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REVIEW - 2019.3.27

異国の地で生き抜くための覚悟。長谷川新評 小圃千浦「カリフォルニアに生きる。」展

太平洋戦争中の強制収容といった過酷な体験を耐えながら、アメリカでその生涯を全うした画家の小圃千浦(おばた・ちうら)。そんな小圃の初回顧展が昨年アメリカで開催され、今年に入ってその巡回展が岡山県立美術館で開催された。東洋と西洋の美的感覚が混在する小圃作品約140点を紹介した本展を、インディペンデント・キュレーターの長谷川新がレビューする。

文=長谷川新

小圃千浦 ヨセミテ公園庁舎に近づく雪の嵐 1939 個人蔵

ホーム、アンド、ドライ。

 めちゃくちゃ私的な話をするが母が還暦を迎えた。母はその20代のほとんどを英語もできないままアメリカでウェイトレスをするなどして過ごし、これまたアメリカで寿司屋をやるのだと息巻いてやってきていた父と出会い、ユタ州ソルトレイクシティで筆者と弟を産んだ。筆者が3歳のときに父が亡くなり帰国したので、筆者にはアメリカなるものの一切の記憶がない。たまにすべてが壮大な嘘なのではないか、と思うことさえある。

 物心がついたときから長谷川家では常にラジオが流れっぱなしであったが(Kiss FM、好きなDJはターザン山下)、それは母がアメリカにおいてひたすらラジオ(とMTV)を聴き続けていた習慣の名残であった。母にとってラジオとは、何を言っているのかわからなくても楽しめる、きわめて寛容な存在だったのだと思う。もちろん、人の数百倍負けん気の強い母は、ハンバーガーチェーンの列で人々がなんと言って注文をしているかを聞き、覚えるまで列に並び直すような人でもあった。言葉のわからない国に生きるというのがどれだけタフなことなのか、考えるたびに筆者は母を深く尊敬する(女手ひとつで息子2人を育て上げたことも尊敬と感謝しかないのだが)。

 僕が「ニューヨーク」でリベラの助手をしていた時に、彼が如何に精力家であるのかが判った。朝の9時から翌日の3時頃まで、30時間もやらされたのには閉口した。彼が毒瓦斯マスクをかく時、私は望遠鏡をかいた。非常にシンプルだったが、それだけむつかしかった(*1)。

 移民やアメリカの日系人についての関心につながる展覧会が矢継ぎ早に開催されている。今年に入って筆者が鑑賞できたものだけでも「Exile Dream of Hope 国吉康雄と野田英夫」(宇城市不知火美術館)、「イサム・ノグチと長谷川三郎―変わるものと変わらざるもの」(横浜美術館)、「福武コレクション 西へ東へ。藤田嗣治と国吉康雄」(熊本県立美術館)、「小圃千浦 カリフォルニアに生きる。」(岡山県立美術館)などがあった。​

​ これらのうちいくつかはアメリカへも巡回する、あるいはアメリカから巡回してきた展覧会であり、助成のあり方、研究および展覧会の体制自体も国境を越えている。こうした状況は、まずもって近代と呼ばれる過去の出来事が決して古臭い研究対象や趣味の領域などではなく、今日的な問題と重なっていることを示している(示せていないとすればそれは展覧会の側の問題である、とすら言いうる)。

 とあるテレビ番組で芸能人たちが「カタコトの接客をする外国人アルバイト」を嘲笑し炎上していたが、世論の「空気」なるものが、「外国人」を自分たちのシステムの劣位に置くか(非正規労働者や移民)、敬して遠ざけるか(ハリウッドセレブ、父なる「アメリカ」)、という2択であるのであれば、その2択に依らない選択肢を増やしていく(見え、触れ、批判できる状況にしていく)ことこそが重要である。端的にそれは私の(あなたの)問題だからである。

 「英語でプレゼンをしなければ」と怯えながら、他方で牛丼の注文に手間取る外国人従業員につらく当たる、という緊張した日々と、こうした展覧会は無縁ではない。「英語さえできれば、自分は世界に通用するのに!」と思っているとすれば、あなたは彼らとコンテンポラリー(同時代人)である。英語(と近年は中国語)以外の言語を媒介とすることについては、また別の機会で考えたいが(これは筆者の短期目標のひとつでもある)、本稿ではひとりの作家に絞りたい。小圃千浦である。

