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REVIEW - 2018.12.27

性玩具が横断する肉体、自然、キャラクター、歴史。沢山遼評 山本渉「欲望の形 /Desired Forms(2012-2017)」展

「オナホール」と呼ばれる男性用性玩具の内側の空洞部分を、石膏により採型した立体物を撮影することで、欲望の可視化を試みてきた山本渉。それらのモノクロ等身大プリントと、性玩具のパッケージに描かれるキャラクターを石膏像にプロジェクションした様子を収めたカラープリントを展示した個展が、東京・新宿のユミコチバアソシエイツで12月22日まで開催された。「オナホールの穴から覗くこの10年間の停滞と進展のイメージを目の当たりにしてほしい」と作家が語る本展を、美術批評家の沢山遼がレビューする。

文=沢山遼

「欲望の形 /Desired Forms(2012-2017)」シリーズより © Wataru Yamamoto Courtesy of Yumiko Chiba Associates

「欲望の形 /Desired Forms(2012-2017)」シリーズより © Wataru Yamamoto Courtesy of Yumiko Chiba Associates

独身者の(自慰)機械

 「欲望の形」と題された山本渉の写真シリーズは、2012年から開始されている。それは、オナホールと呼ばれる男性用の自慰器具の内部に石膏を流し込み、その内部の形状を正確に型取りした、彫刻的とも言いうる立体物を撮影したものだ。基本的に「商品」であることを余儀なくされたこの器具は、資本主義の原則に従って様々なバリエーションを持ち、型取りされたオナホール内部は、一種「異形」とも形容しうる強いインパクトを備えた、前衛的な抽象彫刻のような造形物となってわたしたちの前に現れる。

 山本が明らかにしているように、「欲望の形」の制作に関しては、植物学者であり彫金家でもあったカール・ブロスフェルトの植物写真集『芸術の原型』が参照されている。つまり、山本にとってオナホールとは、都市に群生する植物、あるいはキノコのタイポロジーなのである。

 「欲望の形」でブロスフェルトが参照され、またオナホールが植物に見立てられた背景には、山本が写真史と植物との交差に一貫して関心を抱いてきた経緯がある。例えば彼は、物体に高電圧をかけて発光させるキルリアン写真の技法を使い植物を撮影した「光の葉」「プラタナスの観察」のシリーズを手がけている。

 後者のタイトルにある「プラタナス」とは、哲学者アリストテレスが写真の発明にはるかに先立ってピンホールカメラの原理となる自然現象を(プラタナスの葉の茂みを通して)観察により見出した歴史に由来する。山本にとって写真史と植物という位相の異なる2つの領域は、もとより区別しがたい。このとき、植物をひろく「自然」ととらえれば、山本の関心は特異なものではなく、むしろきわめて正統的な写真史の始原に立ち返るものであるとすら言えるだろう。

会場風景 © Wataru Yamamoto Courtesy of Yumiko Chiba Associates

 例えば写真の発明をもたらしたニセフォール・ニエプスは、自らの発明を「太陽」を意味する「ヘリオス」から「ヘリオグラヴェール」という名で呼んだ。ニエプスにとって写真とは、太陽という画家によって描かれる絵画である。太陽光を不可欠のものとすることにおいて、ヘリオグラヴェールは植物の光合成にもなぞらえられよう。

 あるいは、同時期に写真技術を研究しカロタイプの発明者となったフォックス・タルボットにとって、写真はまさに彼の植物研究と並行するものだった。タルボットは植物を紙に挟み、圧力をかけて植物の痕跡を残す研究を行っていた。タルボットはこれと相似した着想を展開させ、光の印画としての写真を開発した。タルボットが1844年に出版した世界最古の写真集はその名も『自然の鉛筆』と名付けられていた。それは、写真技術が「自然」と本来的に関与するものであることを明らかにしている。

 こうした写真史の始原の光景に立ち現れるのは、自然科学と芸術、ないし、自然と人為との絶えざる交錯の歴史だ。古くピンホール現象を発見した墨子やアリストテレス、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そして写真発明以前のカメラ・オブスクラに至るまで、改めて言うまでもないことだが、カメラ以前に写真は原理(メカニズム)として存在していたし、その仕組み自体はすでに把握されていた。言い換えれば写真は、人為を超え、人間の歴史に先行した「自然」を出自としている。この性質ゆえに、科学的・光学的現象であるところの写真のメカニズムは、20世紀の前衛芸術の歴史において、オートマティスム、すなわち自動性の概念とも交わることになったのである。

 山本は大学進学の際、植物学を学ぶか、芸術を学ぶかで葛藤したというが、彼が写真と並行して植物に対する関心をあらわにするとき、それは、写真が人為を超えた「自然」を原理として抱え込む存在であったことを想像的かつ技術的に回復させるものなのだ。

