1970年代初めから環境音楽のパイオニアとして活躍した音楽家・吉村弘(1940-2003)。その没後20年を記念する企画展「吉村弘 風景の音 音の風景」が神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で開催されている。会期は9月3日まで。
吉村の名前を初めて聞いた方も、どこかでその作品を耳にしているかもしれない。同館の葉山館や東京メトロ南北線などの公共空間では、今も吉村が生み出した音が流れている。音楽ストリーミングサービスのプレイリストで出会っていることもあるかもしれない。独学で音楽を学び、自由な視点で音に向き合い続けた吉村は、音源制作やパフォーマンス活動にとどまらず、音を描いたり音のおもちゃを作ったりと好奇心のままに幅広く活動し、多くの作品を残している。
なお、「環境音楽(ambient music)」は、ブライアン・イーノ(1948-)が「興味深いけど無視できる音楽(as ignorable as it is interesting)」と言葉にした概念だ。音は強く主張せず、周囲の環境に溶け込んで聴き手の邪魔をしないものが多く、作業や考えごとに集中できたり、リラックスした気持ちになれたりする音楽である。
最近では坂本龍一や久石譲、細野晴臣らとともに吉村の楽曲が収録されたコンピレーション『Kankyō Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』が、2020年のグラミー賞にノミネートされたことも記憶に新しい。いま、日本の環境音楽は国内外から再び注目されているのだ。
その先駆けとなった1982年のデビューアルバム『Music for Nine Post Cards』をはじめ、吉村の音楽を日々聴いているひとりのファンとして会場を訪れた。
本企画展は、「音と出会う」「音をつくる」「音を演じる」「音を眺める」「音を仕掛ける」の5部構成。図や指示書からパフォーマンス、映像、サウンドデザインなど、吉村が遺した多岐に渡る作品と資料群が紹介されている。展示を眺めていくうちに、吉村が表現する時空間が徐々に大きくなるという流れが感じられ、同時に一貫して音を繊細にとらえていたことに気付かされる。
エリック・サティ(1866-1925)の自由な楽譜に影響を受けた初期のドローイングに始まり、実演や装置における設計書、そして《SOUND LETTER》などに共通して感じられることがある。それは、空間にある一つひとつの音の形や重なりを綿密に想像していたということだ。
音の形は、大きさや長さ、丸みなど粒の表現が細かく、音の重なりや配置からは、音が存在する空間を広く捉えていたことが伝わってくる。音楽制作ソフトのMIDI打ち込み画面のように幾何学的に表されたものもあるが、手書きも相まって機械的な印象は受けず、むしろ豊かなニュアンスをも感じさせる。
ある風景から聴こえてくる音を繊細にイメージしつつ、より長い時間軸のストーリーとして表現したものが絵楽譜だろう。雲が流れ、太陽が瞬き、鳥は羽ばたき、風は歌う。どの絵楽譜も、じっくりと見入ってしまう景色が描かれていた。
作品に雲がよく登場することもあり、「雲のおじさん」とも呼ばれていた吉村。展示「吉村弘の音環境デザインとデザイン・スコア」(文房堂ギャラリー、1999)では「雲を見ていたら、雄大なシンフォニーが聞こえている」と、それを「音楽という体験の原点」として述べていた。
風景に音を見出した表現として、初公開の映像作品《Rain》《Tokyo Bay》《Summer》《Clouds》《Pianistic Interiors-May》も展示されている。木漏れ日に揺れる葉、都市の光に照らされる夜の海、雨の波紋が広がる水辺、ゆっくりと流れ続ける雲。吉村のなかで、日々にある美しい自然風景と心地よい音の「ゆらぎ」が共鳴していたことがわかる。
展示の後半に差し掛かる頃、吉村が「居心地のいい音」を意識して音楽に向き合っていたことに気づいた。アーティスティックな側面を持ちながらも、音で誰かを心地よくするというサウンドデザイン思考が垣間見えるのだ。
それは、数多くの公共空間の音響デザインに携わったことも影響しているであろう。スライドショーでは、東京メトロ南北線の発車音や神奈川県立近代美術館 葉山館・鎌倉館(2023年4月より鎌倉別館で使用)のサウンドロゴなど、30のサウンドが20分ほどにまとめられている。場所と音の紹介のみならず、音のスケッチ資料など制作過程も紹介されており見応えがある。
例えば、楽譜〈22°9 MYOUKEN CABLE〉は、乗客の心理が細かく想像された音に仕上がっている。落ち着いたテンポや音色でありつつも、揺れるドキドキ感、窓から見える緑の景色へのワクワク感、そして賑わう車内の音環境と調和する「居心地のいい音」に完成されている。
静的な風景のみならず、常に変化し続ける生活空間においても、その環境にある音を繊細にとらえ、聴き手の体験を高い解像度で想像したうえで、居心地がよくなる背景音楽をデザインしている。この「自然な心地よさ」こそ環境音楽の思想であり、吉村の言う「空気のような音楽」の真骨頂であるとも言えるだろう。
吉村の活動には「居心地のいい音」を生み出すだけでなく、その良さを知ってほしいという意識も見えた。例えば、美術館で開催したワークショプや音のおもちゃ、絵本『森のなかでみつけた音』などだ。さらに1986年リリースのアルバム『Surround』のライナーノートには、「私の音楽に対する姿勢」として以下の言葉が書かれている。
空気に近い音楽によって、聞く人それぞれの音風景に出会えるような、あるいは居心地のいい空間になるような、音と音楽との中間領域をひろげていく、新たな視点にたったものとして、この “Surround” を聞いていただければ幸いです。
どこまでも「居心地のいい音」を追求したからこそ、吉村の音楽は長く聴かれているのだろう。吉村が目指した「空気に近い音楽」は、不自由で不安なコロナ禍を経た現代においても、音から風景を呼び起こす想像の旅や、自己と穏やかに対話する時間を優しくもたらす存在なのだと思う。
会場では本記事で触れた作品以外にも、イベントフライヤーやサウンドインスタレーションなど、200を超える作品と資料をコンパクトな空間でじっくり鑑賞できる。鎌倉の騒めく街から静かな山へと移りゆく「風景と音」も楽しみながら、ぜひ会期中に訪れてほしい。