INSIGHT - 2019.5.10

第16回芸術評論募集
【佳作】布施琳太郎「新しい孤独」

『美術手帖』創刊70周年を記念して開催された「第16回芸術評論募集」。椹木野衣、清水穣、星野太の三氏による選考の結果、次席にウールズィー・ジェレミー、北澤周也、佳作に大岩雄典、沖啓介、はがみちこ、布施琳太郎が選出された(第一席は該当なし)。ここでは、佳作に選ばれた布施琳太郎「新しい孤独」をお届けする。

アマリア・ウルマンのプロジェクト「Privilege」(2016年2月23日のインスタグラム投稿より)

0 主体なき時代の芸術にむけて

 今日の社会において人間から失われたのは孤独である。差異や体系といったものが全面的に破綻し、すべてが幻想のなかで触覚に一元化された。終わりなき日常の一部となった突然のカタストロフィ。わかりやすいだけの物語に傾倒していく大衆。そして主体の消去。こうして自分が自分に話しかける時間――孤独は失われた。新しい貧しさのなかで身体だけが浮遊している。

 社会を組織すると同時に、永遠に汲み尽くせないような魅力を持っていて、その時代の世界認識を表象にするような事物。それはかつて芸術と呼ばれていた。しかし今日の社会においてその役割を担っているのは「iPhone」である。遥か未来の人間が歴史を記述する際に――ここ数百年ほどの人類が「芸術」と呼んできたものの位置は――「iPhone」に与えられるだろう。これがこのテキストが徹底的に「iPhone」を分析する理由だ。

 だが僕は「iPhone」こそが素晴らしい芸術作品だと考えているわけではない。むしろ「iPhone」という芸術的装置をいかにして乗り越えることができるのかを僕は考えたいと思っている。このテキストによって芸術というものが社会に対してどれだけ大きな影響力を持っているか、そしてその影響を看過して来たために人間にとってどれだけ大きな損害が発生しているのかを、確かめることができたらと思う。
 

社会論――消去された主体とミュージアムの解体
1-1 幻想の触覚

かつて一、二世紀前のこと――芸術が美術館へと追いやられたとき、その追放を達成したのは、ひとつの禁止であった――「作品にお手を触れないでください」。

ヴィクトル・I・ストイキツァ『ピュグマリオン効果――シミュラークルの歴史人類学』松原知生訳、ありな書房、2006

あなたは音楽に触れることができるようになったのです

スティーブ・ジョブス、
2007年のiPhone発表のプレゼンテーションから

 まず確認するのは「iPhone」についてだ。それは2007年にアップル社が発表/発売した携帯型の情報端末である。「iPhone」に搭載された複数の指でタッチ可能なスクリーンは、過去のふたつの「革命」に続くものであるとして、当時のCEOであるスティーブ・ジョブスによってプレゼンテーションされた。

 第1の革命は「Lisa」というパーソナル・コンピュータにおけるふたつのインターフェイス――「マウス」と「GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)」である。これらはプログラマーのアラン・ケイの思想と実践を下敷きに導入されものだ。そのコンセプトは「Doing with Images / makes Symbols(イメージの操作/シンボルの生成)」だと述べることができるだろう。これはケイ自身が掲げた有名なスローガンに、研究者の水野勝仁が複数の議論を整理するなかで、ひとつの「スラッシュ(/)」を付け加えたものだ(*1)。この整理は「Lisa」以降のパーソナル・コンピュータにおけるGUIの「二層構造」を端的に言い表している。つまり文字列によって構成されるプログラムをキーボードで書き換えること(シンボルの生成)と、プログラムをアイコンやウィンドウとして画面上に表示してマウスで触れること(イメージの操作)の二層構造である。マウスとGUIを組み合わせた直感的な操作によって――専門的な知識を持っていないと操作できなかったそれまでのコンピュータと異なり――「Lisa」は一般の個人による操作を可能にした。

Lisa 出典=ウィキメディア・コモンズ

 アラン・ケイはインターフェイスによってユーザーのなかに構築されるのは「物語/神話 (myth)=ユーザー・イリュージョン」だと述べている(*2)。神話とは社会を組織する幻想だ。そして大衆のなかに神話を構築し社会化させるのは、近代までの西洋においては芸術の役割だった。例えば15世紀の画家ドメニコ・ギルランダイオによって描かれた《洗礼者聖ヨハネの生涯》という壁画には、窓枠のようなフレームによって区切られた複数のシーンによって、聖ヨハネの生涯が描き出されている。言い換えれば、この絵画では「目に見える断片的なシーン=イメージ」の連続によって、「見ることのできない聖ヨハネの生涯=シンボル」が描かれているのだ。大衆はこうした絵画=神話によって自分がどのような社会の一員であるのかを理解する。

 批評家の東浩紀は「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」において、「見えるもの(イメージ)」と「見えないもの(シンボル)」、その双方に同一化することによって――そしてその「ずれ」を認識することによって――人間の主体は成立すると記している。そこで東が着目するのは、GUIが採用されたパーソナル・コンピュータのスクリーンにおいては、イメージとシンボルが双方とも可視化されているという点である。つまりGUIにおける最も重要な機能のひとつである「重なり合う複数のウィンドウ」は「イメージの操作」と「シンボルの生成」というコンピュータ操作のふたつのモードをひとつの平面(=モニタ/スクリーン)の上に表示することを可能にしたのである。彼はその二重化された過視的な平面=スクリーンに依存するポストモダンの主体として「インターフェイス的主体」を定義した(*3)。

 今日の社会において芸術は鑑賞者のなかに神話や主体を構築しない。つまり社会を組織する現場は芸術からコンピュータへと移行したのである。以上のようなGUIとマウスによる操作によって構築されるユーザー・イリュージョン、新しい神話としての「二層構造」こそがアップル社による第1の革命である。

iPod classic 出典=ウィキメディア・コモンズ

 しかしジョブスが述べるところの第2の革命は少し異なるコンセプトによって駆動されている。その革命は「iPod」という音楽プレイヤーにおける「スクロールホイール」によるものだ。この新しいインターフェイスは、DJがレコードをスクラッチする以上に簡単に曲を巻き戻したり、早送りし、自分の音楽コレクションから好みのアルバムを選択し、音量を調節し、美しいアルバムワークを眺めることを可能にする。しかし「iPod」には「シンボルの生成」、つまりプログラムの書き換えをする機能がない。これは「iPhone」に重大な影響をもたらした。