 山本のオナホール写真は、人類史的な写真の歴史と、超歴史的な自然科学としての写真技術の双方に干渉するものなのである。そもそも、オナホール自体、内部に闇の空洞を抱え、入り口に小さな開口部を持つ事物であるという点において、ピンホールカメラの機構と同様の、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)にほかならなかった。

会場風景 © Wataru Yamamoto Courtesy of Yumiko Chiba Associates

 しかしながら、先に述べたように、「欲望の形」において植物(自然)に擬態するオナホールはむしろその異形さ、不自然さにおいてこそ際立っている。オナホールの奇形性は、人間工学からアニメのキャラクター造形までの成果を取り込み、男性の欲望を様々に掻き立てる無軌道的で多方向的な商品開発に揉まれて生み出される。

 そもそもオナホールは、「男性器を模した」と言うことすら困難な物体である。それは、男性器でありつつ、男性器が侵入する子宮であり、時に肛門でもある。その意味でオナホールは、フロイトの精神分析学が幼児性欲に見出した多形倒錯のフェティッシュとすら言えるかもしれない。あるいは、稲垣足穂の多形倒錯的な『少年愛の美学』の用語で言えば、P感覚とA感覚とV感覚は、この器具において、通底するとともに横断される。

 さらに、オナホールの反自然性は、生殖への奉仕をあらかじめ放棄した独身者の機械(マルセル・デュシャン)であるという点にも求められるだろう。自慰とは、独身者の無為と無産性を徴づける運動であり、実際にデュシャンは自慰機械をつくる構想すら持っていた(*1)。オナホールもまた、植物というよりは一種の機械を思わせるサイボーク化された奇形だろう。それは飽くなき商品開発の結果、生物の性器とは似ても似つかない異形性を獲得する。

 すなわちオナホールは、そもそも事物としての起源とその同一性が徹底的に撹乱され、多方向的に霧散した物体なのである。さらに、「欲望の形」のイメージが、内部の空洞を石膏で型取りし、(写真の現像過程をなぞるように)ネガをポジに反転することで得られるものであることは、この事物の同一性の破壊をさらに加速させるものとなる。

 山本は今回の近作において新たな操作を付け加えた。オナホールの商品パッケージを石膏の立体に投影したのである。この操作は、事物の同一性の破壊という観点において興味深いものとなる。おそらく石膏に投影された商品パッケージに描かれているのはアニメの美少女キャラクターだろう。アニメ批評においてキャラの巨大化する瞳の造形はしばしば美術におけるマニエリスムにもなぞらえられてきたが、山本の写真には、奇形化されたその巨大な瞳が、石膏に投影されているように見える。

 その結果、石膏は、擬人化されるとともに腕を欠いたミロのヴィナースのようなトルソ、彫像へと変貌する。オナホールにおける襞は、伝統的な彫像における衣服紋、身体にまとわりつく衣へと意味を変え、美少女キャラと女神像、現代と古代との倒錯的で密かな連携が果たされる。

 「欲望の形」に見出されるのは、こうして、商品としての性玩具を出発点として、(複数の)性器、抽象彫刻、植物やキノコ、美少女キャラ、トルソやフィギュア、カメラ・オブスクラといった複数の対象を横断する意味作用の連鎖である。屈折した性的リビドーを動力として唸りを上げて突き進み、様々な事物と場の転移に働きかけることをやめず、あらゆるものと想像的な交接を果たそうとしてついに失敗する、このような運動こそ、独身者の機械たるオナホールにふさわしいと言うべきだろう。山本が「欲望の形」で撮影しようとしたのは、次々と異なる場、事物に憑依し、変幻するこのフォルム、その欲動のありようである。

*1――カルヴィン・トムキンスによれば、デュシャンは友人のジュリアン・レヴィに自慰機械の構想を語った。「からくり細工の女体装置を考案しているのだとデュシャンは言った。冗談めかして、関節をそなえた等身大の人形を作ろうと思うのだが、ヴァギナは弾力のある金網とボールベアリングを組み合わせ収縮できるようにし、できれば自動的に潤滑剤も染みだすように工夫したい、それをリモートコントロールする頭のなかの梃子の仕掛けに、細工している針金を使うのだと言う。この装置には、手を使わずにすむ『自慰器械』の用途も考えられる」。「独身者の機械」とは、デュシャンの通称《大ガラス》の下半分を指すが、そもそも独身者と自慰とはデュシャンにとって密接な関係にあった。デュシャンの《グリーンボックス》のメモのなかには自慰に関する話題が頻出する。「独身者は自分のチョコレートを自分で挽く」あるいはガラスは「きわめて自慰的に幻覚を味わう」など。(カルヴィン・トムキンス『マルセル・デュシャン』木下哲夫訳、みすず書房、2002、279-280頁。)