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INTERVIEW - 2020.2.11

米田知子が語る、写真によってとらえた「見えざる記憶と歴史」

2021年にスペインのマフレ財団にて大規模な個展が予定されている米田知子は、土地や遺物に残された記憶と歴史を、写真によって浮かび上がらせてきた。20世紀という時代を見つめ続けてきたその軌跡と、これからの展望について聞いた。

文=山内宏泰 写真=手塚棗

米田知子、「DOMANI・明日2020」開催中の国立新美術館にて

カメラでとらえ続けてきた「History」と「Story」

 1990年代からたゆまず続く米田知子の創作には、太い棒のごとき一貫性がある。追求するべきテーマに20世紀の「記憶」と「歴史」を掲げ、それらを表すためのコンセプトとして「見えるものと見えないもののあいだ」という概念を設定。用いるメディアはいつも写真で、綿密なリサーチと取材を重ねるジャーナリスティックな制作手法をとる。

 作品の形式としては、対になるものを併置することが多い。作品をかたちづくるこれらの骨格が、デビュー以来ほとんど変わっていないのである。創作態度がいっこうブレないゆえ、多くの作品はシリーズとして長く続いていく。

 「たしかに自分のどんな時代、どのシリーズを見ても、根底には同じものがあるように感じますね。記憶と歴史のことをずっとやってきたというのも、まちがいないところ。まあこの両者は密接につながっていて、地続きではありますが。記憶というのは、一人ひとりの個人が内に持っているストーリー。著名な人物であれそうでない人であれ、誰の記憶も改めて紐解けば新たな発見があって、興味深いものが見えてくる。歴史のほうは、そうした同時代の記憶が集積して紡がれていくもの。歴史の最小構成単位は個人の記憶で、だから『History』という単語には『Story』が含まれているのですよね」。

 貫く棒のごときものがしっかり通っているからだろう。米田作品はそれぞれのシリーズをどう組み合わせても、ほとんど違和感がなく、展示の自由度が高い。その格好の例が、国立新美術館の「DOMANI・明日2020」(2020年1月11日〜2月16日)で見られる。10組11人のアーティストによるグループ展に参加した米田は、会場の一角でふたつのシリーズを併せて展示している。

米田知子「Scene」シリーズ、「DOMANI・明日2020」(国立新美術館、2020)の展示風景より 写真=宮島径
米田知子「コレスポンデンスー友への手紙」シリーズ、「DOMANI・明日2020」(国立新美術館、2020)の展示風景より 写真=宮島径

 ひとつは、歴史的な出来事のあった土地を撮影した「Scene」。米田の代表的なシリーズのひとつだ。ビーチや深い森、雑草の生えた路、原っぱ、舟の浮かぶ川面などが画面に切り取られている。大判カメラで精細に写された前景の砂利や草木には手が届きそうで、自分が実際の現場に立っているような錯覚を覚える。

 風景のディテールに見入っていると、ふと、これはどこなのか知りたくなる。それでキャプションを読むと、「森−ソンムの戦いがあった森/デルビルの森・フランス」「道−サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道」などとある。どちらも20世紀に起きた大戦の激戦地であり、悲劇のあった場所。知らずに惹きつけられる画面の力は、光景の美しさのみならず、土地が持つ重い記憶も作用していたかと気づかされる。

 いまは穏やかなここで、かつていかに凄惨なことが起きたのか。観る側は自分の有するわずかばかりの知識を総動員して、足りない部分は想像力を働かせたりしながら、考え続けることになる。

 展示されているもうひとつのシリーズは、「コレスポンデンス−友への手紙」。20世紀のフランスで活動した文学者アルベール・カミュ。その出身地アルジェリアで、ゆかりの地にカメラを向けたものだ。

米田知子 カミュの育ったベルクール地区(アルジェ・アルジェリア) 2017 「コレスポンデンスー友への手紙」シリーズより プラチナプリント 10.2×15.4cm (c)Tomoko YONEDA Courtesy of ShugoArts

 ハーフサイズカメラで撮影したモノクロ写真を、対にして並べている。白と黒のコントラストが強い構成なのに、古いレンズ特有の効果なのか、画面には甘やかな情緒が漂う。被写体の影響もあるかもしれない。そこに写っているのは若き日のカミュが両眼に焼き付けた原風景なのだろうから。見る者が「これは自分の原風景でもあったのでは」と錯覚しそうな親密感がある。