 そして2007年、第3の革命である「iPhone」が発表される。「Lisa」におけるGUIとマウス――つまり「イメージの操作/シンボルの生成」の二層構造――は、「iPod」を介すことで変奏され、「iPhone」にスライドされる。それはラディカルな変化だ。つまりインターフェイス的主体を構築する「イメージの操作/シンボルの生成」という二層構造、神話が取り除かれたのである。では「iPhone」のコンセプトとは何か? それは今日の研究者や批評家の整理とは異なる。

僕はバッハが好きでよく聞いてたんだけど、突然、麦畑がバッハを奏で始めたんだ。あんな素晴らしい経験ははじめてだった。麦畑のバッハで、指揮者になった気分だったよ。

ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブス』
講談社、2011

 これは彼が17歳のとき、LSDという幻覚剤を飲んだ際に体験した幻想についての記述だ。ここには大きなヒントがある。つまり彼が体験した指揮者の身体とは、その指先の動きによって、オーケストラのテンポやメロディを触覚的に操作する身体である。しかし指揮者として麦畑で音楽と対峙するとき、そこにはマウスやスクロールホイール、複数の重なり合うウィンドウといった、対象との関係を間接化させるものは存在しない。目を閉じても続くようなトランス状態において「見えるもの」と「見えないもの」の、イメージとシンボルの「ずれ」は忘れ去られる。つまり「Lisa」や「iPod」は十分ではないのだ。LSDの体験における「幻想の触覚」を実装することを夢見ていたからこそ、彼は「iPhone」のプレゼンテーションで「あなたは音楽に触れることができるようになったのです」などと言ったのである。

 つまり「iPhone」は「イメージの操作/シンボルの生成」というアラン・ケイを起源に持つGUIやパーソナル・コンピュータの基本コンセプトから離れ、その操作を、対象を直接操作するような「幻想の触覚」に一元化した。その実現のためにマウスやトラックホイールをはじめとした物理的な入力装置、GUIの大きな特徴である重なり合う複数のウィンドウ、そしてプラスチックで固定されたキーボードなどは排除されたのである。そして「iPhone」はイメージとシンボルの二層構造を排除しながら、巨大なタッチスクリーンを採用する。「iPhone」のユーザーは、麦畑でLSDを摂取したジョブスと同じように、「幻想の触覚」によって対象を直接操作するのである。

 そして「幻想の触覚」は、それが幻想であるが故に、「iPhone」がミュージアムに対するテロリズムの装置になったことさえも意味する。たしかにミュージアムは西洋近代以降の社会の形成において重要な位置を占めてきた。そこに置かれた芸術作品は、大衆の価値観を形成したり、それぞれの国家のイデオロギーを流通させるのに役立った。そしてミュージアムに掲示された「お手を触れないでください」という言明は――つまり対象から距離を取ることこそが――芸術作品を日常的な事物から分離し、特別の位置を与えてきた。これはミュージアムに追放された後の芸術に残された最後のアウラ――鑑賞者のなかに神話を構築するための契機である。

 しかし今日の大衆はミュージアムにおいて芸術作品から距離を取らない。人々は「iPhone」を握りしめてミュージアムに入る。つまりまず「iPhone」の高画質なカメラを構えて、目の前の芸術作品を画面上に表示する。そして二本の指でピンチイン/アウトした上で構図を決めて撮影し、様々なアプリケーションによって加工し、スワイプによってカメラロール(クローズドな自分用写真コレクション)を巡回し、最終的には自身のアイデンティティのためのミュージアムであるところのタイムライン(SNSにおけるパーソナルスペース)に共有=再展示するのだ。「幻想の触覚」は「触ることができない」という言明によって保たれていた芸術作品のアウラを完全に消去した。「Lisa」から「iPod」「iPhone」へと至るなかで完成された「幻想の触覚」は、近代までの西洋において芸術が有していた社会を組織する機能を解体してしまったのである。

 そして「幻想の触覚」によるミュージアムの解体の後に訪れるのは、ポストモダンの、インターフェイス的主体ではない。「iPhone」の画面はイメージとシンボルの二層構造を持たない。「見えるもの」と「見えないもの」の二重性は、その「ずれ」は、世界を直接操作するような「幻想の触覚」によって一元化され、消去される。「iPhone」はミュージアムと同時に、二層構造の神話――それによる主体の成立――をも解体したのだ。東の論理に従うならば「ずれ」の消去は、主体の消去と同義であるのだから。つまり「iPhone」の発売以降の10年とは「主体の消去」によって特徴付けることのできる時代なのだ。

 現代において主体は存在しない。パーソナル・コンピュータのGUIにおいて「見えるもの=イメージ」と「見えないもの=シンボル」をはじめとした二項対立は、二重性へと変奏され、生き残ることができた。しかし「iPhone」が普及して以降の社会においては「幻想の触覚」によってすべての差異が消去される。すべてがないまぜにされるなかで、孤独な時間もまた、失われた。主体の成立は挫折し続け、ただ身体だけが浮遊している。

1-2 モジュラーとしての身体

 ここまでの議論ではパーソナル・コンピュータのGUIの基本コンセプトである「イメージの操作/シンボルの生成」という二層構造が、「iPhone」においては「幻想の触覚」に一元化されていることを確認した。そしてそれは神話の構築を不可能にし、主体を消去する。しかし主体が消去されたからといって人間が消滅するわけではない。この節では、「iPhone」の普及とパラレルに発生したふたつの文化の記述によって、主体の消去に対応して出現した新しい身体性について述べていく。

 まずひとつ目は新しいマイルドなギーク・カルチャーである。それは「Aruduino」や「Raspbery Pi」といった小さくて安価なコンピュータの発売と、「Github」をはじめとしたソフトウェア開発のためのプラットフォーム・サイトによって準備された。ちなみにいま挙げた機器やプラットフォームは、2007年の「iPhone」の発売を挟んで、2005年から2012年にかけて誕生したものである。

