日本を代表する作家・村上春樹。その名前を冠した世界唯一の施設が、早稲田大学内にある「早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)」(10月1日開館)だ。
村上春樹ライブラリーは、早稲田大学校友である村上春樹が寄託・寄贈した小説作品の直筆原稿、執筆関係資料、書簡、インタビュー記事、作品の書評、海外で翻訳された書籍、蒐集した数万枚のレコード等を保管し、公開する施設。村上春樹が考案した「物語を拓こう、心を語ろう」というモットーを掲げ、村上春樹文学を基点にしつつ、研究・交流・発信を活動の柱としながら日本文学・文化の世界的研究センターとなることを目指す。
建物は早稲田キャンパス内、村上春樹が学生時代に通い詰めた坪内博士演劇博物館に隣接する旧4号館を大規模改修したもので、村上自身が場所を選んだという。隈研吾がその設計を担い、木の庇が建物を取り巻く特徴的なデザインだ。隈研吾は「村上春樹さんはもっとも愛読する、敬愛する作家」としつつ、「春樹さんからライブラリーの設計を頼まれたときは『大変なことになったな』と思った」と振り返る。「春樹さんの作品は日常から突然別の世界に入ってしまう構造がある。扉を開けると中に全然違う世界が広がっているという空間をつくれたらと考えた。世界に例がないライブラリー。新しい交流ができることを願っている」。
改築費用にかかった約12億円は、早大出身で株式会社ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長の柳井正が寄附した。柳井は「日本文学のみならず日本の文化の、世界に対する発信力が弱くなっていることを危惧している」としながら、この村上春樹ライブラリーに対しては「新しいアジアの人たち、欧米の人たちが文化をつくる場所になってほしい」と期待を寄せる。
村上春樹「新しい文化の発信基地みたいになってくれればいいなと思っています」
村上春樹はこのライブラリーのもととなった旧4号館についての思い出とともに、今後の展望について次のように語った。
「4号館というのは僕が学生だった頃は、学生に占拠されてました、しばらくの間。1969年、いまから52年前ですか。4号館の地下ホールで山下洋輔さんがフリージャズのライブをやったんです。そのときにピアノを大隈講堂から勝手に持ち出して運んできまして、そのときピアノを担いだひとりが作家の中上健次さんだったということです。中上さんは早稲田の学生じゃなかったけど、外から手伝いに来ていたんですね。僕の友だちの何人かはその催しに加わったんですけど、僕は残念ながらそのライブには行けなかったんです。でもそのコンサートのドキュンタリー番組をつくっていた田原総一朗さんの話によると、民生や革マルとか中核とかそういう仲の良くないセクト同士がひとつの場所に集まってヘルメットをかぶって喧嘩もせずに、呉越同舟で山下さんの演奏に聞き入っていたそうです。そういう建物が、今回再占拠されるといったらよくないんですけど、まるごと使わせていただけるのはとてもありがたいことで、非常に興味深いめぐり合わせだと思います。柳井正さんも、たまたまですが僕と同じ年に早稲田に入学されたのでこういうのも何かの縁だという気がします。山下洋輔さんもいつかまた、同じ場所でガンガンピアノを弾いていただきたいなと思います。
その当時、僕らは『大学解体』というスローガンを掲げて闘っていたんですけど、暴力的に解体しようとしてそれはもちろんうまくいかなくって、こっちらが解体されちゃったんですけど。でもね、僕らが心に描いていたのは、先生が教えて生徒が承るという一方通行的な体制を打破して、もっと開かれた自由な大学をつくっていこうというような思いだったんです。それは理想としては決して間違っていないと思うんですよね。ただやり方が間違っていただけで。で、僕としてはこの早稲田大学国際文学館村上春樹ライブラリーが──長い名前なんですけど──早稲田大学の新しい文化の発信基地みたいになってくれるといいなと思っています。先生がものを教えて、生徒がそれを受け取るっていうだけじゃなく──もちろんそれは大事なことではあるんですけど──それとは別に、同時に、学生たちが自分たちのアイデアを自由に出しあって、それを具体的に立ち上げていけるための場所に、この施設がなるといいなと思ってます。つまり、大学のなかにおけるすごく自由で、独特でフレッシュなスポットになればいいと考えてます。
