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REVIEW - 2018.4.10

新たな「ねじり方」のためのモニュメント。
小倉拓也が見た、「HYPER-CONCRETENESS
――フィクションと生活」展

心と身体、発達のリハビリテーション、病理をテーマに作品を手がけるアーティスト・大崎晴地が立ち上げた「《障害の家》プロジェクト」。その第2弾となる展示「HYPER-CONCRETENESS――フィクションと生活」が2018年3月に開催された。障害を持つ人の視点をくみ取り、「家」そのものが舞台となった本展に哲学者・小倉拓也が迫る。

文=小倉拓也

展示風景より。第一会場を貫く穴を登った先に現れる空間 Photo by Shingo Kanagawa

展示風景より。第一会場を貫く穴を登った先に現れる空間 Photo by Shingo Kanagawa

「HYPER-CONCRETENESS
――フィクションと生活」展
引き摺られるもの
小倉拓也 評

 飛行機に乗っているとき、窮屈な座席に身体が馴れず、もう我慢ならないと身をよじりたくなることがある。もしかしたら勘違いされるかもしれないが、このとき我慢ならないのは、座席ではない。身体のほうである。よじりたいのは、有機的に組成され、それゆえ融通のきかなくなった身体である。このとき、私たちは、有機的な身体に対する敵意と少しの憐憫を持ちながら、そこからの訣別をこいねがっている。

 「障害の家」プロジェクトは、2015年より作家の大崎晴地が建築家と協働して取り組んでいるもので、バリアフリー化していく社会のなかで、「家」を焦点としながら、あえてバリアを積極的に構築することでバリアの意味を問い直すという意欲的な試みである。17年3月には北千住で1軒の建物を使用し、構造的にバリアを組み込んだ家を設計、展示している。今回は、東京都の再開発の対象として解体が決定している京島の長屋が会場となり、展示が行われた。

 展示のタイトルになっている「HYPER-CONCRETENSS」とはなんだろうか。日本語では「超具象」である。これが意味するのは、バリアフリー化によって消し去られ、流動的なコミュニケーションに解消されてしまうような、バリアとともに立ち現れる愚鈍、障害、遅延であり、またそれらが持つ協約不可能な特異性である。どうやら、昨今、現代思想においてとりわけ注目を集めている「自閉」の概念が念頭にあるようだ。展示では、家の構造をそのような愚鈍、障害、遅延をつくり出すよう設計、演出することで、鑑賞者の知覚経験において超具象を引き出すことが意図されている。

 展示は2つの会場で行われた。どちらも特徴的なものであったが、ここでは紙幅の関係から第1会場について踏み込んで評したい。

 第1会場は、互いに平行することのない複数の斜面の床からなる階層を、それら床に不揃いに空いた穴々を通ってよじ登っていくつくりになっている。各階層では、それぞれの階層の傾きによって態勢は安定せず、また、それとは異なる角度で覆いかぶさる他の階層の効果もあり、視界が極端に制限される。階層間をつなぐ穴々も斜面にしたがい傾いているので、よじ登るたびに身体は方向定位が困難になっていき、平衡を失っていくような感覚に襲われる。《養老天命反転地》と類似した効果を狙ったものともみなせるが、そちらがあくまで大地に足を据えながらのものであるのに対して、ここでは地面から離れた中空において、不動の地盤なしに、態勢が揺さぶられ続ける。

展示風景より。第一会場を貫く穴を登った先にある、斜面の床からなる階層 Photo by Shingo Kanagawa

 ところが、よじ登っていく途中で、不揃いに空いていると思っていた穴々のうち、1ヶ所だけ、穴が全階層を地面から垂直に貫いていることに気がつく。驚くべきことに、これに気がついた途端、身体は一挙に平衡を獲得するのである。あらゆる斜面の傾きを越えて、身体が地面へと垂直に結びつき、中空においてさえとどまることが可能となる。この垂直に建立された不在の柱は、方向定位のかなわないある種のカオス的な状況のなかで、身体がなんとか持ちこたえ、方向定位を成し遂げるという効果をもたらしているように思われる。これは哲学者のアンリ・マルディネが「モニュメント」と呼ぶものに似ている。モニュメントとは、すでに存在し展開されている世界のなかに置かれるものではなく、それを打ち立てることではじめて、複数の次元を結集し、世界を住みうるものとして開示するものである。

 モニュメントは「家」と深く関わっている。例えば、見渡すかぎりの荒野に打ち立てられた巨石記念物、前後左右不覚の樹海で木に打たれた人為的な刻印、周囲環境に埋没することのない際立ちを放つ野生の鳥のマーキング、これら様々な形態のモニュメントは、いずれも、私たちがカオスのただなかでとどまるための、そしてそこを拠点としてカオスを住みうる世界とするための、「テリトリー」を原初的に設営するものである。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが、粗野な自然にそれ以上の質を生じさせるこのようなテリトリーの設営、家の建築を、あらゆる表現活動・芸術の起源としたことはよく知られている。

 すると、家そのものを舞台としたこの展示は、多重的なモニュメントを折り込んだようなものとしてとらえることができるのではないだろうか。バリアのある家は、それが家である以上、まずは粗野な自然のなかに建立されたモニュメントである。そして、それがバリアである以上、バリアフリー化によって均質化し、流動化していく社会空間のなかで、流されることのないとどまりをつくり出すものとしてのモニュメントでもある。さらに、そのモニュメントは、流動化に対するとどまりであると同時に、やはりバリアである以上、均質化のなかに均質化されざる局所的なカオスを吹き込むものである。そしてその局所的なカオスのなかで鑑賞者は、斜面を這いながら、手探りで、不在の柱を自ら発見的に建立することで、中空にいながら大地と関係を結び、そこにとどまることを習得するのである。

 しかしながら、バリアの家によって見事に実現された、愚鈍、障害、遅延、つまり超具象は、最後には、有機的な身体と大地の絆に屈する運命にあるのかもしれない。超具象的な協約不可能な特異な現実が、それぞれに特異なままでありながら、ただひとつの大地と結ぶ関係によって媒介され、和解する運命である。ここでの大地の意味は広く、ゆるく取っていただきたい。評者はバリアの家でそのような感覚を持った。そのとき出現するかもしれない、超具象的なものたちの超具象的なままの共存のようなものは、社会空間の均質化と流動化を別の仕方で――あるいは同じ仕方で――促進し、コミュニケーションと、福祉と、政治的適正さの、新時代の先進的なモデルとなるはずである。

 私たちは身体へのたゆまぬ憎悪と、身体の新しいねじり方を発明しなければならない。