When attitude becomes foam (態度が泡になるとき)
キャッチーなタイトルである。展覧会メインビジュアルには、「Bubblewrap」と輝くネオンがあり、その下に、エグゼクティブプロデューサー兼本展キュレーターである村上隆が佇んでいる。グラフィックデザインを手がけているのはグルーヴィジョンズ(1993年設立)だ。展覧会のタイトル全文を改めて書いておくならば、
バブルラップ:「もの派」があって、その後のアートムーブメントはいきなり「スーパーフラット」になっちゃうのだが、その間、つまりバブルの頃って、まだネーミングされてなくて、其処を「バブルラップ」って呼称するといろいろしっくりくると思います。特に陶芸の世界も合体するとわかりやすいので、その辺を村上隆のコレクションを展示したりして考察します。
である。すなわち、ネーミングされていないバブル経済期(80年代後半から90年代初頭)の動向を「バブルラップ」と呼ぼう、という提案がそのまま展覧会のタイトルとなっているわけだ。しかしいっぽうで、会場の入り口にはBubblewrapのネオンの下に、「1945~Today」と付け加えられている。
ここではむしろ、戦後から今日にいたる(70年以上もの)時間が問いに付されているのである。実際、村上自身(そして熊本市現代美術館)は本展を「戦後の現代美術を新しい視点で解釈しようという野心的な展覧会」だと自負しており、本展に登場する作品のうち、いわゆるバブル経済期(これを80年代と短絡することは避けよう)に制作されたものはごく一部なのである。
真っ先に指摘しなければならないが、本展は極めて混乱している。それはタイトルにある「バブルラップ」の意味が判然とせず(おそらく展覧会に関わった者の中で、「バブルラップとは何か」を明快に答えられる者はいないのではあるまいか)、「バブル」というすでに命名されている時代を改めて「バブルラップ」として命名し直している(ラッピングしている)に過ぎない、という誹りを免れ得ないことによる。本展は、例えば次のようなタイトルであってもほとんど問題がない。
バブル:「もの派」があって、その後のアートムーブメントはいきなり「スーパーフラット」になっちゃうのだが、その間はまだネーミングされてなくて、其処を「バブル」って呼称するといろいろしっくりくると思います。とくに陶芸の世界も合体するとわかりやすいので、その辺を村上隆のコレクションを展示したりして考察します。
わざわざこう書いたのは、「バブルラップ」すなわちプチプチの梱包材というイメージが、「戦後美術史を串ざす」ためであるというよりもむしろ「陶芸の世界を合体する」ために導入されていることを浮き彫りにしたいためである。
さて、近年80年代から90年代にかけての近過去を検討する展覧会が様々に行われつつある(*1)。日本の公立美術館だけではなく、ギャラリーのBLUM & POEでも「パレルゴン:1980年代、90年代の日本の美術」が開催されている。この流れは今後いっそう加速するであろう。
しかし本稿では、「バブルラップ」展をこうした動向のひとつとして考え、歴史化をめぐるヘゲモニー闘争に直接的に加担することは避けたいと思う。本展を肯定的にせよ批判的にせよいったん受け入れて、80年代や90年代を問い直すという作業に入る前に思い出されるべきは、本展が村上隆というアーティストのキュレーションであるという事実であり、したがってなされるべきは、本展を基礎づけているアーティストキュレーション、それ自体への分析である(*2)。
具体的に展覧会を見ていくことにしよう。本展エントランスにおいてネオンの下に待ち受けるのは村上隆の姿ではなく、空山基の《Sexy Robot_Walking》(2018)だ。メインビジュアル(ポスター)とエントランスにおいて、村上隆と空山基が重ねられている。ここでは、昨今の空山基(に代表される日本のイラストレーションやサブカルチャー造形)の再評価と、村上隆自身の制作実践とが二重化されている。本展出品作の大部分が村上隆のコレクションであるという事実は、歴史的な網羅性や一望性に欠けるといった批判材料ではなく、村上隆自身の思考をたどり直すことができる場として肯定的にとらえたほうがよい。
本展は「もの派」「バブル経済と西武セゾングループ」「Superflat」「生活工芸」「坂田の清貧の美」と村上自身によって区分されているが、それらは村上隆自身の実践と(制作技法や造形面からも、精神面からも)重ね合わされつつも、それゆえになし崩しにされている。歴史認識の雑駁さを一笑に伏すのではなく、村上自身がそこから何を学び、引き継ごうとしているか、という視点が欲望されている。
戦後を再考するはずの本展では、もはや戦前に『機械化』(1940〜1945)のイラストによって人気を博した小松崎茂の原画までもが持ち込まれ、庵野秀明、成田亨らと接続されているし、本展で明らかにターニングポイントとして空間化されているのは東日本大震災である(指差し作業員は、まさに本展のターニングポイントを指差している)。指差し作業員が指さす「3.11」以降の社会には、1800点もの現代陶芸が所狭しと並べられ、その空間を抜け出た後には、もはや岡﨑乾二郎も、榎倉康二も、李禹煥も、菅木志雄も、骨董未満の小道具たちと等価な場が出現する(岡崎の作品が本展において前半と後半の2回出てくることは示唆的である)。
こうして、日比野克彦の段ボールによる作品を以ってして「バブル経済と西武セゾングループ」を代表させ、その悲哀を肯定的に読み取ろうとする身振りが、「生活工芸」「坂田の清貧の美」から遡って再解釈され直していることが了解される。バブルの渦中も、以後も、そしてそれ以前も失われずに通底している日本の「清貧を是とする美意識」が展覧会のそこかしこから噴出する。バブルラップはここにきて時代的な輪郭を失い、ひとつの道徳原理として、『もののけ姫』のシシガミのように、あるいは『エヴァンゲリオン』の人類補完計画のように、不定形な姿で個々の作品たちを貫き、すべてを包んでいく。
本展が批判的に読解されるべき点は、日本の戦後美術が「泡」のようなものであったという悲観史観ではなく(それは戦後美術史の大胆な解釈、というよりもたんなる追認であるだろう)、「バブルラップ」をある普遍の道徳原理として展覧会を構成している点であり、鑑賞者はむしろその「泡」から抜け出そうとする「外れ値」にこそ注目しなければならない。「スーパーフラット」における「非ーバブルラップ的側面」から本展をとらえ返すとき、村上のキュレーションはむしろ輝きだすのではないだろうか。少なくとも村上自身のキュレーション実践は、80年代史観の議論と比しても何ら遜色なく、すぐにでも解析されるべき魅力的な領野であるはずである。
*1ーー筆者も2014年に「無人島にて―『80年代』の彫刻/立体/インスタレーション」と題した展覧会を企画したことがある。
(http://aube.kyoto-art.ac.jp/archives/1449)
*2ーーAlison Green “When Artists Curate Contemporary Art and The Exhibition As Medium”(2018)が、近年のこうした動向(ただし欧米圏の)をまとめている好著である。