重なりあいを見つめ、生きること
前作『ハッピーアワー』(2015)の国際的な成功が注目を集めた濱口竜介監督の最新作『寝ても覚めても』は、映像それ自体の雄弁さもさることながら、直接的にはスクリーンに映っていない事柄も利用することによって、静謐な緊張感を獲得した作品である。
ヒロインである泉谷朝子の恋人役・丸子亮平は、朝子の前の恋人である鳥居麦とまったく同じ容姿をしている。東出昌大の一人二役によって実現したこの設定によって、濱口はヒロインの逡巡を丹念に描きながら、イメージの帰属先をつねに問い返すような構造を作品に持ち込んだ。
そのための中心的な主題として取り上げられるのが「顔」である。朝子は、亮平につきまとう麦の面影から逃れることができない。彼女にあって麦の顔は、ある種の絶対性によってしるしづけられているからだ。それは交際を始めるきっかけとなったシーンからも看取されるだろう。爆竹の音に驚き、振り返りざまに視界に飛び込んできた麦の顔は、クローズアップとスローモーションによって、ミステリアスな超越性を湛えている。
しかしいっぽうで、顔はこうした固有性を持つと同時に、記号としての側面も有している。たとえば証明写真のように、視覚的還元を経たそれは比較対象にもなり、類似という問題系もそこから派生する。劇中に登場する牛腸茂雄の写真作品が双子の姉妹を撮影したものであることも踏まえるならば、このような二重性を本作が強く意識していることは明らかだ。
同じ顔が並んでいる写真を見つめる朝子は、そのアポリアを一身に引き受ける存在として運命付けられている。顔とは固有のイコンであると同時に、アイコンとして表象の無限の連鎖のなかに放り込まれてしまうイメージにほかならない。
さらにそれは、映画という表現の二重性へと敷衍される。濱口は『ハッピーアワー』でも行なわれた「本読み」を引き続き採用することによって、演者自身と、虚構内のキャラクターの二重性を共存させようと試みる。「本読み」とはロベール・ブレッソンらも実践していた演出メソッドであり、シーンに臨む出演者全員で、ニュアンスや身振りを排除してセリフを読み上げてから撮影に入る方法だ。そのような白紙還元を経ることによって、新たな身体性を獲得することがここでは目指される。
しかし濱口は、ブレッソンのようにカメラが回るその場においてもアクションを抑制する方針はとらず、本番では感情や身振りを入れることを禁止していない。ただそのとき重視されるのは、自分以外の演者の言葉を「聞く」ことである。それに反応した演技によって、俳優自身と、フィクションにおける立ち振る舞いが共存した身体が立ち現れる。過剰な作為が介在することなく、登場人物はその場の関係性のなかに息づきはじめるのだ。
本作の劇的な設定や展開が説得力を持つのはこうした演出の成果であり、このようにそれぞれの登場人物の二重性が見出されることによって、それは物語ではなく、映画というメディウムの水準において再定位されるだろう。
ラストシーン、麦への思いを振り払って出戻った朝子は、亮平とベランダから川を眺めている。映画批評家のアンドレ・バザンは、かつて映画の古典的な技法の完成を河床に例えた。河床は水によって、つまり数多の映画作品によって削られることで安定した「理想河床」となる。顔、そして俳優の身体に避けがたい二重性があるのと同じように、映画それ自体にもまた、その背後には歴史が重なりあっている。
「俺はきっと一生、お前のこと信じへんで」と亮平は言う。しかしその言葉は裏を返せば、朝子が自分の顔に、ほかの誰かを重ねてしまうことの許容ともとれる。本作のクライマックスは、ここまで述べてきたような映画史も含む様々な位相でのイメージの重なりあいに言及していると同時に、この世界における、信じるに足る審級の不在を肯定しているかのように響くだろう。
だが朝子が亮平との関係を断ち切ることができなかったように、どんなに信じることができなかったとしても、彼らはそこから降りることができない。映画は舞台ではない。フレームの外は、原理的に存在しない。映画は私たちが生活しているこの世界と、どこかよく似ている。
重なりあいを見つめ、そしてそれを生きること。『寝ても覚めても』は映画への形式的探求を通じ、世界との関係性を模索する。増水した川を見て、亮平は「きったない川やで」と吐き捨てる。しかし朝子は「でも、きれい」と応じることによって、そこで生きていく覚悟を静かに表明するのだ。