宇宙空間への入植と人間の身の丈
本展「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命─人は明日どう生きるのか」は、将来的な技術革新と現在の技術の集積による社会の大きな変動と、それに伴う、新しい人間性、生活、生命、愛を問うものである。それゆえ、本展は非常に多岐にわたる論題を有するので、なかでも特徴的な「都市」に論を絞ることとする。本展は、加速度的な技術革新を多彩なプロジェクトから紹介し、その後、人はその技術によって(誰かに)制御されてしまうというような事態に疑問を投げかけ、楽観的な技術進歩主義への警鐘として作品を併置する。すなわち、いずれにしても、本展は技術的進歩による制御=管理の変化を基底に据えている。
都市ないし世界では、これからどのような制御が起こるのだろうか。どのようにそれらが提示されているのだろうか。または、制御が可能になっていく未来を前提とするということは、何を意味するのだろうか。
本展で提示されている未来の都市像は、大きく2つに分類できるだろう。火星、海上、砂漠または空上を、人間の安息の地へと制御可能に変えることを目的とした新規入植型、スクラップなしのビルド(アラブ首長国連邦の都市計画「マスダール・シティ」やハッセル・スタジオ+ECOの「NASA3Dプリンター製住居コンペ案」など)と、視聴覚文化が育んできた、セクション「映画にみる未来都市」が示す、複数の建築・文化様式が入り乱れている混沌とした増築型(映画『ブレード・ランナー』や『AKIRA』など)である。入植型は、建設中でコンペ用の紹介映像トレーラーや模型が並び、増築型は、映画公開時のポスター、こちらもまたトレーラーを鑑賞することになる。
入植型は、いずれも地球温暖化を始めとした環境問題への答えとして、水上都市や砂漠での持続可能で文化的な居住地域化を提案している。それを見たあとの『ブレード・ランナー』の地球では、うず高く住居が増改築され、廃墟は無法地帯となり、大気汚染による酸性雨で覆われている。こちらでも決行されている火星への入植では、人間はアンドロイドを奴隷として使役し、アンドロイドが地球外生命体との激戦に明け暮れている。制御不可能な事象と、技術によって可能となった入植にまとわりつく新たな倫理の問題が頭をもたげる。ここで、増築型は入植型の「技術によって問題は解決します」という楽観性に対するカウンターとして機能している。
ここで気になるのは、入植型の多くがコンペや広報用のトレーラーである点だ。なんらかの計画を売り込むときに、その負の側面や困難性自体を打ち出すものではないし、細部を語る映像の尺幅はトレーラーには無い。
火星への入植に関してNASAで例年行われている3Dプリンタ製造居住コンペ(3D-Printed Habitat Challenge)に出されたハッセル・スタジオ+ECOの案のトレーラーはその好例だ。火星の地表を採掘し、その土をフィラメントとして3Dプリンタでドームをつくり、居住区域を構築する案が示されている。そこで注目して欲しいのが、その火星で建築する難関のひとつでもある絶え間ない大規模な砂塵嵐を1カット挟んだあと、すべての物事は穏やかな無風地帯で推移する演出だ。もちろん、間断なく砂塵をシミュレートしては、肝心の案が見えないのだが、そのようなトレーラーの、映像としての確信的な楽観性の文法を足し引きせず、記号的にトレーラーが壁に掛かっている。本展「未来と芸術」にとって、未来に投企されたプロジェクトと、これから記述する作品は、混ざり合うことなく分裂している。
会場は続いて、作品に入っていく。マイク・タイカの《私たちと彼ら》(2018)が、大量のTwitterのbot投稿が選挙をはじめとした人の選択を方向付けられると見せつけ(*1)、ラファエル・ロサノ=へメル&クシュシトフ・ウディチコの《ズーム・パビリオン》(2015)が、巨視的かつ狭視的な監視によって、人と人の関係性まで把握可能であることを示唆する。
これらを筆頭に、本展は行き過ぎた楽観的な技術進歩主義への考え直し、立ち止まりを促す作品が多く並んでいる。ただし、技術進歩主義自体を批判するものではないことには留意するべきだろう。人々の情動や思考、いままで居住できなかった土地を管理、制御可能になっていくことに対する、危機感を伴った制御の進歩史観であることに変わりはない。
むしろ、本展には進歩史観を前提とした人間中心の想像力をどこまで羽ばたかすことができるかどうかのケース・スタディが、人間の命や身体や居住や都市を任意の技術「で制御する/される」主体と客体のバリエーションを軸に展開されている。しかしながら、本展は物理的アーキテクチャにおける制御の内容については雄弁だが、制御の形式や背景にある未来への向き合う姿勢については寡黙である。
