滋賀・近江八幡で開催されている「BIWAKOビエンナーレ2018」(〜11月11日)。2001年から続くこのビエンナーレは、芸術祭自体ではなくその周囲に大きな変化をもたらした。
重要伝統的建造物群保存地区に登録されている、伝統的な町家の景観が並ぶ近江八幡。最寄り駅(近江八幡駅)から30分ほど歩いた八幡山のふもとにひっそりと広がるこの町は、京都と名古屋に挟まれ、いまも安土桃山時代の風情をそこかしこに残している。近年では、藤森照信の設計した「たねや」のフラッグシップ店「ラ コリーナ近江八幡」で知られ、アートファンが訪れることも増えているという。
16世紀、豊臣秀次によって拓かれ、「楽市楽座」を中心に西(京・大坂)と東(江戸)を結ぶ仲介業で栄えたこの町は、碁盤の目で区画が形成され、一つひとつの町家は商家らしく入口が狭く奥に長い。宅内の部屋も小ぶりで、表通りに面していないぶん、日が入りにくく暗い。
BIWAKOビエンナーレでは町家の空き家が主な会場として用いられているため、この展示環境が、芸術祭を大きく性格づけている。作品はそれぞれ壁(ホワイトキューブではなく、多くは木材や土壁)で区切られており暗いため、密やかな印象を与える。サークルサイド《edge type[35° 8’ 27.4” N 136° 5’ 30.4”E]》や山田正好《とおりゃんせ とおりゃんせ》など、町家の暗さや狭さを取り込んだ作品に注目したい。
八幡山の頂上にロープウェーで上がると、秀次が築城した八幡城趾の村雲御所瑞龍寺門跡がある。豊臣秀吉の甥の秀次は、世継ぎがいなかった秀吉の養嗣子となるが、嫡子・秀頼が生まれたのちに出家させられ(諸説あり)、最期には切腹する。瑞龍寺は、そんな非業の人生を遂げた秀次を弔うために建立されており、ここに展示されている三木サチコ《Boundary Zone #2》と藤田マサヒロ《微笑みの壁 八×九》は、そういった歴史背景を踏まえ、解釈を多面的にしている。
ほかにも、社会的なメッセージを強く投げかける石川雷太《昭和・平成・パルチザン》や、松本悠以+永井拓生《奇想天蓋》と池原悠太《わたしたちの神話》によるコラボレーションの展示、サウンド・インスタレーションのあわ屋《あわいに眠る 2018》など、町家の空間を生かしながら個性を発揮する作品が見られた。
日本の芸術祭ブームの発端となった越後妻有アートトリエンナーレが2000年に始まったのに対し、BIWAKOビエンナーレが始まったのは2001年。この2つは、日本芸術祭最初期からほぼ同時に回を重ねてきたことになるが、それぞれが歩んできた方向性は大きく異なる。
2018年には2つの芸術祭が開催されたが、前者は子供連れでも訪れやすく、開放的で大規模。撮影場所が案内される作品もあるなど、「インスタ映え」も意識されていた。いっぽう、後者の展示場所は狭く暗い場所が多く、インスタ映えするとは言い難い。だがそれはけっして否定的なことではない。
昨今、近江八幡の町家は空き家が増え、取り壊されるケースも少なくない。伝統的な町並みの減少が問題視されるなかで、町家での展示は、家屋の魅力再堀や用途の拡大につながる貴重な機会となっている。
そして興味深いのは、(地域芸術祭によく見られる)こういった地域活性が、「目的」ではなくあくまで「結果」であることだ。BIWAKOビエンナーレは、総合ディレクター・中田洋子の存在が大きく、中田の判断で物事が動いていくことが多い。中田は、15年以上も芸術祭を続けながら、「ただアートが好きでやっているし、私自身は何もスタンスを変えていない」と言い切る。地域活性や集客拡大が「目的」にすり替わらず、アートに対する純粋な想いで動く彼女の存在は、いまや稀有かもしれない。
そんなBIWAKOビエンナーレにも変化が見え始めた。今年、近江八幡市長が代わり、市が少しずつ関心を寄せるようになったのだ。市の広報誌でも大きく取り上げられ、視察に訪ねて来る市役所職員もいるという。変わらない中田の「目的」とBIWAKOビエンナーレが、「結果」を大きくしている。
芸術祭が日本にあふれ、差別化が求められるなかで、多くは登場人物(共催や協賛社、助成金といった外的関与者を含む)を増やし、規模や数を大きくしてきた。その結果、来場者数や交流人口の増加など、様々な「目的」を背負わされている。ごく少数の人の想いに突き動かされて日本にインストールされた芸術祭の「原型」を、BIWAKOビエンナーレで見てほしい。