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REVIEW - 2019.12.27

美術を取り巻く構造に風を通す。中村史子評 泉太郎「スロースターター バイ セルフガイダンス」

自身のパフォーマンスを収めた映像やインスタレーション、ドローイングなど幅広い方法によって作品を発表している泉太郎。名古屋芸術大学Art&DesignCenterにて「芸術大学」をテーマに据えた個展を開催。自身も学生として過ごし、現在は教鞭を執っている「芸術大学」という空間をとらえなおし、アートと社会システムとのあいだに起こる摩擦について再考。あらゆる要素がからみあった複雑な構成のなかで泉が投げかける問いを、愛知県美術館学芸員の中村史子が読み解きレビューする。

文=中村史子

《使用済み扉/立て掛け画板》(2019)の裏側からの展示風景 撮影=怡土鉄夫

保存と再展示、美術教育、作家と演者の関係
への批評的応答

 泉太郎の個展「スロースターター バイ セルフガイダンス」には、泉が芸術大学のリソースを用いながら1960〜70年代の前衛的な表現を再演したと思われる作品が、多数出展されている。大勢の学生がカメラを指差す《網目模様a》はヴィト・アコンチの《センターズ》(1971)のパロディーだろうし、誰でも室内に自転車を駐められる《厩戸の小鹿たち》は生きた馬をギャラリーにつないだヤニス・クネリスの《無題》(1969)を想起させる。また、学生アルバイトによって実演されるパフォーマンスのいくつかは、ブルース・ナウマンの《正方形の周囲を誇張されたやり方で歩く》(1968)やアコンチの《適応についての三つの研究:目隠しキャッチ》(1970)にもとづくと想像される。とは言え、馬でなく自転車だったり、もとのパフォーマンスを知らずに泉の指示のみに従って体を動かす学生もいるため、そのアウトプットはオリジナルと随分ずれたものとなっている。

《網目模様a》(2019)の展示風景 撮影=怡土鉄夫

 

《厩戸の小鹿たち》(2019)の展示風景 撮影=怡土鉄夫

 これら泉太郎の試みは、パフォーマンスに代表されるかたちの残らない芸術表現の保存や展示に対する批評的応答だと、ひとまず言うことができるだろう。近年、パフォーマンスの保存、展示に関する議論が世界的に盛んである。一回性に重きをおいたパフォーマンスを美術制度に回収して保管する矛盾に始まり、何をもって「作品」とするのか、メディアや演者、発表空間が変化するなかで作品の同一性はいかに担保されるのか等、これら問題に対して、多くの議論と実践が蓄積されつつある。泉も、この問題に、ひとりの表現者として応えていると言える。

《網目模様b/無し食い虫a》(2019)の展示風景 撮影=怡土鉄夫

 いっぽう、本作の制作と発表が芸大で行われている点も意味を持つ。美術教育において、先人の表現の模倣は、一定の教育的価値を持つとされてきた。そう考えると、泉が学生たちに、数十年前のパフォーマンスを模倣させているのは、極めてオーソドックスな教育的指導だととらえることも可能である。

 けれども、その教育的指導の前提には、「作家」かつ「特別客員教授」でもある泉と、学生たちのあいだの高低差がある。教育の名のもとで意味不明な動作を学生にさせることで、「教授/学生」のはらむ不均等な関係についても自覚的に振る舞っているのではないだろうか。こうした彼の露悪性は、「アルバイトパフォーマー」を平然と募り、演者である学生と雇用関係を結ぶ様にも見て取れる。

 さて、ここまで本展の特徴を整理してきた。泉は、作品の保存と再展示、美術教育、作家と演者の関係といった複数の論点を巧みに扱う作家だと理解されるかもしれない。けれども、次元の異なる諸問題を重ねてその切断面を鮮やかに見せる、とも言い切れないもっとナイーヴで私的、繊細な雰囲気も本展会場には漂っている。そして、その雰囲気こそ要であるとも私には思われる。

《使用済み扉/立て掛け画板》(2019)の表側からの展示風景 撮影=怡土鉄夫

 この直感は、《使用済み扉/立て掛け画板》からもたらされる。本作を展示室の正面入り口から眺めると、白く塗られた木製パネルが何枚も立っているように見える。さらに、部屋の中央にはその展示室内を映した動画が入れ子構造的に投影されており、全体的に白の矩形で構成された硬質な空間となっている。

 しかし、そのパネルの背後に回ると、各パネル裏面に学生がじっと潜んでいる動画が流れていることに気付く。彼らは本作で「芸大の学生」「若者」といった言葉では括れない私的で個人的な姿を見せている。パネル裏面に身を隠すという動作ゆえか、内省的で不安そうにも見えるし、同時に、居心地の良い巣に籠っているような印象も受ける。おそらく、パネルによって隔てられると同時に守られている学生の状態を、泉は芸術大学の在学期間のメタファーとして提示しているのだろう。

 さらにここで、泉太郎自身が、自らのパフォーマンスを記録した映像作品で若くしてデビューした作家であり、彼自身の表現が1960〜70年代のパフォーマンス映像の系譜に位置付けられることを、改めて思い起こそう。この事実から憶測するに、泉は、過去のパフォーマンスを再演する学生たちに、自分自身の若い頃の姿も一部投影しているのではないか。学生たちは、アコンチやナウマンだけではなく、泉の活動をも気づかぬうちに身体に引き受け、リエナクトメントしているのではないだろうか。

 ロザリンド・クラウスはヴィデオを用いた作品の構造を心理学に拠りながら考察し、ヴィデオという媒体の特性は自己をまなざすナルシシズムであると定義づけた。アコンチ《センターズ》に代表されるヴィデオの作品では、作家/演者/鑑賞者がお互いを同語反復的に見つめており、そこにナルシシズムの閉域が生じるというわけである。

 そこから、泉がヴィデオを用いて立ち上げたこの展示会場自体も、「ナルシシズムの閉域」の一種だととらえることができないだろうか。ここでは、数十年前の前衛作家、そして泉太郎自身の過去の姿は、学生たちの身体とヴィデオを通じて、分身のように立ち現れ、それを泉太郎本人、そして鑑賞者が再び見つめるのだ。

 けれども最後に強調したいのは、この奇妙な「ナルシシズムの閉域」には自己撞着的な閉塞感はなく、むしろ穏やかな開放感すら漂っている点だ。展示室の各所に置かれた扇風機が風を生み出し、さらに部屋の扉が屋外に向けて開かれているがゆえだろう。そのため、この閉域は物理的に外と通じ風が通っている。

 風は、戸惑う学生の頭上を吹き抜けていく。