早稲田大学というのは都会の真ん中にあって、比較的出入り自由な場所なんです。それは、大学と外の世界が混じり合うのに非常に適した環境だと僕は思います。そういう地の利を生かして、大学と外の世界がうまく、よいかたちで大学を軸にして混じり合えば、いいなと思っています。でもそのためには学生のみなさん、それから大学のスタッフ、一般市民のみなさんの協力がどうしても必要になってきます。どうかよろしくお願いいたします」。
左右に広がる巨大な階段本棚
村上春樹ライブラリーは地上5階、地下1階の6フロアで構成。地下1階(カフェ、ラウンジ、ポケットパーク、「村上さんの書斎」)、1階(受付、ギャラリーラウンジ、オーディオルーム)、2階(スタジオ、ラボ、展示室)、3階(研究書庫、閉架書庫)、4階(セミナールーム、研究室)、5階(国際文学館事務所、館長室)となっている。建物の詳細を見ていこう。
館内に入ると正面に見えるのが、村上春樹ライブラリーを象徴する空間「階段本棚」だ。1階と地下1階をつなぐトンネルのようなこの場所は、アーチ状の天井と左右に広がる巨大な本棚が特徴。隈研吾が村上作品の構造をイメージして設計した。
開館時には「現在から未来に繋ぎたい世界文学作品」「村上作品とその結び目」をテーマとした書籍が並んでおり、選書は幅允孝が代表を務める「BACH」によるもの。陳列されている本は階段スペースと地下1階で自由に閲覧することができ、書籍のラインナップは期間によって入れ替わる。
地下1階:村上春樹の書斎再現も
階段本棚を降りた先にある地下1階。ここにはゆったりと読書ができるラウンジがある。村上春樹は早稲田大学在学中にジャズ喫茶「ピーターキャット」を営んでいたことで知られるが、地下にはこの名前をもじったカフェ「オレンジキャット(橙子猫-ORANGE CAT-)」が入る。店名は村上春樹の妻によって命名された。また、このフロアにはピーターキャットで実際に使用されていたグランドピアノも展示。ファンにはたまらないポイントだ。
同じく地下1階では、村上春樹の書斎を再現した「村上さんの書斎」も見逃せない。その全貌が明らかにされてこなかった村上春樹の書斎。自由に入室することはできないが、この空間から作家の日常風景を想像してみたい。なお、この書斎内にあるレコードプレーヤーやアンプ、椅子などは村上春樹の書斎と同じ製品を展示。壁面両側のレコード棚には、順次村上春樹から寄託・寄贈されるレコードが並んでいく。
1階:村上作品に囲まれる読書・音楽空間
村上春樹ライブラリーの1階は、書籍と音楽の面から村上ワールドに浸れる空間だ。ギャラリーラウンジには、デビューした1979年から2021年までの村上作品の表紙が並ぶ。村上春樹本人からの寄贈で、その多くが初版本だ。
またその反対側には、世界各国で翻訳された海外版の村上作品をラインナップ。日本ではなかなか目にすることがない本に出会うことができる。
ギャラリーラウンジから階段本棚を挟んだ反対側には、ぜいたくなオーディオルームがある。ゆったりとした空間では村上春樹寄贈のレコードがかけられており、音楽とともに村上作品を読みながらくつろぐことができる。ちなみにオーディオシステムは村上春樹のオーディオアドバイザーである小野寺弘滋(オーディオ評論家、元『ステレオサウンド』編集長)によるセッティングという徹底ぶりだ。
2階:文学を基点とした様々な企画展を開催
2階は企画展を行う展示室となっている。ここでは村上作品に限らず、幅広い内容の企画展が開催される予定で、オープニングを飾るのは「建築のなかの文学、文学の中の建築」展(〜2022年2月4日)。村上春樹ライブラリーがどのようなプロセスを経て完成したのかを、模型や図面からたどるものだ。また、建築と文学にまつわる書籍も陳列されている。
同じく2階には高音質の録音ができるスタジオや、企画展示にそったワークショップやセミナーなどを開催できるラボも完備。来館者が交流するためのスペースとなる。
村上ワールドにたっぷりと浸れる空間となった村上春樹ライブラリー。今後どのような拠点として存在感を放つのか、注目しておきたい場所だ。