Aruduino 出典=ウィキメディア・コモンズ
Raspbery Pi 出典=ウィキメディア・コモンズ

 「Github」では、様々な用途で使用可能なプログラムのコードを「ライブラリ」と呼ばれるプログラムコードのパッケージセットとして共有することができる。相互に、自由に、編集したり使用することを許可するプログラムコードに対する道徳的な理念は「オープン・ソース」と呼ばれ、インターネット黎明期から存在していた。しかし数千円で購入できる「Arudino」や「Raspberry Pi」などのマイコンを用いることで、配布されたプログラムコードやライブラリを簡単に実行できることや、「Github」という利用しやすいプラットフォームが整備されたことは大きな変化である。それは結果として「IoT(Internet of Things=モノたちのインターネット)」という動向を支える下部構造となるだけでなく、様々な教育機関の授業にプログラミングを導入させる契機にもなった。そしてアーティストたちはインスタントなメディアアートの制作のためにこれらを使用している。

 「Arudino」や「Raspberry Pi」などを、有用な機能を持ったシステムとして――製品や作品として――構築するには、複数の「モジュール」の組み合わせが求められる。モジュールとは工学的な設計で用いられる交換可能な部品のことで、「カメラモジュール」「GPSモジュール」「赤外線センサモジュール」など、様々なものがある。それらは基盤やレンズ、撮像素子、トランジスタ、電気抵抗などが組み合わされることでまとまりのある機能を持った部品――しかしそれだけでは使用できないもの――だ。実際の使用における例を挙げるなら、まず「カメラモジュール」と「GPSモジュール」を「Raspberry Pi」というマイコンに接続し、そこに「Github」で共有されたプログラムコードを書き加えることで「地球上の特定の場所に立った際に自動的にシャッターを切るカメラ」を設計することができる。

 これらのモジュールは簡単に交換することができるので、より性能の良い「カメラモジュール」と差し替えたり、「GPSモジュール」を「赤外線センサモジュール」に差し替えてプログラムコードを少し書き換えることで「特定の距離に人がいるときに自動的にシャッターを切るカメラ」として設計し直すこともできる。そしてこのようにモジュールの組み合わせによって設計されたシステム的な全体――製品や作品――は「モジュラー」と呼ばれる。

 これがモジュールを用いた設計であり、ここまで簡単なトライアンドエラーが可能になったのはこの10年の変化だ。ここ述べられた「簡単さ」は設計における触覚性に由来している。設計者はインターネットに公開されたプログラムコードのコピー&ペーストと、秋葉原で購入した様々なモジュールを触覚的に組み合わせる。このモジュールの操作は、触覚性に依拠していることからも明らかなように「iPhone」における「幻想の触覚」のパラレルなバリエーションだ。モジュールによるモジュラーの構築において「イメージ(製品や作品の動作)」と「シンボル(プログラミングや工学的設計)」は、触覚に一元化される。そこでは実際にプログラムコードをゼロから書く技術がなくとも、アイデアをかたちにすることができるのだ。

 こうした触覚的な設計は、「iPhone」と同時期にローンチされた様々な共有サービスが相互に利用されることで――「Github」に共有されたコードの使用方法がYouTubeなどで紹介され、さらにTwitterで宣伝されることなどによって――加速的に活性化し、ひとつの文化的なシーンとなっている。

Vtuber「のらきゃっと」の動画配信の様子

 ふたつ目に紹介する文化は「Vtuber(ヴァーチャル・ユーチューバー)」である。それはインターネット上の様々な共有サービスで動画などのコンテンツの配信を行う3Dあるいは2Dのキャラクターだ。「Vtuber」におけるキャラクターやコンテンツの制作者は、企業の場合もあるが、個人の場合も多い。そのコンテンツは、主に3DCGで造形されたキャラクターに対して制作者が様々な方法で動きを加え、それを記録・編集し、音声を当てることで制作される。その成果物は最終的には主に映像表現のかたちを取り、YouTubeやTwitterなどの共有サービスを介して共有される。ここでは「Vtuber」の身体の生成プロセスに絞って説明していくことにしたい。

 まず用意されるのは3DCGのキャラクターのモデル=素体だ(2Dの「Vtuber」も存在するがここでは3DCGを例にとる)。それは個人で制作されることもあれば、インターネットに公開されたモデルを用いたり、公開されたモデルを部分的に改変することで準備される。そのモデル=キャラクターを動かす際には、カメラや赤外線センサー、ジャイロ(傾き)センサーなどを用いて制作者自身の物理的な身体の動作をコンピュータに取り込み、その動きをスクリーン上のモデルに適応する。必要に応じて自身の声をボイス・チェンジャーの機能を持ったソフトウェアによって調整し、架空のキャラクターに合わせた言葉遣い、振る舞いをする。そしてそれらの素材を編集し、構成することでひとつのコンテンツが完成する。

 それはスクリーンの上の身体――つまり「Vtuber」の身体――への変身である。このプロセスはモジュールの触覚的な組み合わせによって設計されたモジュラーと相似の関係にある。つまりそのキャラクター身体の生成と変身のプロセスにおいて、3DCGのキャラクターのモデルの顔や体形、表情――そして赤外線センサー、カメラ、ボイス・チェンジャー、映像エフェクト――などの複数の構成要素は「モジュール(=交換可能な部品)」として機能しているのだ。

 「Vtuber」においても、「イメージ=キャラクター」と「シンボル=様々な技術」は、触覚的で交換可能な単位(=モジュール)の組み合わせに一元化されることで触覚的に操作される。そしてそれらのモジュールはスクリーンの上にひとつの「モジュラーとしての身体」を構築するのだ。以上のように幻想のなかで触覚的に構築された「Vtuber」の身体――「モジュラーとしての身体」こそが、主体なき時代の身体性なのだ。

1-3 新しい貧しさ

 「幻想の触覚」は「Vtuber」において「モジュラーとしての身体」を構築する。それは主体なき時代の身体である。しかし「モジュラーとしての身体」は「Vtuber」に固有のものではない。むしろそれは今日最もありふれた身体性である。つまり「iPhone」を使用する限り人々の身体はモジュラーとして構成されるのだ。例えば「iPhone」で収集された情報群――チェーン店で提供されたパフェ、旅先で見た景色、自身の顔、恋人の指先、美術作品、政治家のマニフェスト、災害の様子など――は、それぞれの人間と結び付けられたタイムラインに集積される。

 ユーザーはタイムラインに配置された投稿を削除したり修正を加えて再投稿することを繰り返して、その見栄えをデザインする。その部品性において、タイムラインに並ぶ投稿はモジュールであり、タイムラインはモジュラーである。そして「iPhone」のスクリーンの上に、構築されたタイムラインこそが「モジュラーとしての身体」だ。それはとあるアーティストの実践によって理解することができるだろう。

