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2022.2.19

最初の緊急事態宣言下で発表されたインターネットアート。《隔離式濃厚接触室》資料化の意義を企画者・武澤里映に聞く

最初の緊急事態宣言下で発表された布施琳太郎の《隔離式濃厚接触室》(2020)。今回新たに制作された資料版が大阪大学総合学術博物館でお披露目となり、また国際日本文化研究センターに収蔵が決まった。ポストコロナの社会について様々に論じられてきた約2年後のいま、本作の資料版を制作する意義について、企画者の武澤里映に話を聞いた。

取材・構成=肥髙茉実

「資料版:隔離式濃厚接触室」展示風景 撮影=布施琳太郎
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伝承/医療/アート
表象の垣根をなくす試み

 「身体イメージの創造――感染症時代に考える伝承・医療・アート」は、感染症の時代に未来に向かって生きていくヒントを多角的に探る展覧会として、大阪大学総合学術博物館で開催された。本展は「疫病と医学」「身体を把握する」「身体への関心」「現代と未来の身体」の4章構成。

 天然痘の予防に種痘が有効であることを提唱した医師、エドワード・ジェンナーの直筆サイン入りの論考「牛痘の原因及び作用に関する研究-種痘法の発見」(1796)や、大阪大学が進める新型コロナウイルスのワクチン開発、そして解剖図や妖怪という表象にも触れながら、伝承・医療・アートと幅広い分野にかかわる様々な身体イメージがフラットに紹介されている。

 展覧会を締めくくる最終章「現代と未来の身体」では、医療の眼として『超音波診断装置』『認知症画像診断サンプル』や、性差を問い直す『29種類の性別記号』の資料群を紹介。これらと並び、唯一の現代アートとして展示されたのが、布施琳太郎による《隔離式濃厚接触室》(2020)の資料版だった。

「身体イメージの創造――感染症時代に考える伝承・医療・アート」展示風景 撮影=布施琳太郎
「身体イメージの創造――感染症時代に考える伝承・医療・アート」展示風景 撮影=武澤里映

 《隔離式濃厚接触室》は、2020年4月の最初の緊急事態宣言下で発表された、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とする作品だ。同作の発表から2年が経とうとしているいま、どのような経緯で資料版の制作に至ったのか。資料版の企画と制作補助を行った、同大学博士前期課程在籍中の武澤里映にそのプロセスと意義を聞いた。

武澤 本展全体の企画は、国際日本文化研究センター教授の安井眞奈美先生とローレンス・マルソー先生、大阪大学総合学術博物館講師の伊藤謙先生です。本展は「身体イメージの想像と展開」という国際日本文化研究センターの共同研究会の成果発表の機会でもあり、研究会を通じて主軸を考え、そこに胎児や妖怪の身体イメージをご研究されている安井先生が自らの成果を踏まえたうえで資料を提案し、同じく共同研究員の皆さんが資料を加えていく━こういった全体の構成については、私は傍らで見ながら学ばせていただきました。

 展覧会をつくるにあたって「現代と未来の身体」では、先生方と、ジェンダーに然りマイノリティの問題に然り、身体イメージをすでに与えられたものと見なすのではなく、いかに自ら獲得したり選択していくかを考えられる機会にしようとよく話していました。また展覧会の構成を考えるなかで「展覧会の最初と最後は自分が共感できるもの、そして各章ごとにひとつ象徴的なものを置くように選別する」という伊藤先生の言葉はすごく学びがあり、色々な作品を検討したうえで、展覧会を締めくくる象徴的な作品として《隔離式濃厚接触室》を選びました。

オリジナル版「隔離式濃厚接触室」の「展示風景」(2020年4月) 撮影=竹久直樹

他者性を経由して私の身体を実感する

 新型コロナウイルス感染拡大に反応したアーティストは多く、とくに正式に身体が拘束され、無条件の忍耐を強いられる「緊急事態宣言」への制度批判的な作品には様々な性格のものが見られた。コロナ禍で対人距離が離され、簡単に身体的に孤独を獲得できるようになった一方で、ネット空間で得づらい孤独を可能にしたのが、布施の《隔離式濃厚接触室》だった。武澤は同作について次のように読み解く。

武澤 緊急事態宣言下で制度批判的な作品も多く発表されたなかで、《隔離式濃厚接触室》は比較的その要素が薄いと感じました。実空間での孤独へのカウンターとして、という対立構造だけではとらえきれない余剰が、アクセスした先の水沢なおさんの詩と布施さんの作品で表現されている。むしろ布施さん独自の「新しい孤独」というコンセプトに寄った作品だととらえています。

 また今回布施さんの作品を身体イメージの文脈から考えるにあたって参考にしたのが、ゲイル・サラモン『身体を引き受ける:トランスジェンダーと物質性のレトリック』(2010、邦訳2019)と、カジャ・シルバーマンの『The Threshold of the Visible World』(1996)でした。この2冊に共通しているのは、社会的に構築される身体のあり方と、自分自身の生の身体という二項対立があったとして、身体はその二項対立のどちらかでもなく、社会と絡み合った身体イメージを経由して獲得されていくという射程の広い解釈です。