 撮影手法も撮影地もまったく異なるのに、両シリーズは見事にひとつの連なりを見せている。どの作品も、20世紀の記憶と歴史を可視化しているという共通点があるからかもしれない。太平洋戦争におけるサイパン島やノーベル文学賞受賞者のカミュなど、著名な土地や人名にばかりスポットを当てるのはなぜかという疑問が脳裏をかすめたが、米田はその点をこう説明してくれた。

 「有名性は、入口として機能しているということかな。名前が残っている人の記憶は、書き記されたり、映像になったりと、かたちになって多く残っている。資料が豊富なわけです。それを取っかかりにすれば、その時代のいろいろな話が引き出せると思っています。彼ら著名な人が、かつてそこにいた。そう実感できれば、その裏にたくさんの人々がいて、いろんな思いがあったということもはっきり感じ取れるんじゃないかと」。

米田知子 道 (サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道) 2003 「Scene」シリーズより 発色現像方式印画 76×96cm (c)Tomoko YONEDA Courtesy of ShugoArts

20世紀の歴史と記憶、そしてカミュとの対話

 米田知子が記憶や歴史を扱うとき、20世紀のそれに限定しているのはなぜだろう。直接的には、「実感の及ぶ範囲がその時代だから」ということがある。

 「ひとりの人間の記憶って、いまは70年くらいが限度ですよね。ライフサイクルが70〜80年ほどですからね。となると、いまを生きている私たちの射程が及ぶ範囲は、だいたい20世紀ということになる。いまにつながっているなと実感できる歴史上の出来事も、やっぱりせいぜい20世紀のことじゃないですか。太平洋戦争は現在の私たちの生活と関わりが強く感じられるけど、西南戦争や応仁の乱なんかになると歴史の教科書に書いてあること、という意識のほうが強くなる」。

 加えて、20世紀という時代が持つ二重性も、米田の気持ちをとらえて離さない。20世紀とは、正と負の出来事・感情が激しく入り混じった時代だったと受け止めることができる。これまでにないほどの科学技術の発展、生活の豊かさの実現、人間性の伸長があったと同時に、人類史上最も多くの犠牲者を出した暴力の世紀でもあったのだ。

 米田の画面は一見、静謐な美を湛えていることが多い。しかしその「見えるもの」の裏には、正視に堪えない暴力性という「見えないもの」を含んでいるわけだ。目に見える画面に剥き出しの暴力を描かず、できるだけ「正」の側を前面に出しているのは、それが米田自身の意思の表明なのだろう。

米田知子 絡まった有刺鉄線と花(非武装地帯近く・チョルウォン・韓国) 2015 「DMZ」シリーズより 発色現像方式印画 65x83cm (c)Tomoko YONEDA Courtesy of ShugoArts

 「そう、人間らしさだとか、愛。直接は目に見えないかもしれないけれど、いつの時代にもどんな人の根底にもあるはずのそれらを、作品を通してうたっていきたい」。

 20世紀とい暴力の世紀の半ばあたりを生きながら、孤高に人間性をうたい上げた表現者がいた。かくも格好のモチーフを、米田知子が見逃すはずもない。先にも作品の紹介で触れた、カミュである。先に挙げた「コレスポンデンス−友への手紙」も含め、カミュをモチーフとした一連の作品が発表されたのは2018年、パリの日本文化会館での個展「アルベール・カミュとの対話」が最初だった。

 「人間としての葛藤を一身に背負いながら創作し、短い生涯を駆けたのが、カミュという人ですよね」。

 カミュに対する米田の関心は、ずいぶん長い。アメリカでの学生時代に、『Neither Victims nor Executioners』(Dwight Macdonald訳)を読んで以来、ずっと心に居続ける存在だった。

 「いつも脳裏の、すごく見えやすい場所にカミュはいました。学生時代に読んだ『Neither Victims nor Executioners』(犠牲者でもなく、執行人でもなく)は、戦後の間もないころに発表されたテキストです。カミュが編集長を務める仏レジスタンス紙『コンバ』に数日間に渡り掲載され、原爆投下に象徴される、科学進歩による人間の生の否定、未来の破壊、目的達成にはいかなる手段をも正当化させるイデオロギーと暴力への批判が記されています。『直接的にも間接的にもあなたは殺されたいですか、または、殺人者になりたいですか』。もしいずれかの回答に『否』であるのならば、命を剥奪しながらも沈黙を強いる世界に疑問を持ち、『否』と言うべきだとカミュは訴えています。広島と長崎に落ちた原爆をめぐっての話です。あのとてつもない暴力を、当時から肯定する人たちはいたし、いまもいるけれど、カミュはかなり早い段階からクエスチョンマークを出しているのです。冷戦という状況下の欧州では決して主流とはいえない、つねに人間性の側に立つ彼の姿勢は、私のなかにずっとありました。カミュの名前を直接挙げることはしなかったまでも、彼の姿勢と考えかたは、作品をつくる私に多大な影響を及ぼし続けています。原点と言っていいかもしれない。2018年にフランスで展覧会をしないかという話がきたとき、新作ではフランスにゆかりの人物を取り上げたいと考え、ならばぜひカミュでと決めたのが直接のきっかけでした。打診をいただいた頃、フランスではテロが続いていた。カミュが生きた時代も、アルジェリア独立戦争の関連でテロが多発していたんです。そのときアルジェリア出身のフランス移民であるカミュが考えていたのはどんなことだったか、改めて探ってみたかった」。