 ここで紹介するのは1989年に生まれのアマリア・ウルマンという女性アーティストによるプロジェクト型のパフォーマンスだ。それはインスタグラム(*4)で2014年に行われた「Exellences and Perfections(卓越さと完璧)」である。このプロジェクトはインスタグラムの特徴である写真を中心にしたコミュニケーションによって、虚構の人格を構築することをコンセプトにしたパフォーマンスだ。このパフォーマンスについて、ファッションメディアの「SSENSE」は以下のように要約している。

4か月にわたって若い女性のさまざまな典型を演じてインスタグラムに投稿し続けたものだから、私自身も含めた多くのフォロワーは、ウルマンが「真剣なアーティスト」であることを止め、ありきたりのコースを辿り始めたのだと思った。つまり、若く、すらりとした、白人として通用する女性らしい外見を利用し、ブランド物、メイクアップ、整形手術、不良っぽい恋人、貢いでくれる中年男性、ヨガ、フィットネスを援用して、他力本願の権力、収入、注目を手っ取り早く手に入れようとしているのだと思った。

「ウルマンの虚構世界」、「SSENSE」(*5)

 しかし彼女はパフォーマンスの4ヶ月が経った後に、一連の投稿がフィクションであり、それが「ジェンダーと同じく見せかけの現実に過ぎなかったこと」を発表する。しかしインスタグラムでのパフォーマンス以前のウルマンは、写真や絵画、彫刻、文字といったホワイトキューブに伝統的に展示されてきたメディアを使用していたため、観客たちは大きく戸惑ったようである。このパフォーマンスの受容について、オンラインメディアの「RHIZOME」は「彼女の親しい友人たちはしばしば混乱していて、たとえ彼女がキーボードから離れてプロジェクトを説明しようとしても、ウルマンのソーシャルメディア(=インスタグラム)をフィクションとして現実から切り離すことができなかった」と説明している(*6)。

 以上のような「Excellences and Perfections」における一連の受容のされ方は、ソーシャルメディアにおけるタイムラインが、ユーザーであるそれぞれの人間そのものとして受け取られることを端的に示している。他者のタイムライン=モジュラーは、他者の身体/主体の混淆状態で受容されるのだ。しかしそもそも「iPhone」を使用する限り、使用者の主体は消去され続けている。つまり「iPhone」のスクリーンの上に構築されるタイムラインとは、主体なき時代の身体性である「モジュラーとしての身体」にほかならないのである。

 この作品に続いてインスタグラム上で発表されたのが「Privilege(権力)」というプロジェクトだ。これもまたインスタグラム上でのパフォーマンスである。この作品において何よりも特筆すべきなのは「Excellences and Perfections」によって「インスタグラムへの写真投稿」というパフォーマンスの形式は既知のものとなっているために、彼女の写真の一部が、インスタグラムに対する直接的な批評かつ表象になっている点である。

[図1]「Privilege」2016年1月14日の投稿
[図2]「Privilege」2016年2月23日の投稿

 [図1]と[図2]において、物理的には解体されていながらひとつの連続した身体として――日常の断片として――見えるように錯視的に構成された写真が「見せかけの現実」であるという事実は、僕がここまで説明してきた時代性の鏡として理解することができるだろう。つまり彼女は「モジュラーとしての身体=タイムライン=ユーザー」と、その構成要素としての「モジュール=個別の投稿」に、写真技術を用いて――物理的な身体の部分を交換可能な構成要素=モジュールとして扱うことで――介入したのだ。その試みは「モジュール=個別の投稿」を「モジュラー=ユーザーの身体」へと一時的に反転させる。彼女は個別の投稿のなかで「モジュラーとしての身体」を自己言及的に表象したのである。彼女が行った一連のパフォーマンスは、主体が消去された後の、主体から乖離した身体の浮遊を表現しているのだ。

 そして「モジュラーとしての身体」における、身体と主体の乖離は、未来の人間にとってはより大きな困難となるだろう。例えばゲノム編集やiPS細胞をはじめとした新しいテクノロジーによる人間のデザインと修復は、人間の解剖学的で生物学的な部分を実際にモジュールとして扱うことを可能にする。最終的に大衆は、スクリーンの上の身体ではなく、自分自身の物理的な身体そのものをモジュラーとして操作することを欲望することは想像に難くない。そこには主体と身体の乖離が発生する。あるいはベーシックインカムは、大衆の身体の生存を保証する代わりに、社会に階級差を内面化するだろう。そして画一的に保証される大衆の身体の生存は、主体の成立を阻害する。それらはここまで語ってきた「モジュラーとしての身体」における主体の消失のバリエーションである。

 身体だけが保証され、定義され、浮遊し、主体が消失する状況。こうして2016年のアメリカ大統領選挙に代表されるような、わかりやすいだけの物語=神話に大衆が傾倒することの理由もまた、明らかになる。それは近代への、主体ある時代への傾倒である。それは近代という主体ある時代への傾倒――つまり大衆が主体を失ったことの反動として現れたのだ。

 身体が危機的な状況に追いやられる過去の貧しさと異なり、主体が危機に晒されるような今日の状況を、僕は「新しい貧しさ」と名付ける。そして新しい貧しさは――主体なき時代の大衆は――近代への揺り戻しを続けるのだ。僕は「新しい貧しさ」に抵抗することができるのは新しい芸術であると考えている。なぜなら「新しい貧しさ」は社会を組織する新しい神話=芸術としての「iPhone」を起源に持つのだから。
 

抵抗論――触覚的な変質
2-1 抵抗としてのセルフィー

現在のクールな若者は、携帯を切り、家でリアリティ番組をストリーミングし、ベッドの上でセルフィーを投稿し、鬱と不安にまつわるミームをシェアする。家にいること自体がサブカルチャーになった。ひとりでいることに後ろめたさを感じないサブカルチャーだ。

「素晴らしきかな、引きこもり――徹底した寛ぎの勧め」、「SSENSE」

 1章の議論では「Lisa」から「iPod」「iPhone」に至る流れと、同時代の文化について整理した。そのなかで明らかになったのは「幻想の触覚」によって構築される「モジュラーとしての身体」と主体の消失――つまり身体と主体の乖離という「新しい貧しさ」である。しかしそもそも大衆は、主体の消去を手放しで受け入れ、抵抗もせずにたんに生き延びてきたのだろうか?