 そしてカジャ・シルバーマンが文中で取り上げているのが、アンリ・ワロンという心理学者の鏡像段階に対する研究です。例えば子供は鏡に映る自分の身体イメージを見て他人と認識し、名前を呼ばれたときに生の自分ではなく、鏡に映る他者性の強い身体イメージのほうを見ることがあるそうです。このように他者性を経由する身体イメージは、ありのままを見つめるボディポジティブと、社会における身体を変えていこうという間にあるものとして私自身も実感を持てています。でも他者性を経由して身体を実感することは、ある程度特殊な環境に身を置かないとできないことであり、私にとっては《隔離式濃厚接触室》を経験したときがそうだったのかな……と。布施さんの作品のなかで得られるひとりだけの解釈や経験、「新しい孤独」といったものを、他者性を持ち続ける身体イメージと出会う経験としてとらえられると考えました。

「原料状態の孤独を、この(その)親指の腐敗へと特殊化する」(BLOCK HOUSE、2019)の展示風景

ウェブページに依存するアートを
いかに矮小化せず展示可能にするか

 90年代以降メディアアートが盛り上がりを見せ、それに伴うハプニング形式の作品も増えるなど多様性きわまる裏で、美術館は保存という難題に直面し続けている。そもそもデバイスやバージョンに依存するメディアアートは長期保存に向いているとは言えず、布施の《隔離式濃厚接触室》もその例に漏れない。武澤はその問題意識から、大学では芸術作品の保存を研究分野とし、この春から学芸員の道に進み実践を続けていくという。

武澤 普段私は、ハプニングという表現形式を始めたアメリカの芸術家、アラン・カプローを研究しています。カプローが行ったゲリラパフォーマンスやインスタレーションを、どのように記録し残していけるのかという部分に強い関心があります。私が学芸員という道を選んだのも、芸術作品がどのように保存され美術史が語られていくべきかを考えたとき、その作業の最前線と言える仕事だったからです。

 《隔離式濃厚接触室》の資料版の制作が決まったのは、布施さんと打ち合わせを何度も重ねたうえでのことでした。同作の再制作あるいは新作をご提供いただくといったことも、企画段階ではぼんやりと考えましたが、最初の緊急事態宣言が発出された瞬間に発表された作品と、すでにポストコロナの社会が様々に論じられた2年後のいま再制作する作品では、身体イメージは異なってくるように感じました。しかし実作品を展示することは、布施さんのコンセプト的にも現実的にもできない。そういったあらゆる議論を経て、資料版の制作に至りました。

 インターネットアートやオンラインの展覧会はこのコロナ禍で拡大しましたが、メディアに依存するアートは、ガラケーからスマートフォンといったデバイスの進化、そしてそのインターネットのバージョンアップといった、作品の外の部分で簡単にアクセスできなくなってしまう。それは私が常日頃から恐れていることでした。そんな私の研究関心と布施さんの意向が重なって出来上がった資料版は、鑑賞風景を映した映像と映像再生装置が、水沢なおさんの詩やステイトメントも全部含まれたプログラミングコードのコピーと一緒に一つの箱に入る構成になっています。今回、布施さんの作品を身体イメージの文脈でとらえられただけではなく、作品をどのように残すかという部分を企画から一緒に考えられたことが有意義でした。

隔離式濃厚接触室 メインビジュアル

強引に持続されてしまう社会への「抵抗」

 武澤は、資料版の制作にあたって布施にインタビューを行ったという。印象的なやりとりのひとつに、布施がアーティストとして考える「抵抗」のあり方についての話を教えてくれた。

武澤 布施さんは《隔離式濃厚接触室》について、「抵抗」という言葉を象徴的に使いながら語られています。私がどうして「抵抗」という表現を選んだのか質問すると、布施さん曰く、電気抵抗が流れる電流を減らし自身が熱を持つように、抵抗を「既にある社会のシステムの中で、何かを遅延させる効果を持ったもの」と。「抵抗」を、どうしても持続していく社会への働きかけと考えていることを教えていただきました。

 《隔離式濃厚接触室》は、バーチャルツアーのような体験を批判する論調でありながら、それをオンラインで実施するという両義的な性質を持っているように感じます。論点の比重は異なれど、布施さんの作品は《隔離式濃厚接触室》にかぎらず、批判対象を土壌に表現を展開させていることが多い。布施さんは「新しい孤独」において、iPhoneによって触覚的変質が起き、社会や個人の対象や体験が組み替えられ、それが新しい貧困を生み出していることに言及しながら、「新しい孤独」を実現するときにはiPhoneを中心とした表現を多くしています。オンラインで得られる経験を、非常に内面化したうえで絶妙な立ち位置を取っているアーティストなのではないでしょうか。

 《隔離式濃厚接触室》では、アクセスできなかった鑑賞者は、画面にアクセスできた人の身体も何もわからず、ただその人が《隔離式濃厚接触室》に入っているということだけがわかる状況にいます。資料版では、アクセスできた人の鑑賞経験に加えて「ひとりずつしかアクセスできない」ことがどんなものであったか、操作する身体がいないスマートフォンが映ることによって示しています。具体的な身体が描かれないことで、アクセスできなかった人の抱くあらゆる想像された身体を含みうる。「身体イメージの創造」という展覧会の最後に、現代と未来の身体のあり方の可能性をひらく作品です。

 現代美術の記録として保存されると同時に、身体イメージという文脈で日文研が所蔵する資料群に連なるものとして位置付けることができたのではないでしょうか。そういう意味でも日文研に収蔵していただけたことは非常に嬉しいです。

「身体イメージの創造――感染症時代に考える伝承・医療・アート」展示風景 撮影=布施琳太郎

 現在は、オンラインで自由に閲覧できるヴァーチャル・ミュージアムを公開中。いまだ長引くコロナ禍で新たに制作された資料版は、もちろん当時《隔離式濃厚接触室》にアクセスできなかった人も、できた人も、誰でも見ることができる。