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REVIEW - 2019.2.26

「レクチャーパフォーマンス」を逆照射する試み。長谷川新評 佐藤朋子展「103系統のケンタウロス」

1月19日と20日の2日間限定で横浜で開催された佐藤朋子展「103系統のケンタウロス」。本展の来場者は、それぞれ会場から数分歩いたバス停から103系統のバスに乗り、作家によるレクチャー音声を聴きながら終点まで向かうよう指示された。「レクチャーパフォーマンスとは何か」を問いかけ、さらにその欠点を露わにした本展を、インディペンデント・キュレーターの長谷川新がレビューする。

展示風景 撮影=大塚敬太

変形の記録

 佐藤朋子による展覧会「103系統のケンタウロス」は、2018年10月28日に1日限定の上演形式にて発表されたパフォーマンスを展示のかたちにし、2019年1月19日と20日の2日間限定で、横浜のギャラリー サイトウファインアーツで再発表したものである。

 鑑賞者はまずギャラリーにて「レクチャー音声」へのアクセス方法を伝えられ、冊子を渡される。そしてギャラリーから数分歩いたところにあるバス停から103系統のバスに乗って、レクチャー音声を聴きながら終点まで向かうよう指示される。音声(おそらく佐藤自身だろう)は車中、旧根岸競馬場および日本における競馬の歴史を紹介していくのだが、15分ほどのそのレクチャーは、ちょうどバスの乗車時間と一致するよう調整されており、鑑賞者は概ね、レクチャーを聴き終えた頃に終着点に降り立つこととなる(概ね、と書いたのは、筆者はバスの乗車後の料金の支払いに手間取ってレクチャーを最後まで聞く前に最後のバス停へとたどり着いてしまったからである)。

旧根岸競馬場
在日米軍根岸住宅地区

​ 降車後、冊子に載っている地図に従って少し周囲を見渡すと、そこにはほぼ無人となった在日米軍根岸住宅地区があり、その脇道を抜けると旧根岸競馬場跡として残る第一等観覧席がそびえ立っていた。車中、冊子をめくりながら音声を聴き込んでいた身としては、突然異世界へと放り出されたかのような感覚に陥り、とりわけその第一等観覧席の荘厳さと横浜を一望できる眺め(ランドマークタワー!)、そして在日米軍根岸住宅地区のあまりの近さにすっかりあてられてしまった次第である。

 とはいえ、本展/作品は、ゴール地点での恐るべき情景への魅力を除いて思考を進めれば、至るところに綻びがあったことは否めない。だが(急いで付け加えるが)、これらの綻びは、本展/作品の欠点というよりもむしろ、本展/作品がまだまだ発展途上にあることを示しているだろう。以下、貴重な体験への返礼として分析を試みたいと思う。

展示風景 制作協力・撮影=大塚敬太

 まず具体的な検討に移る前に、「103系統のケンタウロス」を広義の「レクチャーパフォーマンス」として見なすところから始めてみたい(*1)。日本で初めて「レクチャーパフォーマンス」に焦点を当てた企画を行った芸術公社が説明しているように (*2) 、レクチャーパフォーマンスとは「通常、滅多に自分の作品には登場しない演出家や映像作家たちが、あえて舞台に立ち、観客に直接語りかける」形式である。それゆえ、この意味のもとでは「103系統のケンタウロス」はレクチャーパフォーマンスの範疇を外れているだろう。

 だが、レクチャーパフォーマンスは「アーティストが自らの個人史や芸術実践と社会の関係を分析的に語るものから、大胆に映像やフィクションを交えた舞台作品に発展するものなど形態は様々」であり、「そこに共通するのは、アーティストの思想や手法、社会課題へのアプローチが、『語り』のなかに強く立ち現れてくる点と言える」ため、佐藤自身が本作を「レクチャー」であると自認している点を考慮しても、「103系統のケンタウロス」がレクチャーパフォーマンスであると考えることはそれほどおかしなことではないと思われる。

 続いて、リーケ・フランクによる優れた小論「形態が語りだすとき:レクチャーパフォーマンスについて」(2013)(*3) も駆け足で概観しておきたい。彼女は、1960年代後半から70年代はじめにかけての様々な展示実践において、生産と受容の間の境界線が曖昧にされていったことを挙げ、レクチャーパフォーマンスもそうした実践と無関係ではないと指摘する。こうした視座のもとでは、「知識を、社会的であるのと同時に美学的である再帰的なフォーメーションとして、つまりは、ひとつのオープンなフィードバックシステムとして経験することができる可能性を切り開く」ものとして、レクチャーパフォーマンスは構想されうる。

 リーケはここで、何かを知るという営みが、一方通行でまっすぐな伝達ではなく(つまり知識を生産する者と受容する者と対象となっている事物がくっきりと分かれているのではない)、その渦中で、都度、リアルタイムに、お互い影響を受け合って軋んでいくような経験としてとらえている。