 そうではない。大衆は主体の消去に抗ってきた。それも自分の顔を自分自身の手で撮影するという方法で。つまりそれは「セルフィー(自撮り)」である。セルフィーとは「セルフポートレート」の略語、スラングであり、2013年にはオックスフォード辞典によって「今年の言葉」にも選ばれた。その際には1年前と比べてこの語の使用の回数が1万7000パーセント増えたということも報道された。その流行は2007年に発売された「iPhone」の表と裏、両面にカメラが付いていること。それがどこにいても常時インターネットへの接続が可能であること。そして様々なSNSの整備が十分に済んだことと密接に関係している。つまりセルフィーとは、たんなるカメラの流通ではなく、写真の共有=展示の気軽さによって生まれた文化なのだ。

 しかし多くの人が勘違いしているようだがセルフィーとはたんなるナルシシズムの発露ではない。それは今日の社会における最もラディカルな抵抗のひとつである。例えば、国連UHNCR協会(国連難民高等弁務官事務所)はシリア難民の移動の様子について「船上にはスマートフォンで自らの姿を写真におさめる人の姿があり、また島に上陸し、すぐさまwi-fiのネットワークを探す人の姿もおなじみの光景です」と記している。彼らが船上で自らの姿を写真に収める=セルフィーを撮るのは、家族や友人に自身の無事を伝えるだけでなく、難民申請を行う際の証明材料にさえなるからだという。彼らは自分自身の生存を証明するために、その存在の消失に抵抗するために、セルフィーを撮影しているのだ。

 さらに難民に限らず、自分で自分の姿を撮影するということは、本質的に何かへの抵抗である。先に確認したようにセルフィーとはセルフポートレイトの略語だ。その起源には1840年に撮影されたイポリット・バヤールの《溺死者に扮したセルフ・ポートレイト》という写真がある。歴史上初のセルフポートレートとされるこの写真は、自身の開発した写真術が政府に認められなかったことへの抗議として、溺死体を模して撮影されたものだ。確かにこの写真は、難民のセルフィーとは抵抗の対象が異なる。だが対象の違いはあれど、自分で自分を撮影するということが、本質的に何かへの抵抗として機能することを示すひとつの例であろう。

 そして先ほども述べたように、セルフィーとは「iPhone」の流通とSNSの整備による写真の共有=展示の気軽さが生んだ文化だ。SNSにおけるセルフィーはふたつの志向性を持っている。それは第1にナルシシズムの発露であり他のユーザーとの過剰接続を望むもの、第2に主体の消失への抵抗であり他のユーザーとの過剰接続を望まないものだ。マスメディアでは前者のセルフィーのほうが注目を浴びることが多いが、後者もまた難民に限らず、日本においても多くの人々によって実践されていることを無視してはいけない。それはSNSにおける「タグ(投稿の内容を示す目印)」の有無によって見分けることができる。

 2019年の1月の時点で、写真の共有を軸としたSNSであるインスタグラムには「#selfie」というタグが付けられた写真が4億枚近く投稿されている。そしてそれらの多くが、複数のアプリケーションで丁寧に色調が補正され、様々に彩られている。ここには自分が大衆に埋没することへの、その無名性への抵抗、つまりインスタグラマーと呼ばれる新しいタイプの芸能人になることを目指す意図が見て取れる。

 だがそれと同時に、インスタグラムをはじめとしたSNSには「#selfie」というタグが付けられていなければ、様々なアプリケーションによる画像加工も十分になされていないセルフィーも数多く存在する。ユーザーは、タグによって、SNS上にあるおびただしいほどの投稿を検索する。そしてパッと見て魅力的な投稿を指先でタップし、その投稿主のタイムラインにアクセスする。しかしタグのない写真を検索することはできない。

 ではなぜタグを付けずにほとんど無加工の自身の顔を投稿=展示するのか。それはナルシシズムの発露のためでも、不特定多数のユーザーと交流するためでもなく、自身の主体の消去への抵抗のためだ。タグのない無加工のセルフィーは――その剥き出しの身体は――「幻想の触覚」によって構築された「モジュラーとしての身体」に抵抗する。今日の社会における主体の消去に抵抗しているのは、こうしたセルフィーだ。

 自分による自分の撮影。薄暗い寝室で間接照明に照らされた顔を――あるいは一人きりの街角で斜光に照らされた自身の姿を、またあるいはラブホテルで相手がシャワーを浴びているときに部屋の鏡に映ったその裸体を――「iPhone」のカメラで撮影して、生のままでツイッターやインスタグラムに投稿するとき、彼、彼女は自分自身を定義し直す。つまりそれぞれの身体がたんに生きること、生き延びれてしまうことへの抵抗がそこにはあるのだ。

2-2 知らないを知る

 タグ付けのない無加工のセルフィーという抵抗についてより深く理解するために、ここでは最果タヒという詩人の詩の分析を行う。彼女は「iPhone」をはじめとしたスマートフォンが形成する現代社会のリアリティを高度に表象するだけでなく、その表現のメディアであると同時にこの国における近代化のメディアである「日本語」を丁寧に再―再構築しながら詩作を行う。つまり彼女の詩は「『幻想の触覚』によって解体されるミュージアムや芸術作品」という状況への抵抗のバリエーションとしても理解することができるのだ。

 ここでは彼女が2018年に出版した詩集『天国と、とてつもない暇』に所収された「白の残滓」という詩を取り上げる。それは以下の一節から始まる。

凍っていくように目が覚めたい。
光が白いのだから、それは冷たくあってほしい、
どこかで自分一人が暖かいのだと、信じていたくなる。

 1行目において想像されるのは、身体が「凍っていくように」冷たくなる様子――つまり死のイメージ――であると同時に、「目が覚めたい」という生への欲望の二重性である。続く2、3行目は、主語述語の関係による日常的な一文の終わりと同期して改行されながらも、それと同期しない奇妙な句読点が与えられている。しかしその形式的な特異性によって白い「光」という視覚情報と、「寒/暖」という皮膚感覚からもたらされる情報を、身体を介して、シームレスに接続することに成功しているのだ。このように日常的な二項対立をアンビバレントな二重性へと変奏し、一文に共存させる操作自体は、詩作においてとくに珍しいことではない。むしろ問題はそれがどのような意図と目的に基づいて選択されているかだ。それはこの詩の後半において明らかになる。以下、再び引用を行う。

真夏の部屋にはクーラーがついていて、
まぶしさと寒さがやっと釣り合う、
こんなふうに簡単に、天国を実現してしまって、
あとは行くところが地獄だけになってしまうのかなあ、
幸福な人はそう思うそうです。

