1956年に第28回ヴェネチア・ビエンナーレでの国際版画大賞受賞をはじめ、国際的な評価を得た版画家・棟方志功(1903~1975)。様々なメディアを通じて「世界のムナカタ」として大衆に求められた作家の全容をたどる大回顧展「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」が、東京国立近代美術館でスタートした。会期は12月3日まで。担当学芸員は花井久穂(東京国立近代美術館主任研究員)。
この展覧会は、富山県美術館(3月18日~5月21日、終了)、青森県立美術館(7月29日~9月24日、終了) からの巡回展として開催されている。というのも、本展は棟方の人生において重要な拠点である「青森(生誕の地)」「東京(活動の中心地、定住地)」「富山・福光(疎開先)」といった3つの地での人的ネットワークや制作環境、時代背景などを通じて、その膨大なクリエイションを紹介するものだからだ。
会場は、棟方の「移動」にあわせて展開されていく仕様だ。芸術家としての道をスタートさせた青森での活動を取り上げる「プロローグ」に始まり、刺激的な機会やネットワークに恵まれた「第1章 東京の青森人」、戦時中の疎開を経験した「第2章 暮らし・信仰・風土─富山・福光」、国内外での多彩な活躍を見せる「第3章 東京/青森の国際人」、そして棟方の人物像にせまる「第4章 生き続けるムナカタ・イメージ」で構成されている。
幼少期より「セカイイチ」になることを夢見て、青森にて独学で絵を学び始めた棟方は、雑誌『白樺』に掲載されていたゴッホの《ひまわり》に大きな衝撃を受ける。「プロローグ」では、それをきっかけに油画家の道を歩み始めた棟方の初期作品が並んでいる。版画家として知られる作家による油絵が見られるのは貴重な機会のように思える。作風からもゴッホやセザンヌなどのポスト印象派作品の影響が見てとれるだろう。
続く1章では、1928年に油彩による帝展入選を果たした棟方が、同郷でのネットワークを築きながらも、徐々にその活動を油画から版画に移動させていく様子を追うことができる。
次第に独自の版画技法が評価され始めると、1936年の国画会展に絵巻形式で出品した《大和し美し》(1936)が、民藝運動でも知られる柳宗悦の目に留まることとなる。棟方は民藝の思想に影響を受けながら、柳の指導のもと日本文化や仏教などへの理解を深めていった。棟方作品のなかでも最初の宗教モチーフ作品である《華厳譜》(1936)や、東北飢饉の悲惨な様子からつくられた詩をテーマとした《東北経鬼門譜》(1937)などから、その様子が見え始めている。
また、仏教のみならずキリスト教をテーマとしたものも、棟方作品には存在する。高さ3メートル×幅1.8メートルといった珍しいかたちをした《幾利壽當頌耶蘇十二使徒屏風》(1953)は約60年ぶりに一般公開されている。これは当時出展した日展の規定に沿ってギリギリを攻めた形状で、キリストの弟子である十二使徒の人としての様子を描いたものだ。さらにその横には、余白に装飾的な設計が施された《基督の柵》(1956)が掛けられており、これは柳による設計かつ、柳に最も評価された作品でもあるのだという。
棟方の版画は、その移動によるゆかりの地にある美術館などに収められているケースも多いが、この東京国立近代美術館にも《二菩薩釈迦十大弟子》(1939)が収蔵されている。これは前期のみの展示で、後期には日本民藝館所蔵のものが展示されるため、摺りの具合などを比較してみるのも良いだろう。並べて展示されている板木に残る彫りの線にも注目だ。
極度の近視のため兵役を免れた棟方は、東京空襲が激しさを増した1945年の終戦間近、縁あって家族とともに富山・福光(現・南砺市)へと疎開することとなる。文学サークルの活動が盛んであったこの地で、独自の人的ネットワークを構築するとともに、浄土真宗の根付く土地柄と自然豊かな環境に民藝の「他力」思想を見出した棟方は、光徳寺の襖絵制作や筆の仕事などでそれを実践した。両面に《華厳松》《稲電・牡丹・芍薬図》が描かれたこの襖絵は、本来ほぼ門外不出であるため、大変貴重な作品であると言えるだろう。
約6年8ヶ月という時間を疎開先で過ごした棟方は、柳宗悦や河井寛次郎、濱田庄司、大原總一郎といった恩人らに向けて作品を制作している。河井宛につくられた青色と橙色の画面を持つ《鍾渓頌》(1945)からは、黒地に白い線で彫って輪郭線を残す、その後の棟方作品によく現れる技法が用いられている。
第3章では、戦後、領域や国内外を問わず広く活躍した棟方の多彩なクリエイションを目の当たりにすることができる。《湧然する女者達々》(1953)は、55年のサンパウロ・ビエンナーレの版画部門で最優秀賞を、翌年のヴェネチア・ビエンナーレでは国際版画大賞を受賞した作品だ。会場では、ヴェネチア・ビエンナーレの日本館(吉阪隆正による建築)での展示写真もカラーで紹介されている。
棟方は版画作品のイメージが強いが、じつは雑誌の挿絵やパッケージデザインなども数多く手掛けている。『中央公論』で連載をしていた谷崎潤一郎による小説『鍵』の挿絵も棟方が担当しており、印刷物になることを想定した真っ白な面のつくりが特徴的だ。
さらに、1959年に渡米経験をした棟方は、同地の詩人であるホイットマンの詩集を版画でビジュアル化してみせた。アルファベットの文字を彫りだす表現は、棟方作品においても珍しく、色彩もいままでにはない、現地の影響が見られるものとなっている。
棟方が帰国すると、戦後の高度経済成長の影響で建設された様々な公共空間におけるクリエイションの依頼を受けることとなる。会場に展示される《花矢の柵》(1961)は青森県新庁舎(谷口吉郎による建築)竣工を記念して制作されたものだ。
国内外で多彩な活躍を見せる棟方は、晩年に向かうにつれて、生誕の地である青森へと回帰していく。東北で広く信仰されるおしら様を描いた《飛神の柵》(1968)や、大首絵を描いた凧、そしてねぷた祭りのためにデザインされた浴衣など、東北を主題とした作品群からは、棟方の故郷に対する強い思いが感じられる。
最終章は、「世界のムナカタ」として大衆に求められた棟方の姿を紹介するとともに、自画像や写真、愛用品などから、その人物像に近づいていくものとなっている。
棟方がこの道を歩むきっかけとなったのは『白樺』に掲載されていたゴッホの《ひまわり》であった。71年に文化勲章を授章すると、ついにゴッホの《ひまわり》をオマージュした《大印度の花の柵》(1972)を制作した。その花瓶には自身の顔が描かれており、ついに「ゴッホになった」という図を表しているのだろう。
日本を代表し、そして世界に認められた版画家・棟方志功。時代の寵児とも言えるその作家は、いかにつくり上げられてきたのか。昭和の歴史と3つの拠点から「ムナカタ・シコーのつくりかた」を紐解いた、壮大なこの展覧会は見逃せないだろう。