古代インドの大叙事詩「マハーバーラタ」のなかで最も美しいロマンスといわれる挿話「ナラ王物語」。SPAC-静岡県舞台芸術センターによる野外劇『マハーバーラタ 〜ナラ王の冒険〜』は、「この物語がもし平安時代の日本に伝わっていたら」という着想のもとに生まれた宮城聰の代表作である。
2003年に東京国立博物館の東洋館の地下で初演を迎えてから、世界最高峰の演劇の祭典といわれる「アヴィニョン演劇祭」をはじめ国内外で上演を重ね、高い評価を得てきた。初演から20年となる今年は、「東京芸術祭 2023」のプログラムにその名を連ね、10月19日から23日の期間に行幸(ぎょうこう)通り特設会場にて野外上演された。
開演後間もなく、東京駅を背景にした行幸通りに打楽器が響く。その音に応じるように、白の装束を身に纏ったダマヤンティ姫とナラ王らが入場。婚礼のシーンは、荘厳でありながら目にも耳にも楽しく、事件や葛藤の予感は感じられない。
しかし、ダマヤンティ姫との結婚を妬んだ悪魔・カリがナラ王に呪いをかけることで、ハレのひとときは一転。ナラ王は弟を相手の賭博に狂いはじめ、舞台に暗雲が立ちこめる。賽を振り、打楽器が響く。何度繰り返してもナラ王の頭上に旗が上がることはなく、賭けに負け続けるのだ。
この場面では、「語り」の存在にも注意が向くだろう。能や狂言といった日本の古典芸能を思わせながら、演者による象徴的な身体の動作の数々を貫くように、登場人物の感情や物語の筋を観客に伝えてくれる。
宝石や兵士、そして国まで手放すことになったナラ王。しかし、何もかもを失ったわけではない。ナラ王はダマヤンティ姫だけは賭けられなかった。ダマヤンティ姫もまた、国を離れて伴侶であるナラ王とともに生きようとした。比翼の鳥のような2人を見るに、本作が「美しいロマンス」と言われる所以はここにあると感じずにはいられない。
森を彷徨う2人だが、ダマヤンティ姫が疲れて眠っているあいだに、ナラ王は姫の着物の片袖を抱いてひとりで去ってしまう。平安時代という世界観と袖を持ち去るという行為に、それぞれが「袖を濡らす」ような時の訪れを感じさせる。
離れ離れとなったナラ王とダマヤンティ姫は、それぞれ能力を買われ、使用人としての日々を送る。それぞれの旅路においては、キャラバンのラクダや馬、へびなどの動物の表現にも注目されたい。鼻と牙だけで表現することでその大きさを観客の想像力に任せる工夫にも、具体と抽象の妙を感じられる。
危機を乗り越えて父親の治める国へ還ったダマヤンティ姫は、再会を願って「婿選び式」開催の通達を出す。この報道のシーンでは、「東京駅前からお送りしました」など今回の公演ならではの台詞も。その後も、名物土産である「東京ばな奈」への言及もあり、場所性が強いアレンジが随所に見られた。
「婿選び式」の開催を知ったナラ王は、馬を走らせて姫のもとへ向かう。クライマックスの訪れを感じつつも、ナラ王が面をつけ使用人として身をやつしているため、ダマヤンティ姫はすぐにそれと気づかない。
離れているあいだに片袖を預けるかたちになったダマヤンティ姫に目を向ければ、衣裳(高橋佳代)の力を強く感じることだろう。片腕をあらわにした姫の姿は、そのアシンメトリーな印象も相まって、サリーなどインドの衣服を彷彿とさせる。情緒的な作用もありながら、古代インドと平安時代の日本という2つの背景を、視覚的に訴える効果もあった。
ダマヤンティ姫が「あの男はナラ王だ」と確信するのは、使用人としてナラ王が調理した肉を味わった後のこと。そんなユーモアさえ感じさせる展開には、ハッピーエンドへの期待が膨らむ。
まもなく悪魔の呪いも解けるのだが、この悪魔・カリが始終憎めないキャラクターであることが、本作に悲劇性を付与しすぎないでいるようだ。公演当日も、カリのトークに合わせて、どこからともなく手拍子が起こっていた。そんな客席に目を向ければ、要予約で有料の椅子席、要予約で無料の座布団席、予約不要で無料の立ち見席と、複数の席種を設置することで多様な層の観客を動員していたことにも気づく。
鳥が飛びたち、風が吹くたびに、舞台上の世界との接続が強まる。観客をも巻き込み、冒頭のシーンよりも強い一体感に包まれ、その状態で物語は「ナラ王とダマヤンティ姫が再び結ばれる」という、待望のラストへと向かった。
本公演に寄せて、演出の宮城聰は次のようにコメントを寄せている。
東京の人にとって、東京駅はもはや「あって当たり前」のものになってしまったと思うのですが、しかしあれが大正三年に落成したときには、当時の人々にとってとんでもない異物であったろうと思います。そんな異物を人々が喜んで受け入れたのは、そのときの日本が一種の「お祭り騒ぎ」の渦中にあったゆえでしょう。その「お祭り騒ぎ」の内実には注意が必要ですが、そのときの人々の興奮の理由に「日本の前近代と、近代の出会い」という火花があったことは間違いないと思います。
東京には、こうした「前近代と近代の化学反応」が、目に見えるかたちで残っている場所がいくつもあり、そこを再発見してゆくことは世界の人々にとって興味深い体験に違いないと思います。
「あって当たり前」になっていた東京駅の「異物性」が、まさに「異文化の出会いの化学反応」をテーマとした我々の『マハーバーラタ』の上演という触媒によって、ぐっと浮上してきたのではないか、そういう体験を皆さんに提供できたのではないか、といま感じています。
終演後、本作の世界観は踊りや静止状態でハッと息を呑ませる演者の身体と肉声、そして観客と祝祭のムードを共有する音楽(棚川寛子)によって確固たるものとなっていたことを再認識させられた。祝祭にはじまり、祝祭に終わる。続いていく観客の生活の温度を高めてしまう、そんな魔力を持った舞台が存在したのだ。