米田知子 船を待つ、アルジェ港 2017 「Dialogue with Albert Camus」シリーズより 発色現像方式印画 56.5×83cm (c)Tomoko YONEDA Courtesy of ShugoArts

 制作を進めるなかで、頭に描き出す「カミュ像」に変化はあっただろうか。

 「彼が仕事の舞台としたフランスと、故郷のアルジェリアの双方で写真を撮りました。彼は父親がアルジェリア生まれのフランス系、母親がスペイン系で、小さいころは貧しさのなかで育ったのですが、そうしたバックグラウンドからくる彼の苦悩を、より深く感じ取れるようになったと思います。例えば、彼が残した小説『異邦人』(1942)。このテキストの捉え方は、彼のことを知るほど多角的になる。日本では、主人公が殺人を犯してすら感情を持たない、不条理な作品としてよく語られます。でも、カミュのことを深く知ってから読むと、主人公に殺される側のアラブ人、そちらの存在の重みがぐっと増します。何しろ作中でアラブ人の側は、名付けすらされていない。この極端な不均衡……。カミュがアルジェリアから来たフランス人であることを考えると、表に見えるわかりやすいストーリーの裏に、アラブ人側の視点からの『読み』をしっかり潜ませてあったんじゃないか。カミュの書くことにはいつも強い葛藤を感じます。すごく人間くさいところがあったのでは。そこがサルトルとの違いかなと思いますね」。

 サルトルはカミュの同時代にあって、一世を風靡した作家・思想家だった。サルトルのいかにも西洋的なものの考え方はいつしか「原爆の犠牲はやむなし」というところへ行き着き、暴力や犠牲を否定し徹底的に人間性を重視するカミュと、根本的なところで相容れない。それでカミュの主宰する雑誌誌面上での「カミュ=サルトル論争」というものも起きた。そうした歴史を振り返って、米田知子はカミュの側に立つ。

 「そうですね。カミュの側にシンパシーを感じます」。

 思えば米田は日本に生まれて米国に学び、それから英国へ拠点を移し活動を続けてきた。人生の長い期間を「異邦人」として過ごした経験からしても、アルジェリアから来たフランス人たるカミュに強く共感するのは、頷けるところだ。

米田知子 池の彫刻と椰子の木越しに空を覗く、ハマ植物公園(アルジェ・アルジェリア) 2017 「コレスポンデンスー友への手紙」シリーズより プラチナプリント 10.2×15.4cm (c)Tomoko YONEDA Courtesy of ShugoArts

アスリートのように「Aesthetic」をつくりだす

 米田知子が1点ずつの作品で扱う歴史のテーマは、大きくて深い。それを1枚の画面に収めていくというのは、なかなかの力業ではないか。

 「自分としては、アスリートに近い感覚があります。競技に臨む人たちは長く厳しい練習をして、万端の準備を整えて試合を迎えますね。わたしも同じです。徹底的にリサーチをして、ものごとを頭の中で整理し準備を尽くす。そうして現場に行って、覚悟を決めてカメラのシャッターを押す。すると案外、意図せざる好機が向こうからやってくる。例えば《Scene ウエディング−中国から北朝鮮を望む国境の川、丹東》(2007)は、中国と北朝鮮の国境沿いの川が舞台。朝鮮戦争で米国軍が落とした橋を撮ろうと、大判カメラを三脚に載せて準備をしていたら、船上で結婚式をしている船が通りかかり、未来への啓示、明るい何かの始まりみたいなものを感じた。それで瞬時に、首から下げていた中版カメラの6×7を手にして、三脚もなしで撮った写真なんです」。

米田知子 ウエディングー中国から北朝鮮を望む国境の川、丹東 2007 「Scene」シリーズより 発色現像方式印画 76×96cm (c)Tomoko YONEDA Courtesy of ShugoArts

