室で再生されたのだろうか。本稿では、本作の物語の起点である1998年に着目することで、本作をメディウム(medium/映像媒体/霊媒)の物語として読み解いてみたい。
最初に粗筋を紹介しよう。本作の主人公は、女子高生の三月(みつき)と中年男性の雄三である。映画の冒頭、二人は同居しているかのように描かれるが、じつは三月は17年前の1998年に事件に巻き込まれ17歳で亡くなっており、いまは幽霊として高校の同級生だった雄三に憑いている。幽霊である三月は17歳のまま変わらないが、17年が経過し同級生の雄三は既に34歳である。その雄三のもとに三月の妹、五月(さつき)から連絡がある。五月は姉を知る人々に取材してドキュメンタリー映像作品をつくろうとしており、雄三にもインタビューを試みる。
見えないはずのもの(=幽霊)が見えてしまう雄三は、見えてはいけないものを見えなくすること(=アダルトビデオのモザイク処理)を仕事にしている。いっぽう、五月は見えないもの(=亡くなった人の痕跡)を見えるかたちにすること(=映像化)を目指している。この設定から既に、本作は可視、不可視と映像の力学について自己言及的に扱っていることは明らかである。
さて、ここで気になるのは17歳の三月が事件に遭遇した1998年という年である。1998年、女性の幽霊、映画と言えば、じつはこの年に、日本のホラー映画の代表作のひとつ『リング』が公開されている。『リング』は1997年9月に女子高生のあいだで「呪いのビデオ」の都市伝説が噂されるシーンから始まるが、この女子高生は三月や雄三と同世代なのだ。そして「呪いのビデオ」がモチーフとなっているように、『リング』はVHSヴィデオという映像媒体に捧げられた作品である。
そこで私は、本作『天国はまだ遠い』を、『リング』の時代の映像装置と、2010年代の映像装置の対比を軸に綴られる幽霊譚として読み解いてみたい。98年に幽霊となった三月はアナログなVHSヴィデオの時代に留まり、いっぽう、デジタル一眼カメラで動画を撮影する五月はデジタル映像の配信が普及した2015年を生きている。そして、雄三は、その両者を繋ぐ媒介者/霊媒者と位置づけられる。
そもそも、心霊写真やオカルト映像の豊かな系譜が証明するように、幽霊と映像機器は抜群に相性が良い。不可視の存在をとらえる技術として映像の歴史をとらえることも出来るほどだ(*1)。なかでも、「呪いのビデオ」を核とする『リング』は、前川修の詳細な分析によれば(*2)、VHSヴィデオというメディウムの特徴を極めて巧みに恐怖の創出に用いている作品だ。貞子は、ヴィデオの再生画面から姿を現す幽霊である。加えて、ヴィデオが不特定多数によって再生、コピーを繰り返されること、そのなかでテープが摩滅し映像に歪みや荒れが起こることなど、ヴィデオというメディウムならではの特性が、『リング』では恐怖感を掻き立てるべく総動員されている。
いっぽう、『天国はまだ遠い』においても、三月が雄三へ憑依し五月の前に現れるのは、デジタルカメラが回っている最中である。『リング』では、鑑賞者の不安感を増幅させる演出方法として映画自体のフレームと作中のヴィデオのフレームの一致が行われていたが、『天国はまだ遠い』でも作中のデジタルカメラのモニターのフレームは映画のフレームと重ね合わせられている。しかし、この映像内映像は、極めて明るく明瞭な肌理を備えている。自然光に照らされた白シャツ姿の雄三は、憑依中であっても(いや、むしろ三月が憑依しているからか)思いやりに溢れた善良な人物のように映し出される。2015年の「心霊ビデオ」は、『リング』の想像力を支えていた禍々しい「心霊ビデオ」とは似ても似てつかぬものなのだ。実際、この「心霊映像」を意図せず撮影してしまった五月は、恐れ慄くどころか最後に「ありがとう」と感謝の言葉をもらす。
また、先の前川の分析のとおり『リング』はVHSヴィデオの物質性に支えられている。そして、その時代に生きた三月もまた、たびたび人間に物理的に接近しようとする。雄三の背中ごしに漫画を読み、五月の顔を真横から眺める。しかし、三月と雄三が手を触れずに踊るシーンから察するに、幽霊の三月は生きた人間と直接は触れ合えないようだ。ヴィデオテープの映像をパソコンやメディアプレーヤーではそのまま再生できないように、90年代の幽霊と2015年を生きる者は無媒介には繋がりあえない。
ただし、VHSヴィデオの磁気テープに刻まれた映像も、データに変換すればデータ専用の再生機で映し出せる。つまり、三月も媒介物(=雄三という霊媒)をあいだに挟んだときのみ、2010年代を生きる五月の前に表出し、彼女と言葉を交わせるのだ。無論、雄三の体を通した三月と五月の会話自体が、雄三の悪趣味な演技である可能性は捨てきれない。実際、五月自身、雄三は生前の姉の口調を真似ているだけではないかと疑ってみせるが、それでも、その曖昧さを含め、姉らしき何かと言葉を交わし涙を流す。真偽の追求よりも、生者と幽霊という異なる存在同士が一瞬だけでも共存できる可能性に、賭けているのだ。
以上、『天国はまだ遠い』に『リング』という補助線を引くことで、本作が映像技術の新旧について批評的に触れつつ、人間と非・人間的存在の交流をいかに繊細に表現しているかが多少なりとも伝わっただろうか。
濱口が本作を公開した2020年の1ヶ月間、人間が物理的に集い直に交流しづらい状況が続いている。多くの人が、パソコン、スマートフォン等のモニター越しに自宅の外部を眺め、人と交流するしかない。そして、モニター越しでは、三月にとっての雨と同じく、見たり聞いたりすることはできても、匂いや触感はとらえられない。また、オンライン配信された動画は、あの劇場で見た映画と同一なのか、あるいは全く別物なのか。そのような状況下で無料配信された『天国はまだ遠い』は、物理的には同じ場所にいない一人、一人、やりきれなさとともに温かな情感を伝えたものと想像している。
*1── 浜野志保『写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写』青弓社、2015
*2──前川修「リングのふたつの意味:『リング』のイコノロジーとイコノミー」『美学芸術学論集 11』神戸大学芸術学研究室、2015、pp.6-20