 レクチャーパフォーマンスというフォーマットは、パフォーマンス、レクチャー、展示において存在する諸対立、そして会話が現れうる空間をつくりだすことを可能にすることのなかにある諸対立を認識するという点にかかっていると言ってもいいだろう。

 つまりレクチャーパフォーマンスは、何よりも「知る」という体験への強い反省的考察にもとづいているのである。

 上記のことを確認したうえで、「103系統のケンタウロス」の分析に入っていくわけだが、まず気になったのが本作品の思考範囲が、「往路」だけに偏っているという点である。本展の案内には「料金:440円(バス代)」とあり、この表記は展覧会がバスの往復を含んでいることを明確に示している。 「ギャラリーに戻る必要はなく、そのまま横浜駅方面へのバスに乗っても構わない」という事前説明から(「復路」ではなく)「帰路」であっても許容されることが判明したが、それでも事情は変わらない。往路と復路(帰路)のバスの中での時間が、旧根岸競馬場第一等観覧席を頂点として折り重ねられるわけでもなく、往路での経験、あるいは旧根岸競馬場での経験を、復路(帰路)が裏切ったり修正していくわけでもない。復路(帰路)は、余韻として放置されている。

 次に指摘しなければならないのは、バスの中での鑑賞者の経験が著しく限定されてしまうという点である。本作品最大のポイントが、バスに乗っている間の時間に音声レクチャーを聴くという設計にあることは論を俟たないが、この「傾聴」という経験においてより重要なのは、レクチャーの内容以上に、聴覚以外の五感の経験であるだろう(でなければバスで聴く必然性がない)。

 だが、レクチャーは冊子の図版とぴったり対応しつつ展開されるため、鑑賞者は落ち着いて窓から見える風景を眺めたり車内の乗客たちを観察することはできず、冊子を凝視することとなる。思い切って書くが、本レクチャーにおいては、冊子のいずれの画像も不要だったのであるまいか。冊子による(文字通りの)視野狭窄と「処理落ち」を避け、鑑賞者がレクチャーに耳を傾けつつも乗車の経験とのギャップに介入し直せる余地が必要であった。あるいはそこでは「乗車」の経験が「乗馬」(馬車を含む)の経験と重ねられてもよかったであろうし、まさにその振動や停止といった物理現象と鑑賞者の身体の非同期が「語りうる」情報量は無視できない。

 無論、すでに書いたように、このレクチャー音声と冊子への没入は、バスの移動を心理的に「スキップ」させ、あっという間に終点に着いた、という感覚を喚起させるものではある。であるにせよ、それが機能するのは「往路」においてのみであり、「復路」(帰路)においては、レクチャー音声再生レコーダーも冊子もカタルシスの残滓としてリュックサックの中で揺られるのみである。

 最後に指摘しておかねばならないのは、レクチャーの内容についてであろう。タイトルにも冠されている「ケンタウロス」という半人半獣の生き物は、レクチャーにおける「事実」と「虚構」の蝶番として機能するとともに、旧根岸競馬場の数奇な変遷とも重ねられうるように思われる。だが、あくまでそれはそのような「読み」が可能だという域に留まっており、レクチャー全体としては、明治以降の人と馬と天皇の関わりや政治制度、旧根岸競馬場の変遷(諸外国との駆け引き、軍馬育成、関東大震災による荒廃、戦中の日本海軍による印刷所としての利用やGHQによる接収など)に主眼が置かれている。

 それら一つひとつはいずれも大変興味深く、興奮すると同時に、きちんと学んでいかねばならないものであるが(筆者は今回初めて在日米軍根岸住宅地区を知り、帰宅後いろいろと調べることとなった)、それらを「知る」という経験においては、ケンタウロスはいわば蚊帳の外である。本レクチャーの過程では、すなわち「知る」経験のプロセスにおいては、その経験自体を揺さぶり、変形させ、異形なものとする契機は無数にあり得た。それほどまでに魅力的なフレームと地勢がそこかしこに見出されていた。それゆえに、本展/作品は、レクチャーパフォーマンスとは何か、ということを、そして何が欠けているか、という点を逆照射させていたのである。

 もっとよく、ぼくを見てごらんなさい。ぼくもゆられている。しかし、ゆられているつもりでいるだけのことなんだ。その証拠に、車の振動とぼくの振動とは、ぜんぜんくいちがっているじゃないですか。だから言ったんですよ、生きているときのまねをしたがっているんだって…まねがしたい、そっくりそのままのまねがしたい…だけど車の振動はひどく不規則で予測できない…(*4)

奥に見えるのは旧根岸競馬場

​*1ーーより正確にはツアーパフォーマンスという形式として考えるべきであるが、本稿ではレクチャーパフォーマンス一般の形式を通して考えることとする。
*2ーー芸術公社プロデュース「レクチャーパフォーマンス・シリーズ」より、《レクチャーパフォーマンスとは?》
*3ーーRike Frank ‘When Form Starts Talking: On Lecture-Performances’, Issue 33, “Afterall Summer” 2013, pp.4-15
*4ーー安部公房「変形の記録」『R62号の発明・鉛の卵』(新潮文庫、1974)