 この長い一文によって、冒頭で「寒/暖」や「生/死」といった二項対立が二重性へと変奏された様子が、「天国/地獄」という異なるモチーフによって読者に刷り込み直される。これは後に続く、この詩において最も重要な一節のための準備である。

大丈夫、窓に近づくと蒸し暑く、私はガラスに手をつけて、
向こう側の私と、半分ずつ祈りを捧げている、
やわらかい体、だということを私は知らない、
硬質なつもりでこの時間をつきぬけようとしている、
その先にあるものが、新生児の私、また、やり直しの人生だとしても。

 ここで描写された「ガラスに手をつけて」という一節が「『iPhone』の画面に触れること」のメタファーであることは、最果タヒの読者にとっては自明である。なぜなら、彼女は自身のSNSに「iPhone」のメモ帳機能を用いて詩作を行う様子を繰り返し公開しているだけでなく、この詩の初出はインターネットへの投稿であるからだ。先の引用ではガラスのこちら側を「天国を実現し」た場所であり、向こう側を「地獄」であると述べている。そして「ガラス」の「向こう側」にも「私」がおり、「半分ずつ祈りを捧げている」。ここで彼女が使用する特異な句読点と改行がアクロバティックな機能をしていることが明らかになる。つまり日常的な文法に従うならば「向こう側の私と、半分ずつ祈りを捧げている、やわらかい体、だということを私は知らない」をひとつの組み立てられた文章として読むことができるだろう。しかしそれは改行によって阻害される。

 読者は句読点と改行、そして主述の関係という、3つの異なる文法的な意味の切断によって、日本語を日本語のままに読むことができなくなる。日本語からの疎外。そして三重の意味の切断に晒された読者の意識は「硬質なつもりでこの時間をつきぬけようとしている、」という言葉に至る。まるで意味の理解を諦めて日本語を――やわらかい身体を捨てて言葉という時間を――たんに目で追うことを勧められているかのようである。しかしこの長い一文はまだ終わらない。なぜならそこには読点が打たれているのだから。その後に続くのは「新生児の私、また、やり直しの人生だとしても。」という句点、文章の終わりである。ここでついに句読点においても、改行においても、ひとつの文章が終わりを迎える(そしてそれは再度始まり直すことを明示している)。

 以上のような複雑なプロセスは、形式的には主述や句読点、改行が分離しているという意味での「詩」――それは韻律によってではなく、文法によって非日常的な言語となっている――として展開される。

 この作品で最果タヒが表現したのは、生と死や視覚と触覚(=寒/暖)といった複数の二項対立を、ガラスのこちらと向こうに同時に存在できるような「やわらかい体」によって二重性へと変奏し――しかしそれ自体は「私が知らない」ことだ――それを「硬質」な体の「つもり」で「つきぬけようと」する様子である。これはGUIという「二層構造」とは異なるコンセプト、つまり「幻想の触覚」に基づいて設計された「iPhone」についての記述として理解することができる。

 つまり「ガラスのこちらと向こうに同時に存在する私」であるところの「やわらかい体」とは「ガラス=GUI」による二層構造に基づいたインターフェイス的主体である。しかし最果は、ガラスのこちらとそちらに同時に存在する「やわらかい体」を自身が持っていることを「知らない」のだと言う。そこでは「硬質な」体によって、その「ガラス」を、「この時間を」、「つきぬけようと」する。こうして「ガラス」はパーソナル・コンピュータにおける「GUI」から「iPhone」へと置き換えられる。彼女は、その「知らな」さによって、二層構造の後の「iPhone」の時代を定義する。我々はその「二層構造」を「知らない」のである。

 「やわらかい体」は、ガラスの、スクリーンの上に構築される身体だ。「ガラス=GUI」に畳み込まれた主体と客体、あるいはイメージとシンボルの二層構造。そこで人間はひとつの主体、インターフェイス的主体を獲得する。だがそのことを「私は知らない」。そして「新生児」に、「やり直しの人生」にいたらされるのである。ここには主体の消去に抵抗するヒントがある。つまりこの詩を介してここまでの議論を顧みると、それは「二層構造によるインターフェイス的主体を知らない」という問題に整理することができる。しかしたんに何かを「知らない」というのと、「知らない」と書き記すことの間には大きな違いがあることは明らかだ。我々は「知らない」を知る必要がある。

 そして「知らないを知る」ことを目指すのが「タグ付けのない無加工のセルフィー」なのである。セルフィーを撮るのは、GUIによって定義されたインターフェイス的主体の後の、消去された主体――つまり「モジュラーとしての身体」だ。その身体は主体を知らない。だが人間は自分の無知を知ることができるのだ。しかしそのためにはなにかしらの「契機」が必要だ。

 つまり「iPhone」の「Retinaディスプレイ」に――自分の網膜=retinaに――写りこんだ自分の顔は「知らないを知る」ための契機なのだ。彼、彼女たちはタイムラインという「モジュラーとしての身体」に、生の自分を差し込むことで、その身体を少しだけ変質させて孤独を取り返す。こうしてセルフィーは主体と身体の乖離――「新しい貧しさ」に抵抗するのである。

2-3 新しい孤独

 「知らないを知る」ための契機としてのセルフィー。それは「新しい貧しさ」――「幻想の触覚」によって構築される「モジュラーとしての身体」と主体の消去――への抵抗である。しかしそれは十分ではない。なぜなら「新しい貧しさ」はタッチスクリーンの後の時代においても人間にとって困難であり続けるからだ。つまりゲノム編集やiPS細胞によってデザイン・修復された「モジュラーとしての身体」や、ベーシックインカムなどによる身体の生存の保証のなかでも台頭するであろう「主体の消去」に抵抗する術を我々は考えなくてはならない。

 こうして今日の社会における芸術家の役割が明らかになる。つまり今日の社会における芸術家とは「新しい貧しさ」に抵抗する契機を創造することができる存在だ。つまり来るべき芸術は「自分の主体を知らないを知る」ための装置として社会のなかに位置を取る。

 そして「幻想の触覚」にすべてが一元化された時代においては、主体の消去に併せて、孤独が失われた。孤独という語は西洋近代において生まれたのかもしれないが、それは西洋近代においてのみ存在するものではない。つまり孤独は主体や個人の成立と隣接するものとして理解される。だが孤独そのものは言語より古くから人間とともにあったのだ。ここでこのテキストの最後となる作品分析を行いたい。それはフランスとスペインにまたがって遍在する後期旧石器時代の人間の遺物――洞窟壁画だ。

