乳白色の肌の女性像や巨大な作戦記録画、そして子供や猫などの作品で知られるエコール・ド・パリを代表する画家・藤田嗣治。1886年に東京で生まれた藤田が1968年にヨーロッパで没してから50年目を迎える今年、日本とパリでは相次いで藤田の展覧会が開催されている。そのなかでも、もっとも大規模な回顧展「没後50年 藤田嗣治展」が上野・東京都美術館で開幕した。
展覧会は国内外の様々な美術館や個人が所有する作品から構成されており、藤田の初期作品から晩年までの画業を丁寧に追う内容となっている。
第1章「原風景――家族と風景」では、藤田が東京美術学校(現東京藝術大学)に在学中の作品などが展示され、その確かな画力を確認できる。続く第2章「はじまりのパリ――第一次世界大戦をはさんで」では、1913年にパリに到着し、第一次世界大戦をはさみながらヨーロッパの地で作風を模索する様子が見て取れる。当時、パリを席巻していたキュビスムや、友人であるアメデオ・モディリアーニからの影響を受けながら徐々に個性を確立し、やがて「乳白色の下地」誕生するまでのプロセスを追うことができる展示構成だ。
そして第3章「1920年代の自画像と肖像――『時代』をまとうひとの姿」では、パリで本格的なデビューを果たした直後から、売れっ子となり肖像画を多数描いていた時期の作品が紹介される。
華やかな20年代のパリという時代を生きた人々の肖像を、東洋出身の若手画家であった藤田がどのように描いたのか。人物だけではなく、装飾表現にも注目してほしい。
続く「第4章『乳白色の裸婦』の時代」では、そのタイトルのとおり藤田の代名詞ともいえる乳白色の裸婦が一堂に会する贅沢な空間が広がる。
なかでも注目したいのは、《タピスリーの裸婦》(1923、京都国立近代美術館蔵)だ。装飾的な綿布により女性の乳白色の肌が引き立てられ、また傍らに猫が配されることで画面が引き締まっている。本作は23年のサロン・デ・テュイルリーに出展された。
藤田の代表作を堪能したあとは、「第5章 1930年代・旅する画家――北米・中南米・アジア」で様々な国の人々を描いた知られざる作品に出会える。藤田の観察眼の鋭さと、異文化に触発された新境地ともいえる表現を楽しみたい。
そして40年代に入ると、その作品にも戦争の色が出てくる。猫に情勢の不安を重ねて描いた《争闘(猫)》(1940、東京国立近代美術館蔵)は、藤田が多く手がけた猫の作品のなかでももっとも知られている作品だ。
「第6章 『歴史』に直面する――二度目の『大戦』との遭遇、そして作戦記録画へ」では、同じく東京国立近代美術館が所蔵する《アッツ島玉砕》(1943)などの作戦記録画も展示。パリで生活していた藤田が、故郷である日本でどのような仕事をしたのかを確認できる。
なお、本展では戦争を主題とした絵画の総称として「戦争画」という広義の言葉ではなく、狭義の「作戦記録画」という言葉を用いている。「作戦記録画」は日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の陸海軍の依頼により画家が戦争を題材に描いた公式の戦争画を指すときに使われる。
終戦を迎えると藤田は戦中の国策協力を糾弾され、49年に西洋社会へと戻り、日本に別れを告げることとなる。そしてパリに戻る前にニューヨークに1年弱滞在すると、制作意欲が高揚し、《カフェ》(1949、ポンピドゥー・センター蔵)などの名作が誕生した。
そして藤田は戦争によって疲弊したパリに50年に戻ると、古いパリの町並みや、子供たちを描いた。これらの時期の作品を「第7章 戦後の20年――東京・ニューヨーク・パリ」で見ることができる。
55年にフランス国籍を取得した藤田は、59年にカトリックの洗礼を受け、「レオナール」の洗礼名を得る。以後「レオナール・フジタ」としてキリスト教をテーマにした作品を多く手がけた。10年代からキリスト教をモチーフにした作品を描いていたが、キリスト教徒となってからはより熱心に図像研究を重ね、優れた作品を多数残した。「第8章 カトリックへの道行き」では、晩年の藤田のそうした作品が多数展示されている。
時代の寵児であり、時代に翻弄されることともなった藤田。没後50年を迎えた今年、日本とフランスという二つの国を生きた画家の画業をあらためて振り返り、その表現の変化をじっくりと観賞してほしい。