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2019.1.9

相容れず遅れあう人々へ、作家が表現する愛。長谷川新評 磯村暖「LOVE NOW」展

訪れた土地や日本で出会う移民たちの故郷の文化や宗教美術、物理学、SNS上の美学などを参照したインスタレーションや絵画を制作しているアーティスト・磯村暖。東京・外苑前のEUKARYOTEでの個展「LOVE NOW」では、同性婚の禁止など「LOVE」が制約される現代における社会通念・パラダイムをアップデートすることを試みた。本展を、インディペンデント・キュレーターの長谷川新がレビューする。

文=長谷川新

展示風景
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遅れあう者たちのために

 「水曜日でも構わないよ」、彼は冊子を2部選び出し、片方を開いた。背の部分を押し広げながら机に置き、小さくバツ印をつける。「ここにサインしてほしい」

 最近1冊の小説を読み終える。東京近郊の街「Akakawa」を舞台としたその小説は、タイトルを『Rainbirds』(2018)という。主人公のIshida Renは慶応大学で英米文学の修士号論文を提出したばかりであり、物語は、刺殺された姉の謎を追う彼の一人称視点で紡がれる。

 作者はクラリッサ・ゲナワン(Clarissa Goenawan)、インドネシア出身のシンガポール人であり、小説は英語で執筆されている。ゲナワンはマンガ『DEATH NOTE』(大場つぐみ・小畑健原作、集英社、2004〜06)をはじめとした日本のマンガを愛読しており、現在も日本を舞台とした新作小説を執筆中である。『Rainbirds』は彼女のデビュー作でありながらすでに世界10カ国以上で翻訳され、アメリカでも話題となっているという(*1)。おそらく邦訳もすぐなされるのではあるまいか。

 冒頭の引用は筆者の試訳である。日本では、サインをしてほしい箇所を示すのに普通バツ印はつけない(たとえば大きく丸で囲ったり、小さくチェックマークを入れたりする)。この「小さなバツ印」にはグローバリゼーションと資本主義によって推進される多様化と文化混淆の混ざりきらない「ダマ」のようなものを見てとることができる。

 この「ダマ=バツ印」を論うのがここでの目的ではない。完璧な翻訳というものは存在しないし、完璧な文化も、完璧な文章というものもそもそも存在しない(だから私たちは深夜3時に冷蔵庫を漁る)。この「小さなバツ印」が日本文化に習熟していない英語圏の読者への周到な配慮=意訳であるにせよ、映画『イングロリアス・バスターズ』の酒場のシーンのような「失敗」であるにせよ、複数の文化を翻訳する際の摩擦熱が発生していることだけは確かだ。ゲナワンはどこまでも水平となった地球=諸文化を抵抗なく渡り歩いているわけでは決してない。

 映画『ボヘミアン・ラプソディ』のライブシーンは、当時84ヶ国に衛星同時生中継した画期的なものだったが、実際には正確に「同時」ではなかった。そこでは絶えず遅延が発生しており、その遅延ゆえに視聴者は「リアルタイム」であることを説得させられた(*2)。

展示風景
展示風景より。磯村暖《Joss Paper for Lovers》(2018)

 バンコクのドンムアン空港からタクシーを走らせること1時間あまりのところに、ワットパイローンウア寺院はある。通称、地獄寺である。地獄寺については最近好著が刊行されたのでそちらをぜひ当たってほしいが(*3)、そこには夥しい数の罪人の像が並んでいる。こと宗教彫刻においてはほとんど「仏像」やそれに類するものばかりが研究されている状況であるが、それとは無関係に、手製の地獄の罪人や獄卒の像は現在もつくられ続けている。

 磯村暖はこの寺院に寝泊まりさせてもらいながら、僧侶と社会の様々な問題について話しあったという。「不法」であることと「宗教上の罪」は必ずしも重ならない。そうした議論のなかで、僧侶にデザイン上のアドバイスをもらいながら、磯村は1体の罪人=彫刻を制作した。その舌は鎖でつながれ、羊に引っ張られている。筆者もまたこの地獄寺を訪れ、磯村のつくった亡者を拝見したが、この像がこれからもずっとこの地にあり続け、朽ちたり修復されたり眼差され続けるということを考えると、改めて自分自身の「彫刻」史観が偏狭であったことに気づかされる(*4)。というよりも、彫刻は前提とされるものではなく最終的に遅れてやってくるのである(そのくせにジャンルあるいは境界を確定する様々な語彙はあたかも最初からいたかのように振る舞うのが上手い)。

展示風景。会期中も「地獄の亡者像」シリーズが随時追加された
磯村暖 LOVE NOW, 2018 2018 撮影=陳漢聲

 EUKARYOTEでの磯村の個展は逆説的にも「LOVE NOW」と冠されている。展示空間やそこで展示されているものの造形的な洗練はまだまだ向上の余地があるけれど、こと遅延した時間に対する敬意においては、彼の右に出るものはそうそういまい。紙製の副葬品を燃やすことで死者を供養する習俗に倣い、磯村は同性者同士のための婚姻届を燃やす。日本在住のネパールの料理人たちとの会話を通して(一人は日本語の辞書を読んでいる)、犬を祝福する祭「ククルティハール」を実践する。

 これらは安易で安全な異文化交流の作品化では決してない。他者や他文化やマイノリティの顕在化と並存をそのまま提示するようなものでもない。自分たちが絶えず理解しあえず、互いに遅延していることを前提とした営為である。遅刻してきているのは全員なのだ。彫刻はいまもバンコクの寺院にほかのたくさんの罪人像と一緒に突っ立っている。

 同性婚かなわず亡くなっていった者たち。自分の住んでいた国からの移動を強いられた人たち。ずっと同じ国に暮らす人たち(留まり続ける人たち)。自分だけは間に合った、なんなら先回りできている、という人たち。これから生まれてくる人たち。同期できないエラーの集積を、互いに遅れあう私たちは歴史と呼んだりする。

 ただ、この展覧会の最大の懸念があるとすれば(それと比較すれば空間構成や造形面での瑕疵などはまったく些末であるとすら言いうる)、一人磯村のみが、みんなに遅れまいと、自らの身体を絶えず共振し続けているという点にあるだろう。LOVE NOWは、なによりも彼が自分自身に課した極めて重い負荷なのである。

磯村暖 LOVE NOW, 2018 2018 撮影=海野林太郎、樋口一平

*1ーー小説の文体や人物造形からは、村上春樹特有の癖がふんだんに共有されている。主人公がバイト先の女性と窃盗車でドライブをするシーンや「セブンスター」と呼ばれる喫煙非行少女およびその父とのやりとりなどに顕著だ。
*2ーー畠中実は当時のテレビ一般について同様の指摘をしている。畠中実「リアルタイムであるとはなにか」『TECHNOLOGY×MEDIA EVENT』(ICC、2018)
*3ーー椋橋彩香『タイの地獄寺』(青弓社、2018)
*4ーー彫刻の再歴史化の功罪については、チビチリガマを荒らした学生たちがつくったセメントの野仏を観た経験も大きい。ここで発生している様々な事態のアクチュアリティに対して、ジャンルとしての彫刻は批判的に応答することができない。(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/200587)

※本稿は一部事実誤認があったため修正いたしました。