ショーべ洞窟の壁画

 洞窟壁画は生活から分離された洞窟のなかに描かれている。洞窟のなかは暗く、大量のコウモリが潜んでいるだけでなく、熊などの動物が眠っている可能性もある。そこは薄ら寒く、少し臭く、そして暗い。先史時代において、洞窟というのは恐怖の場であったに違いない。しかしそこで待っているのは孤独の時間――つまり自分自身との対話だ。

 洞窟壁画に中心的に描かれるのは狩りの対象となる動物である。その描線はそれぞれの動物の特徴を的確に捉えている。しかしその正確なデッサンは、西洋近代以降の人類が一般的に想像する「観察描写」とは異なる仕方で、実現されていると考えるのが自然である。つまりモチーフとなる動物は洞窟のなかに存在しないため、描画者は観察できないのだ。にもかかわらず洞窟にはあまりに生き生きとした動物が描かれている。動物たちは群れをなし、壁面を走り回っているようでさえある。

 その理由のひとつには洞窟壁画が洞窟の壁面の亀裂や隆起を利用して動物のボリュームや動きを描いていることが挙げられるだろう。実際に天井の隆起を利用して描かれたアルタミラ洞窟のビゾンについて、写真家で著述家の港千尋は「実際は描かれているというよりも、岩の内部からビゾンが盛り上がり、こちら側に突き出してくるという印象を受ける」と記述している。

洞窟画が三次元の立体像であり、複雑な壁面の形状を把握した上で、隆起や凹みを動物の身体に合致させているという点は、いまや先史時代芸術の常識とすらなっていると言えるだろう。

 

港千尋『洞窟へ――心とイメージのアルケオロジー』
せりか書房、2001

 そのイメージがどのようなプロセスで描かれたのかについて、港は先に引用した著作のなかで、ジョルジュ・バタイユの著作やニューラル・ダーウィニズムなどを引用しながら整理している。それは洞窟の壁面がイメージに「変質 Alteration」するという説だ。つまり洞窟の壁面にあるひび割れや起伏を「選択」し、線描によって「反復」しながら、線を「淘汰」していくことで洞窟をイメージへと「変質」させているというのだ。

 このように有機的なかたち、模様がイメージに変質するプロセスは、脳内のイメージが視覚的なパターンに投影される「シミュラクラ効果」と似ている。例えば壁のシミをジーっと見つめていたら人間の顔が見えてくる、といった経験は誰もがしたことがあるのではないだろうか。しかし洞窟壁画における変質のプロセスはこれとは異なる。「シミュラクラ効果」が視覚的なイメージの投影であるのに対して、洞窟における変質のプロセスは触覚的なイメージの投影であるからだ。つまり洞窟における孤独のなかでイメージは、触覚的かつ進化的に形成されていく。

アルタミラ洞窟のビゾンの天井画 出典=ウィキメディア・コモンズ

 このようなプロセスによって人間の記憶が壁面に投影され、なぞられたのが洞窟壁画なのであり、それがイメージに実在感を与えている。しかし洞窟のうねった壁面に投影される記憶があまりに正確なのはなぜなのだろう? 現代人が、壁面のシミが顔に見えたからといって、それをなぞれば実在感のあるイメージを描けるわけではない。

 以上のような先史美術、洞窟壁画への問いのなかで、僕の地元で日常的に狩りを行っている方に連絡を取り、そのプロセスを見させてもらう機会があった。狩りに慣れた3人の壮年の男性による解体は鮮やかなものだった。前日に内臓を抜いて、川に浸けることで血抜きをされたイノシシは、彼らの共同作業によってあっという間に、皮を剥がれて、食材としての部分へと解体されていった。

 僕はそのプロセスを、カメラを構えながらであるとはしても、集中して見ていた。にもかかわらず、まったく理解することができなかった。ひとつの身体だったイノシシが、食材と皮へと分解されている。その後、自分が撮った映像を見返していると、彼らの手さばきが、デッサンの鍛錬をする学生の手さばきと似ていることに気がついた。いや、似ているというより僕自身が何百枚もの紙の上に木炭や鉛筆を擦り付けて繰り返したデッサンと、彼らのイノシシに対するナイフさばきは、映像の上で見るとまったく同じものに見えた。

 僕が現代の日本で受けた、美術教育の基礎である(とされている)デッサンは、観察によってバラバラに知覚されたディテール=部分を、紙に木炭を擦り付けるなかでひとつのボリュームとして表現することを目的としたものである。それに対して僕が見たのは、ひとつのイノシシの身体というボリュームを、食材として名付けられている解剖学的な境界線に合わせて、ナイフによって繰り返しなぞるプロセスだ。このふたつは、木炭/ナイフによる繰り返される線のドローイングによって、対象を、ひとつの統一されたボリュームの状態とバラバラに解体された部分の状態を移行させ合うという点で――そのベクトルは違えど――同じである。つまり動物の解体は、動物のデッサンと同等に、脳内にあるイメージをスタティックなものにする鍛錬という点で有効な可能性がある。

 このことは「観察描写」が視覚に頼ったものであるということが、思い込みであることを教えてくれる。僕が横で見ていながら理解できなかったイノシシの解体とは、視覚的な情報によるものではなく、動物の解剖学的な構造を触覚的に適応するプロセスだったのである。その解体が視覚的なものであるという思い込み。それが正されたとき、先史時代の人々の卓越したデッサン力――それがデッサンの成果でないとしても――の謎が明らかになる。つまり近代やポストモダンの場合と異なり、先史時代の人々が絵を描く際には、イメージとシンボルの「ずれ」は存在しないのだ。しかし洞窟壁画は「幻想の触覚」――イメージとシンボルの混交物であるところの「モジュール」の組み替え――によって描かれるわけでもない。洞窟壁画とは、主体なき身体が、洞窟の形態を「選択/反復/淘汰」することで「触覚的に変質」させた成果物なのである。