 準備を尽くしているからこそ、瞬発力が爆発したということなのだろう。写真という装置は、「いま・ここ」にあるものしか写せない。そんなある瞬間の、ある限られた視野の中に、あらゆる時間と場所に由来する記憶と歴史をありったけ注ぎ込んで、米田の作品はできているのだ。

 「Scene」シリーズに顕著だが、米田作品の多くには長めのタイトルとキャプションが付く。それによって画面に新しい「意味」が流し込まれるのだけれど、そうした言葉がなくとも米田作品の画面は端的に美しい。そこは重視しているところなのかどうか。

 「そうですね、眼で見て美しいものをつくる。それはビジュアルアーティストとして必要なことだと思っています。ただ、美しいの定義はいろいろある。私の画面に宿っていてほしいと思うのは、造形の美というよりは、『Aesthetic』ですね。それこそ背後に見えないものを湛えていて、それが作用して輝いているような美、それが『Aesthetic』というものだと私は理解していますけれど」。

 なるほど、「Scene」シリーズの画面はどれも静謐で惹き込まれるが、そこにあるのは、風景の背後に歴史や記憶を背負っているからこそ生じる、「Aesthetic」のほうの「美」なのだ。だから観者は飽かずいつまでも作品の前で時間を過ごすことになる。

 「その写真に意味が込められていて、多層的な歴史を含んでいればこそ、人の眼に長く留まるものになるのだろうとは思います。いわゆる表面的な美しさというよりは、何か感得するものがあり、強く伝わってくる力を持った写真というのは存在しますからね。きれいな花がそこにあったから撮った、そういう写真だってもちろんありますし、それはそれでいい。造形の美を楽しめれば。でも、写真はそれだけじゃない。もっとたくさんのことを含むことのできるメディアだし、『Aesthetic』を十全に表現することだってできるはずだと思う」。

 20世紀を代表する知識人の眼鏡越しに、彼らの著作や手紙を写している「Between Visible and Invisible」シリーズの美しさも、同じことだ。洗練された構図が、端正に焼かれたモノクロプリントに収められた様子からは、画面の隅々まで舐めるように見ていきたくなる。

 同時に、作品には膨大な背景が溶け込ませてある。たとえばフロイトの眼鏡が覗き込んでいるのは、盟友と感じていたはずのユングがフロイトとの決裂を匂わせるテキストである。谷崎潤一郎の眼鏡越しに見えるのは、添い遂げるのに紆余曲折のあった松子夫人に宛てた手紙だ。そして《サルトルの眼鏡−『レ・タン・モデルヌ』の編集長サルトルに宛てられたカミュからの書簡を見る》(2018)は、カミュ=サルトル論争の渦中に観る者を放り込むような構造になっている。「Between Visible and Invisible」のフォーマットは、まさに歴史を可視化して1枚の絵にしてしまう装置として秀逸だ。

米田知子 Between Visible and Invisible サルトルの眼鏡 ー『レ・タン・モデルヌ』の編集長サルトルに宛てられたカミュからの書簡を見る 2018 「Between Visible and Invisible」シリーズより ゼラチンシルバープリント 120×120cm (c)Tomoko YONEDA Courtesy of ShugoArts

 「眼鏡はどれも生前に使われていたものなので、遺族の元や博物館など、しかるべきところに保管されています。撮影のお願いをして許諾を得て撮るわけですが、たいへん貴重なものと対峙するので、なかなか緊張感がありますよ。ときには所有者がすぐそばでずっと撮影を見守っていることもあって大変です」。

 米田知子は2021年、スペイン・マドリードのマフレ財団で個展を開催する予定がある。フランスの個展に際して一連のカミュにまつわる作品が生まれたように、スペインでも新展開があるのを期待してしまう。

 「やはりスペインの歴史にまつわる新作をつくろうと考えていますよ。時代的には、スペイン戦争の頃のことを取り上げることになりそうです。あの戦争は、21世紀現在のスペインの情勢に、いまだ影響を与えていますからね」。

 どのシリーズに連なる作品になるのか、あるいはまったく新しいシリーズができるのかはまだ明らかではないけれど、そこは米田知子の創作にとってさほど重要ではない。どんなテーマや手法を用いるにしても、根底はいつだって変わらないのだから。ただ純真に、新しい「Aesthetic」が生まれ出てくるのを待つのみである。

米田知子 恋人、ドゥナウーイヴァーロシュ(スターリン・シティと呼ばれた町)、ハンガリー 2004 「雪解けのあとに」シリーズより 発色現像方式印画 66×84cm (c)Tomoko YONEDA Courtesy of ShugoArts