2016年に「規制」をテーマにした展覧会「キセイノセイキ」を東京都現代美術館との協働企画で実施した、芸術支援の新しい可能性を模索するアーティストのコレクティブ「アーティスツ・ギルド」が9月5日、あいちトリエンナーレ2019の一企画である「表現の不自由展・その後」の展示中止に対し、声明文を発表した(全文は本記事末尾に掲載)。
「『表現の不自由展・その後』の閉鎖に対する声明。そして、その前とこれから」と題されたこの声明文では、「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれたことに対し、次のように抗議。脅迫などの背景にあると思われる歴史修正主義などについても批判している。「威嚇や脅迫、政治家の不当な介入に対し強く抗議します。そして政治的圧力、脅迫、リスク管理、配慮、自己規制などによって織りなされるこの巧妙な検閲の共犯関係に対し強く抗議します。また、差別を煽り、歴史を否定する人々の態度を強く批判します。排外主義、女性蔑視、歴史修正主義を看過することはできません」。
また日本が⾃由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)の締約国であることに触れ、日本政府に対して同トリエンナーレ全体の安全保障と、表現の自由を守るための具体的な措置を講じることを求めている。
「表現の不自由展・その後」は、過去になんらかの理由によって検閲等を受けた作品を集めた企画だったが、その検閲の歴史については「その繰り返しと諦めによって、検閲や抑圧は内面化され、アートに携わる者自身が、不自由な表現のプラットホームに加担してきました」としており、アーティストの責任にも言及。声明文には「ここまで露になった危機的な状況においてさえ、アートに携わる者が何も成しえないならば、この後数十年に渡って強固な不自由な場を未来に残すことになるでしょう」という一文もあり、アーティストたちが抱く危機感を強く訴えかけるものとなっている。
なお、同トリエンナーレについては、ICOM(国際博物館会議)の提携組織であるCIMAM(国際美術館会議)や国内の芸術祭「引込線」、美術評論家連盟など美術に関係する団体からも声明文が相次いで発表されている。
「表現の不自由展・その後」の閉鎖に対する声明。そして、その前とこれから あいちトリエンナーレ2019において、これまで国内の美術館から不当に撤去されるなどした作品を集めたセクション『表現の不自由展・その後』が、政治家の不当な介入や匿名の脅迫行為の対象となりました。それを受けて主催者は、トリエンナーレ全体の安全な運営を理由に、同展示を閉鎖しました。 私たちアーティスツ・ギルドは、アートのプラットホームを探求するコレクティブとして、そして個々のアーティストとして今回の事態を表現の自由を脅かし、市民の言論全般をも蝕む危機であると考え深刻な懸念を表明します。私たちは威嚇や脅迫、政治家の不当な介入に対し強く抗議します。そして政治的圧力、脅迫、リスク管理、配慮、自己規制などによって織りなされるこの巧妙な検閲の共犯関係に対し強く抗議します。また、差別を煽り、歴史を否定する人々の態度を強く批判します。排外主義、女性蔑視、歴史修正主義を看過することはできません。 展示作家の権利と表現の自由を守ることはあいちトリエンナーレの責務です。また、⾃由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)の締約国である日本政府には「表現の自由についての権利を行使する人々を封じることを目的とした攻撃に対し有効な措置を講じなければならない」と課されています。したがって日本政府には、脅迫や攻撃に対してあいちトリエンナーレ全体の安全を保障し、表現の自由を守るために具体的な措置を講じる責任があります。しかしながら閉鎖から1ヶ月経った現在も展示は閉鎖されたままです。政府には、関係各所の安全を確保するために必要な具体的措置をただちに取ることを求めます。そして、あいちトリエンナーレ実行委員会には、『表現の不自由展・その後』の展示を迅速に再開することを求めます。 ・・・ 〈表現の不自由展・その後〉が示すことは、今回の事態以前にもこの国で多くの検閲的な介入がなされてきたということです。そして同展示に展示されたものは氷山の一角に過ぎず、表に現れない検閲や抑圧によって隠され、潰されてきたものが膨大にあることを私たちは知っている筈です。その繰り返しと諦めによって、検閲や抑圧は内面化され、アートに携わる者自身が、不自由な表現のプラットホームに加担してきました。「その後」が示すものの発端は「その前」にあります。今ある困難な状況は、外的な検閲や抑圧と共に積み重ねられた自己規制、相互抑圧、萎縮、怠慢が織りなす私たち自身によるネガティブな造形物です。 アートは、表現の自由の庇護を享受するだけでなく、その理念を歪め、蔑ろにしようとする者から表現の自由を守り、後退された状況を打開するためにある筈です。ここまで露になった危機的な状況においてさえ、アートに携わる者が何も成しえないならば、この後数十年に渡って強固な不自由な場を未来に残すことになるでしょう。私たちアーティストが配慮すべきは、「政治家」の都合や「市民」の好き嫌いではなく、そういった都合や好悪によって虐げられ、排斥されるものに対してです。 利便性や政治的手管によって「政治」「経済」「科学」「芸術」などと役割分担のように並べ分けられることに身を任せることは、アーティストにとって檻に入るのと一緒です。そういった図式に囚われず、社会と世界の複雑さと難しさに向合わなければ、アーティストの表現活動は骨抜きになってしまいます。アーティストが取り組む対象は、草木や石ころ、ゴミ屑にはじまり、生活の全て、「経済」が囲い込むものも、「政治」が囲い込むものも、貧困の問題、ジェンダーの問題、ネーションの問題、言語化され囲われるもの、言語化できず排除されるもの、世界の全てなのです。 だから、私、私たちは、個々の異なる声や行動によって、作品によって、ほかの私、私たちとの連帯によって、この事態に取り組みます。これはあいちトリエンナーレだけの問題ではありません。私たちが向き合い続け、これからも取り組むべき課題の一端です。私たちもまた当事者なのです。 私たちは、社会や世界の複雑さ、難しさと共にある活動を決して諦めません。 2019年9月5日 アーティスツ・ギルド http://artists-guild.net/