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絵画の廃墟への、画家の愛。
沢山遼評「秋吉風人展 We meet only to part : 逢うは別れ」

7年にわたるベルリンでの生活を経て、今年より名古屋を拠点とする秋吉風人。秋吉は自身の制作において、ルールや偶発性の導入、多様な技法の混合、制作過程の可視化、物質性の強調といった手法を用いながら、絵画を絵画たらしめるものとは何かを問い続けてきた。「個人と個人」「個人と社会」がテーマの新シリーズを発表した個展「We meet only to part : 逢うは別れ」を、美術批評家の沢山遼がレビューする。

文=沢山遼

秋吉風人 18. 17 / 2. 17 キャンバスに絵具 52.0×70.0cm 2018

Here, There and Everywhere

 秋吉風人の新作絵画群は、一見したところ、同一サイズの様式の異なる2枚の絵画を組み合わせたものに見える。だが、仔細に眺めれば、それらの絵画はそれぞれ、会場のそこかしこに「ツイン」とも言うべき類似した絵画を持つことに気づかされるだろう。そこから予想されるように、これらの絵画はすべて、当初より2枚のキャンバスを継ぎ合わせて描いたものを半分に分割し、ほかの絵とドッキングさせるというプロセスを経ている。すなわち、これら相貌の異なる絵画のペアは同じ要領で描かれ、同様に1/2サイズに分割されたほかの絵画との組み合わせによる。

 それぞれの絵画から感じられるのは、画家の安易な個性の表出を周到に排除する鋭利な手際と、システマティックに仕上げられた多様な絵画様式の併存だ。そこで問われるべきはおよそ次のような問いだろう。つまり、なぜ画家は今回の個展において、このようなバリエーションの多様性を強調したのか? そこから導き出されるのは、これらが、過去の様々なモダン・ペインティングの自覚的な「再演」またはパスティーシュなのではないか、という可能性である。具体的に言えば、ストライプやグリッドはもとより、ジャスパー・ジョーンズを思わせる手形(インデックス)、デ・クーニング的ブラッシュ・ストローク、リキテンシュタイン的ステンシルによるドット、河原温的レタリング、リヒターがオイル・オン・フォトで用いる毛羽立った筆触、ロバート・ライマン的な白+筆触の組み合わせ、フラットな色面によるハードエッジ……。

秋吉風人 5. 17 / 17. 17 キャンバスに絵具 52.0×70.0cm 2018

 そこでは、モダン・ペインティングの様々なクリシェが流用されるとともに、しかるべき強度を伴った新たな画面の編成がなされている。したがってこれらは、それぞれが独立した絵画作品であるというよりは、流通可能な記号として磨き上げられ、そして「形骸」化されたモダン・ペインティングの似姿=似顔絵である。それを、「絵画」の観念とその形象とが複合した、寓意画ないし紋章(エンブレム)と言い換えることができるかもしれない。つまりそれらは、それぞれが秋吉の絵画であると同時に、これまで描かれてきた絵画の寓意的図像でもあるという二重の表情を持つ。会場を訪れた観者が遭遇するのは、こうして併置され紋章化された、モダン・ペインティングのアーカイヴ的空間だ。

展示風景

 絵画の寓意的図像に関わる作品として、フランク・ステラの初期絵画に触れておきたい。ステラの初期絵画は、キャンバスの形態それ自体が、画面内部の描写で反復される。それは「絵画を描く絵画」であるという意味で、絵画の寓意的図像=紋章である。ステラの《Die Fahne Hoch》(1959)には、キャンバス中央の十字を標準としてストライプが引かれている。ステラの絵画は、一切の外部的な参照項を排除した絵画それ自体の完結した形式性に加え、その形式が、描写プロセスそれ自体のデモンストレーションとなることによって成立する。

 そのため、外的な意味内容を欠いたステラの絵画は、絵画の現前それ自体すなわち「painting is here」という陳述をことさらに強調するものとなる。画面中央の十字(クロス)は、絵画が「ここ」にあることをマークする。言い換えれば、こうした絵画においては、絵画それ自体が、「私はここにいるぞ!」と観者に呼びかけるものになるのだ。そのように考えれば、絵画を主体として行われるこのような陳述行為は、秋吉の絵画空間においても生じていると言えるだろう。秋吉の絵画もまた、絵画の紋章化によって「painting is here」を陳述するものになるからだ。

秋吉風人 20. 17 / 19. 17 キャンバスに絵具 52.0×70.0cm 2018

 しかし、秋吉の絵画空間においてわれわれが聴くことになるのは、紋章化された複数の絵画のそれぞれが、同時に「私はここにいるぞ!」という呼びかけを発する、混沌とした音響空間である。観者は、複数の絵画の声の遍在に巻き込まれる。「私はここにいるぞ!」という絵画の声が、「here」のみならず「there and everwhere」から乱れ飛ぶ。「私」はいつしか「私たち」となり、そこから擬態された絵画の集団性・社会性が現出する。この戦術において、ステラが誘導したような主語としての絵画、あるいはモダン・ペインティングの独立性・単一性を引き裂く回路が切り開かれるだろう。

 そして言うまでもなく、その「声」は、文字通り身を引き裂くように発せられた、途絶えがちの、切れ切れのものであらざるを得ない。なぜなら先に触れたように、これらの絵画のすべてが1/2サイズに分割された「片割れ」であり、かつ、それがほかの絵画と2枚1組へと結合されることによって、それぞれの絵画のエンブレマティックな完結性はすでに破壊されているからだ。自らの身を切り分けた絵画記号が、ほかの絵画記号と不意に遭遇することを余儀なくされたこの絵画空間では、モダン・ペインティングの記号が、示差的な等価物として互いに互いを差し出している。すべてのキャンバスはほかのすべてのキャンバスの函数ないし変項である。それは、ほかとの交換可能性、代入可能性から逃れることができない。

 こうした秋吉の一連の行為から読み取るべきは、「1枚の絵」という概念の透明性を解体しようとする意思と、それに強固に貼りつく絵画の「ここ(here)」における現前を遍在的で複数的なものへと開こうとする批評性だ。これらの作品が、ギャラリーという作品の売買を行う空間での発表を前提に制作されたことは、その意味で重要だろう。なぜならコレクターは、「1組」の絵を選択するかぎり、1枚の絵画を所有することはできないからだ。ここにあるのはただ、2枚であることと半分であることが等価に並びあうことによってのみ、1枚の絵画という仮象が仮想的に立ち上がる、そんな空間だ。​

秋吉風人 19. 17 / 6. 17 キャンバスに絵具 52.0×70.0cm 2018

 事実、ここには断片しか残されていない。文字を描いた絵画は、中途で切り落とされることによって、部分的な可読性を持つものになる。すなわちこの空間のすべてが、事物の破片やトルソのような、壊れたエンブレムの不完全性によって埋め立てられている。そしてその断片性=瓦礫化は、個々の絵画が、グリッドやストライプ等を通じて自覚的に演じられた絵画のパスティーシュであること、すなわち絵画の「形骸」であることと正確に対応している。

 いったい、瓦礫であり、形骸であるキャンバスの集積がつくりあげるものとは、絵画の廃墟にほかならない。その意味で、このたびの秋吉の絵画制作はそのまま、絵画の廃墟をつくりあげることに向かっている。だが、それを支えるのが、絵画の廃墟への、画家の愛であることは、決して見逃されるべきではない。

編集部

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