 今年のこの日こそは我々にとってただの祭りでもなければ、ただの感謝の日でもなく、実に〈決意〉の日である。我々が後世へ残す独自の〈感謝祭〉だ(*2)。

小圃千浦 グランドキャニオン 1940 アムバー アンド リチャード・サカイ コレクション

​ 小圃千浦(1885〜1975)は橋本雅邦らのもとで日本画を学び、18歳のとき(1903)単身アメリカへと渡った画家である(*3)。当時(*4)アメリカへと渡った作家は少なくないが、小圃の特筆すべきは、水彩画や水墨画という手法でアメリカという時空間を掴みとっていったことにあるだろう。例えば《無題(桟橋)》(1930年代)にあるような、筆のストロークを駆使して、1本の道路がポツリと浮かぶ島へと吸い込まれていく光景は、あたかも観るものが車を運転しているかのような心地にさせてくれる。無論、グランドキャニオンやシエラ・ネバダ山脈(MacのOSのSierraである!)を描いた作品も、アメリカの大自然がこのように描かれ得るのか、という驚きに満ちている。それはたんなる山水画のアメリカ版、といったものではない。

 展覧会は大きく2部屋に分かれており、前半部分では、小圃がこうしたアメリカの風景画を体得していく地点までを追っていく。惜しむらくは、1906年のサンフランシスコ地震に遭遇しスケッチを残しているという重要な箇所が、その社会的背景等などがかなり簡単に済まされてしまっている点である(*5)。前半と後半の部屋をつなぐ壁に、《地すべり》(1941)が展示されていた。津波のごとくうねる激流の汚泥によって山肌が削り取られ、孤立した人々が描かれたその絵は、それまで悠然と描かれてきた水彩画たちとは大きく異なる。

 後半に割かれているのは、1942年のいわゆる「大統領令9066号」によって、日本人の強制収容が始まってからの作品群である。ハワイおよびアメリカ西海岸の日系人たちは、みな立ち退きを強いられ、強制収容所へと送られたが、小圃も当然例外ではなかった。小圃は先述の《地すべり》の水をたっぷりと含んだ荒々しいストロークとは異なる丁寧なペン画で、自宅からユタ州トパズまでの強制収容のプロセスを描きとっていく(《金網越しの会話》[1942]が白眉/*6)。

 こちらも、やはり最低限の解説で淡々と絵が並べられてしまっており、もう少し突っ込んだところを知りたい気持ちに駆られたが(*7)、それでも、私たちがよく見聞きする「戦時」とは異なる、しかし地続きの「戦争」がここには確かに存在していた。無論これらは日本軍の加害を放免する理由にはいっさいならないが、異国の地でさらに居場所を奪われるという経験、隣人だったものたちから突如敵として眼差される経験、十分に言語を操れないなかで生きるという経験は、決して過去の遠い「アウェイ」の消化試合ではない。正真正銘の「ホーム」ゲームなのである。

小圃千浦 悲しい窮状 1942年10月8日 ペン画 サンフランシスコ美術館

*1ーー野田英夫「ディエゴ・リベラのこと」『新制作派』第3号(1938、新制派協会)
*2ーー『トパーズ時報』(1942年11月26日刊行)
*3ーー同じ岡山出身で4歳下の国吉康雄は1906年に渡米している。
*4ーー1882年の排華移民法から、1908年の日米紳士協定による日本人労働者への旅券発給停止、そして24年の排日移民法まで。こうした背景やそこで制作してきた作家たち(彼らは労働者として渡米し、現地で作家になった者も少なくなかったようだ)については、千葉県立美術館学芸員・山田隆行氏にご教示いただいた。記して感謝する。
http://paradiseair.info/activity/2019/01/30/9683
*5ーーアメリカにおいて日本人初の野球チームを共同設立したという点も(画業とは直接の関係はないかもしれないが)興味深い点である。
*6ーー《地すべり》に類する作品も残されている。収容施設での厳しい自然環境を描いた《トパズの砂嵐》(1943)、原爆投下後に描かれた《調和》(1946)などがそうである。いずれも小圃の特徴である大きな曲線が画面内に出現している。
*7 ーー小圃は収容施設でも美術学校を創設し指導にあたっているが、同じ頃ユタ州の南・アリゾナ州では、イサム・ノグチが自ら志願して強制収容所へ入り、公園や施設のデザインを行っていたことは興味深い(なお、ノグチはのちに退所しようとするも、「日本人だ」という理由で拒まれている)。