木版画の神様 平塚運一展 墨摺というイデオロギー装置 沢山遼 評
版画家・平塚運一の回顧展会場は、凍結された時間がどこまでも引き延ばされていくような奇妙な感覚に満ちていた。平塚の版画家としての活動は、1997年に102歳で亡くなるまでの80年以上に及ぶ。だが、その時間的な幅に比較して、彼の画業の全体は驚くほど平滑に安定し、一貫している。平塚は、関東大震災直後の東京、朝鮮、アメリカなどの様々な場を描いたが、そこにあったはずの政治的、歴史的な緊張が、彼の画面を震撼させることはけっしてない。
平塚は、大正2(1913)年に出会った画家の石井柏亭から伝えられた「あるがままの姿を正直に表現すべきだ」という言葉を教訓としていた(*1)。彼はその言葉を忠実になぞるように、保守的で均質な空間性と奥行き表現からなる風景描写にその生涯を費やした。
平塚の版画の多くは、すべての諸部分がなめらかに統合され、近傍から遠くへと連続する空間表現に捧げられている。近くと遠くを接続するこの種の遠近感は、平塚が版画表現のひとつとして広重の浮世絵などを参照していたことを推測させる。
だが、浮世絵がロシア・アヴァンギャルドの映画監督セルゲイ・エイゼンシテインに感銘を与えたように、複数の距離の「モンタージュ」からなるものであったのに対し、平塚の画面は、徹底的なまでのモンタージュの否定・払拭をもって成立している。映画的な語彙を使えば、平塚の画面はあくまで空間の連続性と単一性を基調とする「ロング・ショット」から成立するのである。
このとき注目したいのが、平塚と、彼の弟子であった棟方志功との差異である。知られるように、棟方志功の描画方法は、極端に顔面を版木に接近させて彫る独特なものだった。それは棟方が「極度の近眼だったから」だけではおそらくない。棟方の版画はいわば、クロース・アップによる並行モンタージュである。それは、師である平塚のロング・ショットへの抵抗を伴うものであったはずだ。
平塚の晩年の代表作のひとつである「鏡」のシリーズは、その意味で平塚の一貫した反モンタージュの姿勢を雄弁に伝えている。「鏡」では、裸体の女性がモンタージュ的に描かれる。だが、その画面に挟まれる異質な画面に見えたものはすべて、室内空間に設置された鏡や絵であることがわかる。いわば、ここで描かれる鏡や絵は反モンタージュ的モンタージュのためのアリバイである。平塚が、現実空間の連続性を破壊する瞬間は、けっして訪れない。
平塚にとって版画とは、その空間のみならず、使用される技法や材料すべてが一体化し、統合される究極のシンプリシティを体現すべきものだった。曰く、版画には「複雑よりも単純へ単純へと伸びていく詩情がある(*2)」。例えば彼は大正12年に制作した《肩かけの女》について、以下のように語る。「この作品のごとく、紙、板、刃物、刷毛、バレン、顔料、それらが、作者の境地と歩調を合わせ、青春謳歌の行進曲を奏でている例は皆無である(*3)」。
そこにあるのは、版画とは、複数の素材や複数の版の遭遇をもって、その物質的な落差・偏差が解消される「行進曲」のごときものであるという認識だ。そこで版画は、各種の複数性を一箇所に集約する圧着装置として見なされている。ゆえに平塚にとって版画は、油彩画などの下位ジャンルに位置するマイナーなメディウムだったのではなく、すべての物質的差異を止揚し、それらを強制的に共約する=プレスする力能を持つ。同時に、平塚の版画に見られる保守的な空間的統一性はそもそも、このような政治性とともに理解されるべきだろう。
平塚は、ある時期から、複数の版木を必要とする多色摺から、1枚の版木から成立する(平塚のトレードマークにもなった)白黒のコントラストからなる墨摺版画を制作するようになるが、彼の目指すものを思えば、その展開の必然も理解される。それもまた、版画の持つ絶対的な単純性の引力に従うものであったと言えるからだ。この墨摺を始めてから、平塚は、大正期に興った創作版画運動の起源を平安時代の摺り仏に見出し、大正期に自身が始めた創作版画運動とは、そこから一千年前の古代に逢着する「いにしえにかえれ」の運動だったのだと述べている(*4)。
平塚の墨摺は、複数の距離を統合するのみならず、一千年の時間的間隔をプレスし、古代日本を復古するものでもあった。平塚は、戦中戦後を通じて、版画こそは古来からの日本精神に沿う表現ジャンルであるという国家主義的発言を繰り返した。その発言は、版画というメディウムの持つ圧縮の力学とともに理解されるべきだろう。平塚がつくりだした墨摺は、そのような国家主義的思想を支える、イデオロギー装置でもあったわけである。
墨摺を極めてからの平塚の版画は、多くの抽象的な斑紋が蠢くような細部の集積の傍らに月のシルエットなどを置くことにより、観る者に自然主義的な風景のイリュージョンを与えるという空間表現を繰り返している。そこには、すべての細部をひとつの象徴体系へと回収するシステムがある。
今回の回顧展のタイトルにも据えられているように、平塚は「木版画の神様」と呼ばれたという。そのように呼ばれた背景には、たしかに平塚の名人芸があっただろう。だが、結局のところ平塚運一とは、そのような名人芸の下に、自閉的に純化されたシステムを完結させ、生涯にわたってそれを運用し続けた「幸福な」版画家だったのではないか。
そのような点において、平塚運一の創作版画には、同時代を生きた恩地孝四郎、谷中安規、藤牧義夫らが版画というメディウムに見ていた可能性とは決定的に異なる、「近代」のイデオロギーがあったように思われる。
脚注
*1――「私の画歴」『平塚運一版画集』(講談社、1978年)、192頁
*2――「版画技法雑感(一)」『みづゑ』283号(美術出版社、1928年9月)
*3――「『肩がけの女』に寄せて」『版画藝術』43号(阿部出版、1983年11月)
*4――平塚運一『版画の国日本』(阿部出版、1993年)、49頁