根津美術館が誇る尾形光琳(1658~1716)の傑作、国宝「燕子花図屏風」は、毎年生花のカキツバタが咲くこの季節、ゴールデンウィークにかけて公開される。都度切り口を変え、趣向を凝らした企画展のなかで紹介されるのが楽しみな恒例行事だ。
今年は、「光琳の生きた時代 1658-1716」として、光琳が生きた江戸初期の約60年の歴史を切りとり、この時代に制作された作品で構成される。
尾形光琳は「高等遊民」だった?
わずか60年間と思われるかもしれないが、長い戦乱が終わり、徳川家を頂点とした幕藩体制のもと、世の中が安定したこの時期は、公家、武家、台頭してきた町人の各層において多様な文化が花開き、それぞれの特徴を備えつつも互いに交錯し、以後の江戸文化の基底となっていく。濃密で豊かな文化土壌が醸成された時代と言える。
なかでも光琳は、町人が担い手となった華やかな元禄(1688~1704)文化を象徴する存在として美術史に刻まれ、その創作の頂点とされるのが40歳半ばに制作された傑作《燕子花屏風》だ。
しかし、京の高級呉服商の次男に生まれた光琳は、公家や武家の文化に触れる機会の多い環境に育ち、その影響を受けた裕福な町衆との交わりのなかで、画のほかに書や茶の湯、能楽も嗜んだ。家業を継ぐ義務もなく、経済的に恵まれた、現代風に言えば「高等遊民」だった。絵師となることを決意したのも30代半ばになってからと言われる。
その天分は、朝廷から法橋を賜ったことからも明らかで、以後は、5年ほど姫路藩主の扶持を得て江戸にも滞在し、豪商の三井家や住友家ともつながりを持つ。その生涯を大きな歴史的視点から俯瞰したとき、彼の存在はまさに宮廷や幕府の文化と町人文化の結節点としてとらえることができる。
会場では、光琳の《燕子花図屏風》を中心として、この前後の文化的環境を感じさせる作品を、3部構成で紹介する。点数こそ多くはないが、豪華な屏風が並ぶ空間は見ごたえ十分。所蔵品だけで展示が実現することも同館のコレクションの厚みを感じさせる。