「韓国・五人の作家 五つのヒンセク〈白〉展 白とヒンセク、日本と韓国 鍵谷怜 評
1970年代韓国の美術動向である「単色画(Dansaekhwa)」の世界的な再評価の流れは、日本でもようやく本格的なものとなりつつあるのだろうか。昨年秋に東京オペラシティ アートギャラリーで開催された「単色のリズム 韓国の抽象」展は記憶に新しい。それが韓国の戦後の抽象表現と単色画を結びつけることで、国際的な “Dansaekhwa” ブームと歩調を合わせるものだったとするならば、東京画廊+BTAPで開催されている本展は、単色画の歴史における日本という問題を再検討するものだ。
本展は、1975年に東京画廊で開催された「韓国・五人の作家 五つのヒンセク〈白〉」展(以下、「1975年展」)の再展示である。しかし厳密な意味における再展示ではなく、「1975年展」の出品作家による当時の作品と近作を同時に展示することで、同タイトルの別展示とも見なしうる。このことは、いま本展が開催されることの意義の大きさを示唆している。
展示は5人の作家の、時代の異なる11作品から構成されており、作風の変化を明確にするためにそれぞれの作家の作品が並置されている。単色画の中心人物である朴栖甫(パク・ソボ)の作品は、様々な年代の作品を通じて《描法》と題されているが、作品の様式が大きく変化したことは明確にうかがえる。かつて生乾きのキャンバスの上に鉛筆で何度も描線を描いていた彼は、近年、韓紙を重ね合わせ、表面に縦線状の起伏を生じさせた作品を制作している。徐承元(ソ・スンウォン)の《同時性》は、当時の直線的な幾何学形態を描く表現から、輪郭線の曖昧な、色彩どうしが溶け合うような表現へと移っている。白の強調というよりは淡い暖色が印象的だ。「1975年展」から43年という時間の経過がもたらした5人の作風の連続性と変化は、それ自体、現在「単色画」と一括りにされている動向が、本来的に持っていた多様な制作態度を示すものである。
再展示であるからには、いま一度1975年当時の経緯に触れておかねばなるまい。李東熀(イ・ドンヨブ)、徐承元、朴栖甫、許榥(ホー・ファン)、權寧禹(クォン・ヨンウ)の5人の作家は、東京画廊のオーナーであった山本孝と批評家の中原佑介によって企画された「1975年展」に参加した。展覧会のタイトルにある「ヒンセク(=白色)」は、山本が韓国で彼らの作品を見たときに朝鮮白磁との類似を見てとったことから名付けられている。この5人による展覧会を契機として、単色画は韓国の代表的な美術動向として確立していった。
その再展示である本展が私たちに提示しているのは、日本が単色画を「どのように見ていたか」、そして「いまどのように見ることができるか」という問いである。
タイトルどおり「白」という色彩は今回の展示でも概ね継承されていると言える。白は、本展出品作家たちをとらえるうえで重要なタームであることは間違いない。とはいえ、単色画のすべての作品が白を基調とした作品であるわけではない。彼らはいわば「白の作家」として選定されたのである。日本人である私が彼らの作品を目の前にすると、かつての山本孝と同様に朝鮮の伝統と白という色彩を直ちに結びつけてしまいたくなる衝動に襲われる。しかしここでふと立ち止まろう。そこには、韓国の作家を選び、「白」というラベルのもとにまとめあげた日本人、という構図がある。柳宗悦による朝鮮文化論がそこには見え隠れしている。韓国と白の関係には帝国と植民地という関係性の残滓があるのだ。
批評家の李逸(イ・イル)は「1975年展」に「白色は考える」という文章を書いているが、この文章を訳した李禹煥(リ・ウーファン)は「李逸氏はなぜ漢語のまま白色としたかわかりません」というコメントを残しており、本展にもその原稿が展示されている。李逸はこの文中で「白色を一つの色として以前に自然の〈エスプリ〉[…]として受け入れてきたのかもしれない」と述べている。李逸の言う「白色」はある種の精神性を示すものであり、つまり、彼は単色画の実践に韓国の伝統を見てとったのだ。だがそれは、朝鮮文化と白の関係を指摘した柳宗悦の議論とパラレルなものだ。「白を基調とする韓国絵画」というテーゼは日本の観客に示されると同時に、韓国の美術界に対しても大きな影響を与えた。日本というフィルターを介した、韓国と白の関係が示された「1975年展」は、日韓の視線の交錯を物語っている。
43年越しの再展示である本展は、当時韓国の作家や作品が日本にとってまなざしの対象であったということを意識せずにはいられない。しかしあえて、1975年と同タイトルのもとで再展示が行なわれているということで、こうした戦後日韓の文化的葛藤を改めて再考させるものとなっている。それぞれの作家の43年間の作風の変化以上のもの、つまり韓国美術にとってのパラドキシカルな存在としての日本が想起されるというわけだ。
1975年の展示をいま再構成するという今回の試みは、単色画の成立に寄与した歴史的展覧会の再演として意義深いものであると同時に、植民地期の記憶と格闘し独自性を模索していた韓国美術と、それを消費していた日本の関係を改めて問いに付すものだと言えるだろう。