東西を超え、自分自身の言葉を探して。王衍成が語る、自由、身体、そして作品の「永生」【2/3ページ】

東西を超えて、普遍性へ

──ザオ・ウーキーをはじめ、東洋出身の現代アーティストは、西洋中心的なアートワールドのなかで「東洋的な」表現を期待されることへの葛藤を抱えてきたように思います。王さんは、そうしたステレオタイプや東西という枠組みと、どのように向き合ってきたのでしょうか?

王 私はパリで37年間生活してきましたが、パリから受けたもっとも大きな恩恵は、自由でいられることだったと思います。自由な環境は人をより誠実にしてくれる。様々な束縛を解いたとき、その人が本来持っているオリジナリティや、もっとも自然な姿が見えてくるのです。

 ですから、私はじつは「東洋」と「西洋」をどう融合させるかということを、それほど意識してきませんでした。中国出身の作家だから東洋的な記号を見せなければならない、あるいは東洋と西洋をひとつに統合しなければならない、という考え方そのものに縛られたくない。むしろ、そうした枠を外したときに残る本当の自分とはなんなのか。それを考えてきました。

王衍成《Untitled》(2026)ミクストメディア 76×56 cm

 もちろん、それは自分の文化的背景を捨てるという意味ではありません。何十年も絵を描き、色をつくり続けてきた経験は、すでに身体のなかに蓄積されています。いまでは色に触れれば、頭で考える以前に、色と自分の肉体とのあいだに反応が起こる。そこには長年培われた「身体の記憶」があります。だから、目の前の自然をもう一度そっくり描写するのではなく、自分の内部からもっとも直接的なものを現すことが重要だと思っています。

 制作では、そうした直感も大切にしています。例えば車が突然こちらへ向かってきたとき、避けるべきかと考えてから身体を動かすわけではない。身体は思考より先に反応します。絵画でも、長い時間をかけて身体に蓄積された経験が、瞬間的に現れる感覚を大切にしています。

 私にとって重要なのは、「東洋的に見えるもの」を意図して描くことではありません。自分のなかに蓄積された様々な経験を、できるだけ自由な状態から、もっとも直接的なかたちで現すこと。それが自分に対して誠実であるということだと思っています。

──王さんが絵画のなかで創造しようとしているのは、「万物の核(コア)となるイメージ」、つまり時間や空間を超えた普遍的な何かであると理解しています。多様性や歴史性が重視される現在、普遍的なものを思い描くことは難しくなっているようにも感じます。王さんは、作品を通じてどのように普遍性へとアプローチしてきたのでしょうか?

王 美術の歴史は、ある時代に成立した「古典」を解放し、突破することで新しいものを生み出してきました。そして、そこで生まれた新しい表現も、時間が経てば再び古典となり、伝統になっていく。美術史はその繰り返しだったのではないかと思います。

 私自身も、何十年も絵を描き続けるなかで、何かを加えることより、様々なものを消化し、捨て、より単純にしていくことを考えるようになりました。それは、自分の外側にあるものを少しずつ手放していく過程です。

 とくに手放さなければならないのは、既成の概念や伝統に対する執着です。何かを絶対的な基準として握りしめてしまえば、人間の想像を超えて存在する自然の力に気づくことができなくなる。そうした執着から離れることで、むしろ自分自身の本質に近づき、自然や宇宙のより大きな力ともつながることができるのではないかと考えています。

王衍成《Untitled》(2026)ミクストメディア 76×56 cm

 仏教にも通じることですが、存在するものは固定されたひとつの姿にとどまらず、絶えず現れ、変化しています。それを言葉によって明確に固定しようとすればするほど、本来の存在から離れてしまうこともある。私が関心を持っているのは、肉眼で見える現象だけではなく、その背後にある生命のエネルギーと宇宙との関係です。

 いまはAIの時代でもありますが、だからこそ、目に見えない世界と人間がどのように関係するのかを考えることは、ますます重要になるのではないでしょうか。

 私にとって普遍性とは、あらかじめ存在するひとつの答えや形式を探すことではありません。外から与えられたものを捨て、自分をより単純で自由な状態にしていく。その先で、自分という個人を超えた自然や生命、宇宙の大きな力にどこまで近づくことができるのか。私は制作を通じて、そのことを問い続けています。

編集部

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