清川あさみが立ち上げた「新古典楽し座」は、古典芸能のアップデートによって1000年前と1000年後をつなぐプロジェクト。4月28日には、いとうせいこうの脚本と清川の監修による初舞台『NOBODY』が、ロームシアター京都で上演された。本記事では、糸あやつり人形の表現を取り入れた全く新しい能の全貌をお届けする。なお、本公演はMtK Contemporary Artで開催中の個展「I'm nobody. 何者でもない」(〜6月28日)とも接続する内容になっている。
テーマは、個の内面とその解放だという今回の舞台。白と黒がスタイリッシュな公演パンフレットには、「現代アートの表現で作られた人形を持った演者が、得体の知れぬ他者の出現により、自己への不安を掘り下げていく過程を能の舞で表現します。演目のラストでは人形が変化し、自己に対する迷いや恐れから解放されます」と紹介がある。
会場に入るとまず、客席と舞台がフラットにつながっていることに驚かされる。能舞台といえば階(きざはし)を上がったところにあるが、観客と心理的的にも物理的にも近く、目線が同じであることが必要だと考え、舞台を組まないという選択に至ったという。
開演前の薄暗闇でも、舞台の中央に石造りの井戸、奥には岩のような舞台セットが確認できる。清川監修のもと舞台美術を手掛けたDAISY BALLOONは、バルーンアーティストユニットだというから驚きだ。風船のイメージとはかけ離れた微細な凹凸を持つ固そうな質感は、わざと萎ませることによって実現しているのだそう。今回のために組まれた、清川が客員教授を務める大阪芸術大学美術学科 ASAMI LABOメンバーも助っ人として一緒に舞台をつくり上げたとのこと。
開演後、モノクロームな舞台にまず上がったのはシテではなく、『一糸座』四代目結城一糸が操る人形だった。白髪に白い装束を纏った人形と並ぶと、バルーンでできた岩は恐山のような風格を醸し出し、彷徨い果てて井戸に行き着くまでの長い道のりの表現を可能にしている。
能と糸あやつり人形を組み合わせるという独自性を持つ本舞台。人形につながる糸が持つ緊張感は、情報や何か得体の知れないものに操られているような現代の感覚を反映しているかのようだ。なお、この表現を支えている『一糸座』は、糸を用いた表現を展開してきた清川が入念なリサーチの末にたどりついたのだという。
舞台では、人形の謡が切なく心細く響く。覚えのある単語が耳に届くが、日常で発している言葉と同じとは感じられない。いとうせいこうによると、じつは、本編の謡はすべて現代語とのこと。「現代語だけど謡の加減で古典に聞こえて、物語は伝わってくる。その絶妙なラインに仕上げた」 と語ってくれた。
言葉の問題は、監修の清川も共有するところ。古典芸能を見ていて「言葉が理解できなくて話が分からないって、こんなに入り込めないんだ」と気付かされたことがあり、プロジェクションマッピングやVRなどのデジタルとはまた違った古典のアップデートの必要性を感じていたという。
人形にやや遅れて、能楽師の林宗一郎(観世流シテ方)が演じるシテが登場。白髪に白い装束で揃えながらも、シテと人形それぞれの動きを想定してつくられた衣装には、布地の質感などに差異が見られる。
両者が舞台上に揃った時に、シテと「人形を持った人」ではなく、シテと「人形」が浮かび上がったのが印象的だった。それでいて糸の存在感は消えておらず、照明の具合にも工夫が感じられる。
そして、井戸を挟んで対峙し、「私はあなたの精なのです」と語りかける。息を呑むような、見せ場のひとつでもあるこの場面では、重要な仕掛けである面(おもて)に意識が向くタイミングでもあった。
能の重要な要素で、観る者は背筋が伸び、演者はつけた瞬間に切り替わるような機能がある面。他の能の舞台では見たことのない表情は、なんと面の裏側を用いたもの。物語に則した「誰でもない顔」の面を表現すべく、清川が様々な面の裏を観察してスケッチを作成。能面師の大月光勲に5回ほど彫り直してもらって完成に至った、こだわりの面になっている。
その後、人形とシテが対話するように謡と舞が加速。見つめるほどに解像度が上がり、計算されつくした手足の動き、顔の向き、袖の揺れなどの一つひとつに感嘆してしまう。
同時に、囃子も存在感を増していく。一般的な能の会場とは材質もつくりも異なるため、音響については難点があるのではないかと危惧されたが、現代音楽との組み合わせによって見事にカバーされている。おどろおどろしさも内包する環境音楽を手がけたのは、ミュージシャンの原摩利彦。どこの空間かわからないような原の音楽がベースとなり、その合間や、時に覆いかぶさるようにしながら笛、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおつづみ)、太鼓の音が、息遣いとともに観客に伝わってくるのだ。
とくに後半、シテや人形が井戸の周囲をまわった李、井戸をのぞくという象徴的な動きが幾度かあった。井戸をのぞきこんで自分自身を見つけたり、鏡に映る自分を見つめるといったストーリーが知られるなか、この描写は「答えが見つからないいま」を投影しているように見えた。
物語は無音の瞬間を戴き、人形の面が井戸の底に落ちていくことで幕を閉じる。そこで観客にもたらされる衝撃と安堵感は、「解放」という言葉から連想されるものよりも重く、それでいて温かさを持っていた。
清川は本公演について次のように語っている。「情報過多で混沌とした、答えが見つからない時代にいて、コロナ禍を契機にいっそう『自分ってなんなんだろう』と考えることが増えました。生きる事もそうですが、ずっと暗闇のなかを彷徨っている感じがあって。そのなかで何か大切な事を見つけて解放されるテーマっていいなと考えていたんです。そんなとき、せいこうさんが書いた『NOBODY』の脚本を頂いてすごくしっくりきて、頭の中で空間や映像、音を描き始めて、いまこそやった方がいいと思いました。そこからはひたすら、自分のなかにあるイメージを追いかけてきましたね。実験的にやってみて、『ゼロ』のお話がつくれたと感じています。これから違うストーリーや要素や芸能や文化を入れていくこともできると思うし、皆さんから再演の希望も沢山ありましたので、今後につながっていけたらと思います」。
個人の悩みに回収されがちなテーマを、大人数の協働が必要な舞台芸術を通して表現していること自体が、清川にとって新たな試みであっただろう。総合芸術でありながら、ディレクションはもちろん鏡のような井戸や人形につながる糸からも、清川の作品という側面も感じられる時間芸術になっていた。
なお、同エリアのMtK Contemporary Artでは、個展「I'm nobody. 何者でもない」が6月28日まで開催中。ここではパフォーマンスと展覧会の接続が実現しており、『NOBODY』を書で綴った西陣の絵巻物や、能面も鑑賞できる。極地という意味を持つドローイングの「polar」シリーズでは、帯の織り糸の元である焼き箔を貼った上に、オイルパステルで描いたことで生まれる、内側と外側がわからなくなるような絶妙な質感を楽しめるだろう。会場奥にはさらに、2021年にデジタルアートとして公開された《OUR NEW WORLD》の原画を複写して転写した上にペイントと糸やビーズを使った、3メートルにも及ぶ刺繍作品も展覧されている。
素材やテーマなどを「シンクロ」させ、舞台を見終わった後も内側にいることができる。もちろん展示自体にも没入してしまうような、会場全体で世界観を感じられる展示になっている。