本稿でいうところの入植型が、本展では「ネオ・メタボリズム」という造語で呼ばれていると考えられる(*2)。1959年から黒川紀章や菊竹清訓らが消費社会における成長と変化を前提として構想したメタボリズム運動が、21世紀の技術革新(3DプリンタやAI、バイオ工学)によって更なる現実化を迎えたということだ。
社会哲学の篠原雅武が指摘するように(*3)、そもそもメタボリズムは、技術によって都市を制御可能だとする前提を抱えているが、その前提は磯崎新による都市が崩壊・融解したあとを志向することを筆頭に、批判的な検討が積み重ねられてきた。磯崎にとってそれは第2次世界大戦や震災のあとを考えることであり、篠原は人口減少による空き屋の発生といった緩慢な現状にも、都市を考える前提条件が広がっていると指摘する。
すなわち、メタボリズムにおける未来的な思考には、現前する世界の偶然的で決定的な細部に対してあまりにも楽観的であるという批判が与えられてきたのである。しかし、本展は、その立場をとることはしない。実現を目指す多くのプロジェクトはそもそも、思弁的で持続的な時間に立脚して物事を計画することが必要であるからだ。ただし、どのようなプロジェクトにも細部は存在している。だが、それを本展が見せることはないのだ。これが、本展の未来像そのものであり、この時間性が本展のひとつの未来への姿勢あるように思う。
会期半ばの2020年2月29日、新型コロナウイルス拡散と予防の対策として、森美術館は臨時休館。そのあとは閉館期間が暫定的に延びていくままに、本展は幕を下ろすこととなった。
新型コロナウイルスに対し、感染学者をはじめとして、いま誰もが全くの未知に直面している。展覧会をいつどのように開催できるのか、どの施策がどの程度有効なのか、終息宣言がいつ出されるのか、誰にもわからない。国によっては感染のピークを過ぎたという分析もあるが(*4)、制御不全が各地で起こり続けている。様々な商業が暖簾をおろし、成長と変化とは異なる、停滞、都市機能の崩壊に面している。
「未来と芸術展」が示した制御を基底とした未来はもちろん、ただの虚像ではないが、そもそも、つねに計画は計画でしかなく、予定通りに進まない。2019年に開場した新国立競技場はその例として記憶に新しい。大乗段として計画を可能にする技術がある一方で、その計画を実現化するには、計画に対する誤差を前提条件とした、微細な判断・行為が無限に積み重なっている。
そのようなプロジェクトにおけるプロトタイプと実現の誤差、制御不全がどのような形で生じ、なおその形を成立させ得ようとしているのかが、たったいまの、明日をどう生きるのかという問いにはふさわしいように思う。
本展のように、新たなる人間性を問うことと、人間を世界の管理者として中心に据えることを必ずしも一致させる必要はない。作品にしても、プロジェクトにしても、表象と事物そのもののあいだで揺れるところに、新しい技術は現れているはずだし、そのようなものに対面したい。
*1──人工知能によってつくりだされた架空の人物のアイコンとツイートを印字したロール紙が天井から垂れ流れ続ける作品。
*2──「ネオ・メタボリズム」とは別に、本展に即して開催されたシンポジウムでは、舩橋真俊がメタボリズムを批判的に発展させるかたちで「メタ・メタボリズム」について発表を行なっている。本論では、(ウイルスも含む)突然の災害により資本経済が立ち行かなくなるほどに、あらゆる前提が地殻変動を起こす時代における都市が論じられた。現代では、社会資本と自然資本が相乗し、持続可能な世界を執拗に模索することが必要であり、それ(食糧生産と砂漠緑化)はすでにアフリカ・サヘル地方で生態系レベルへの介入を行うことで実現されたという。舩橋は、土壌・体内環境・都市環境・生物多様性など各階層の新陳代謝の総体をメタ・メタボリズムと呼び、どのように都市を拡張的に考察し、制御するべきかを実際的かつ思想的に実験・展開している。(参考:舩橋真俊「メタ・メタボリズム」『人は明日どう生きるのか──未来像の更新』NTT出版、2020)
*3──篠原雅武「新しい都市のマテリアリズム」『現代思想』43巻1号、青土社、2015
*4──ドミトリー・ザック「イタリア、新型コロナの集中治療患者が減少 流行発生後初めて」『AFPBB News』2020年4月5日、(https://www.afpbb.com/articles/-/3277165 最終アクセス:2020年4月5日)