 洞窟壁画は、その技術習得と制作のプロセスだけでなく、鑑賞においても「触覚的変質」に依存している。洞窟のなかは暗い。そこでは松明を持たなければ何かを見ることができないのだ。洞窟の奥深くに描かれたイメージ群と出会うためには、松明を手に持って進むことが求められる。洞窟はうねっており、突然に天井は低くなり、壁は隆起している。そのせいで、松明の光のもとに知覚される洞窟の形態は、手の位置の高い低いによって、ちょっとした前後によって大きく変質してしまう。視覚だけではない。足音は反響によって少し遅れているように聞こえる。つまり足の触覚的な感覚を追いかけるように音が聞こえるのだ。洞窟において多様な知覚は、触覚に飲み込まれる。

 そして動物が姿を表す。洞窟は動物へと変質する。その動物は、もはや動いてはいないが、静止してもいない。洞窟の起伏に描き出された動物は、松明のちょっとした位置によってその状態が変質する。すべてがゆらめいている。奥に進む。松明の炎は、現代の照明のように明るくフラットではないので、遠くまで明瞭に照らし出すことはできない。自分自身の移動と姿勢の変化によって、壁面に描かれた動物は姿を現したり、消したりする。――あるいは単に見るだけでなく描き足していくこともあるだろう。

 洞窟壁画における「触覚的変質」は、セルフィーにおける「自分の網膜=iPhoneのスクリーンに映り込んだ自分の顔」と同じく、孤独を取り返す手助けをしてくれる。それは自分が自分に語りかけることを、自分自身と直面することを可能にし、主体と身体の乖離に対して抵抗する。

 この抵抗によって獲得されるものを、僕は「新しい孤独」と名付ける。それは、西洋近代的な主体と客体の往還や、イメージとシンボルの二層構造によるインターフェイス的主体には依存しない。主体に依存しない孤独が「新しい孤独」である。そして最果タヒにおける「知らないを知る」とは、主体なき身体の「触覚的変質=新しい孤独」なのだ。

 つまり来たるべき芸術とは、孤独――近代的主体やインターフェイス的主体――ではなく、消去された主体と浮遊した身体によって形式や形態(=洞窟やタイムライン)を進化的に変質させ「新しい孤独」を生産するものだ。

 孤独によって芸術が生産される時代から、芸術によって「新しい孤独」が生産される時代へ。

 それが芸術の新しいテーゼである。

 

*1――水野勝仁 「インターフェイスを読む #3 GUIが折り重ねる『イメージの操作/シンボルの生成』」http://ekrits.jp/2017/08/2343/
*2――アラン・ケイ「アラン・ケイ」Ascii books、1992
*3――東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』河出文庫、2011
*4――インスタグラムとは「iPhone」をはじめとしたスマートフォンによってのみ投稿することができる写真共有を中心に据えたSNS
*5――フィオナ・ダンカン「ウルマンの虚構世界」、「SSENSE」
https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/culture-ja/escape-from-l-a-with-amalia-ulman?lang=ja
*6――「First Look: Amalia Ulman――Excellences & Perfections」、「RHIZOME」、2014

〈参考文献〉
1-1 幻想の触覚
ヴィクトル・I・ストイキツァ『ピュグマリオン効果―シミュラークルの歴史人類学』松原知生訳、ありな書房、2006
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房、1987
マーシャル・マクルーハン+エドムンド・カーペンター『マクルーハン理論 電子メディアの可能性』大前正大・後藤和彦訳、平凡社ライブラリー、1967
レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画』堀潤之訳、2013
『インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』BNN新社、2018
アラン・カーティス・ケイ、鶴岡雄二『アラン・ケイ』アスキーブックス、1992
柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』岩波現代文庫、2008
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書、2001
東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007
『ゲンロンβ』ゲンロン、2016-
梅沢和木『RE:エターナルフォース画像コア』CASHI、2018
多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫、2000
松宮秀治『ミュージアムの思想』白水社、2013

1-2 モジュラーとしての身体
「Binary Skin - Exploring Japan’s Virtual YouTuber phenomenon」Archipel、YouTube、2018
黒嵜想『ボイス・トランスレーション――“バ美肉”は何を受肉するのか?』リアルサウンド、2018
TVアニメ『Serial Experiments Lain』
伊藤亜紗『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』水声社、2013
ジャン・ボードリヤール『透き通った悪』塚原史訳

1-3 新しい貧しさ
『アーギュメンツ#3』黒嵜想+仲山ひふみ編集、2018
「ウルマンの虚構世界」、「SSENSE」、2018
「First Look: Amalia Ulman—Excellences & Perfections」、「RHIZOME」、2014

2-1 セルフィーという抵抗
ロバート・A・ソビエゼク、デボラ・イルマス『カメラアイ──写真家たちのセルフポートレイト』笠原美智子、安田篤生訳、淡交社、1995
「今年の言葉に『セルフィー』、英オックスフォード辞典」、「AFP」、2013 http://www.afpbb.com/articles/-/3003552
「『難民はなぜスマホを持っているの?』という素朴な疑問の答えから見えてくること」国連UHNCR協会 https://www.japanforunhcr.org/archives/6577
『愛してる.com』作詞・作曲・MV原案=大森靖子、2016
『マジックミラー』作詞・作曲=大森靖子、2015
『ミッドナイト清純異性交遊』作詞・作曲=大森靖子、2013

2-2 知らないを知る
最果タヒ『天国と、とてつもない暇』小学館、2018

2-3 新しい孤独
デヴィッド・ルイス・ウィリアムズ『洞窟の中の心』港千尋訳、講談社、2012
港千尋『洞窟へ』せりか書房、2001
土取利行『洞窟壁画の音』青土社、2008
デイヴィッド・ライク『交雑する人類』日向やよい訳、NHK出版、2018
ジェネビーブ・ペッツィンガー『最古の文字なのか?』櫻井祐子訳、文藝春秋社、2015
スティーヴン・ミズン『心の先史時代』松浦俊輔・牧野美佐諸訳、青土社、1998
ジョルジュ・バタイユ『ラスコーの壁画』出口裕弘訳、1975
ジョルジュ・バタイユ『ドキュマン』片山正樹訳、1974
アンドレ・ルロワ・グーラン『身振りと言葉』荒木了訳、ちくま学芸文庫
『現代思想』2018年9月号(特集=考古学の思想)青土社、2018
アンドリュー・パーカー『目の起源──カンブリア紀大進化の謎を解く』渡辺政隆・今西康子訳、草思社、2006
三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社、2018
スタニワフ・レム『ソラリス』沼野充義訳、ハヤカワSF文庫、2015
仲山ひふみ「哲学のホラー──思弁的実在論とその周辺」、2015