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「没後30年 木下佳通代」(大阪中之島美術館)開幕レポート。初の美術館個展で見えてくる一貫した「存在」への問い

大阪中之島美術館で、美術家・木下佳通代の回顧展「没後30年 木下佳通代」が開幕。本展は国内各地の美術館で所蔵される木下の作品を厳選し、代表作などを一堂に展示する過去最大規模の個展となっている。会期は8月18日まで。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より

 大阪中之島美術館で、美術家・木下佳通代の回顧展「没後30年 木下佳通代」が開幕した。会期は8月18日まで。担当は同館学芸員の大下裕司。

 木下佳通代は1939年神戸市生まれ。京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)卒業後、美術教師として勤めながら「グループ〈位〉」とともに活動。77年には第13回現代日本美術展兵庫県立近代美術館賞を受賞、82年に第11回ブルーメール賞美術部門を受賞した。80年代以降は大型のペインティングに取り組むも、90年はに乳ガンが発覚。闘病しながらの制作を続けたが、94年に55歳の若さで世を去った。

展示風景より、木下佳通代のポートレート

 本展は国内各地の美術館で所蔵される木下の作品を厳選し、代表作などを一堂に展示する過去最大規模の個展。生前は国内美術館での個展開催が叶わず、現在に至るまで実現しなかったため、本展は国内美術館初の個展となる。初期から晩年までの作品120点以上を紹介し、木下の制作の全容に迫る展覧会だ。

展示風景より

 担当の大下は開催の意義を次のように語った。「没後から現在にいたるまで、関西の美術館やギャラリーのコレクション展などで木下の作品は毎年のように紹介されてきた。しかし、その活動を総体的に把握できる機会は少なかったと言わざる得ない。没後30年というこの節目に、改めて評価する機会を用意できたと思う」。

展示風景より

 展覧会は3章構成。第1章「1960-71」は木下の初期の活動を扱う。幼い頃より絵を描くのが好きだった木下は、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)の西洋画科に入学。黒田重太郎や須田国太郎らに師事する。在学時は絵画や彫刻のみならず、哲学や教育学も学んだ。会場には木下が授業中にとっていたノートが展示されており、その勉強熱心な様が伝わってくる。当時の京都市立美術大学で哲学を受け持っており、木下も授業を受けていた久松真一は日本思想や東洋哲学の権威であった。木下は生涯の創作において「存在」を問い続けたといえるが、その萌芽がここにあったことが示唆されている。

展示風景より、木下佳通代の大学時代の講義ノート

 「存在」を問う姿勢は、大学卒業直後に描かれた植物のモチーフを扱っていた時期の油彩作品などにも見受けられる。抽象化されながらも植物だとわかるイメージが画面上に現れているが、モチーフのディテールを構成する存在そのものをどのようにキャンバスに写し取ることができるのかという、木下の思索の断片が感じられる。

展示風景より、右が《無題》(1962)

 この時期の木下の活動においてよく語られるのが神戸で結成された前衛美術家集団「グループ〈位〉」との協働だ。「存在」についての哲学的な問いを続けていたその活動は、木下の「存在」への興味と呼応するものだっただろうが、いっぽうで木下は美術教師の傍ら、自らの表現を追求していった。

展示風景より、左から《[滲触]》(1971)、《[滲触]む95》(1971)、《[滲触]》(1971)

 第2章「1972-1981」は、木下が写真というメディアを通じて「対象の存在を認識する」ということをより明確にした作品を生み出していった課程を取り扱う。

展示風景より、左が《Pa-fold`80-37》(1980)

 1972年から74年にかけて、木下は複数の写真を並べて構成する組作品を制作した。例えば《Untitled-b / む103(壁のシミ(ブロック))》(1972)は、同じ壁を写した写真であるが、片方はチョークで丸がつけられており、違いが認識される。本作は、例え同じ「存在」を写しながらも、そこに異なる認識を同居させられることを示す。

展示風景より、右が《Untitled-b / む103(壁のシミ(ブロック))》(1972)

 何もない空間に、ひとつずつオブジェを置き、それをまた取り除いていく過程を撮影した連続写真《む61(物の増加と減少)》(1974)も、時間の経過そのものをとらえようとする作品だ。何もなかったときの写真と、すべてが取り除かれたときの写真は同じものに見えるが、しかし一度置かれたものが取り除かれる過程が示されていることで、この2枚はまったく違う位相を写したものとなっている。ここでも、視覚的には同様であっても、「存在」のあり様が異なる事例が示唆される。

展示風景より、《む61(物の増加と減少)》(1974)

 このように、対象を認識することについての問いかけを、写真を通じて行っていた木下だが、その表現はやがて図像を用いた作品へと移行していく。例えばコンパスで真円を描き、描かれている円を斜めから撮影した写真と重ね合わせる。写真に映った円は斜めから撮られているため楕円であるが、鑑賞者はこれを経験で補完し、真円だと認識する。このような「存在」の多重性への木下の興味は、より構造的に表出するようになる

展示風景より、左が《'76-D》(1976)

 第3章「1982-1994」では、油彩によって自らの身体と結びついたかたちで「存在」を問う作品を制作するようになった木下の活動をたどる。

 図像によって「存在」を問いかけた木下は、やがてキャンバス上で「存在」の多重的に現出させる試みを始め、「塗ること」「拭くこと」を画面上で同時に行うようになっていく。

展示風景より

 会場に展示されたペインティングからは、油彩で描くことによる「存在」の現出のみならず、それを拭き取るという行為によっても何かしらの「存在」が現出しており、異なる「存在」が画面上に同居している。

展示風景より、《'86-CA323》(1986)

 やがて三菱倉庫屋上にアトリエを設けた木下は、より巨大なキャンバス作品を手がけるようになっていく。作品発表の場となった大阪港のAD&Aギャラリーも、天井の高い広大なスペースが特徴となっていた。本展でも展示室の高い天井高を活かし、当時制作された木下の大型作品が、確かな存在感を放ちながら展示されている。

展示風景より、左から《'89-CA554》(1989)、《'91-CA652》

 90年にガンが発覚したのち、治療法を探すために渡米もしていた木下。現地で制作していたという作品は、ロサンゼルスの風土や気候の影響を受け、軽やかな印象も受ける。こうした変化も、同時代の作品が一堂に会する回顧展だからこそ気がつけることだろう。

展示風景より、左から《LA'92-CA714》、《LA'92-CA716》(ともに1992)

 94年、木下は世を去る。生涯にわたり、その創作で取り扱うメディウムは様々に変節した。しかし、こうして年代順に作品をたどってみれば、そこにはつねに「存在」をめぐる問いがあったことがわかる。大下は、木下のこうした制作姿勢を、同時代に活躍した物語性を重視するニュー・ペインティングの作家たちと比べつつ「より構造に立脚したポストモダン的な立場だったのでは」と評価する。いま、新たな像を結び始めた木下佳通代という作家のあり方を、ぜひ会場で見ていただきたい。

展示風景より、左が《無題(絶筆・未完)》(1994)

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