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INTERVIEW - 2019.10.21

いつかは滅びる現代文明を後世に伝えるための方法。佃弘樹インタビュー

自身のドローイングやスナップショットによるデジタルコラージュを作成することで、 もとの素材の固定化された要素を一度壊し、平面や立体へと再創造する佃弘樹。 SF的世界の制作のもとにある思想について話を聞いた。

文=椿玲子(森美術館キュレーター)

渋谷にあるアトリエにて 撮影=西田香織

「自然」と「文明」の二項対立を超える多元的な視覚と構造

 佃弘樹の群馬県立近代美術館での個展「Monolog in the Doom」は、2018年のNANZUKAでの個展「199X」、19年の森美術館での「六本木クロッシング2019展:つないでみる」、ベルリンのCapitain Petzelでの個展に続き、現代文明を巨視的な視点でとらえた展示だと言える。

 美術館内のコレクション展示を抜けて「Monolog in the Doom」の展示室が近づくと、まずは床から突き出た台形状の構造体が見えてくる。佃は、会場の下見をしたときに、「この磯崎新の建築、天井から大きく台形型に突き出た照明と線対称になった構造体をつくることを考えた」という。その木製の構造体は、佃の作品群がビッシリと設置されることで、文明の繁栄と記憶を後世に伝えるための古墳のような装置として機能している。壁の上方に点だけ展示された大型絵画は、教会建築の祭壇を想起させる。

 構造体内部には、現代文明を後世に伝えることを仮想した「The Record」シリーズから、不可視のネットワークが巨大な都市や文明として生成するように200層ものデジタルコラージュが絵画として物質化した作品、顔や腕が機械むき出しとなったサイボーグモデルのグラビア、さらには少し枯れたサボテンや流木、石などのインスタレーションが並ぶ。文明を表象する大型絵画の中央部上方には、小さな黒い円が鎮座しており、それは別世界への穴、あるいは全能の神がこちら側の世界を覗くための窓のようでもある。

 ここ数年、佃は、自身が影響を受けた『2001年宇宙の旅』、『ブレードランナー』をはじめとする「世紀末的なSFの世界はすでに現実化しているのではないかと考え、夢想している」という。同時に、放射性廃棄物処理についてのドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』を観て、仮に10万年後の未来に人間が生き残っているとして、彼らに現代文明からのメッセージを伝えることの難しさを痛感したという。不可能に思える「いつかは滅びる現代文明を後世に伝えるための方法」として、墓や遺跡のようなインスタレーションはつくり出されているのだ。佃は「自分がいつも想像する世界はある種の妄想で、結局は自分にしか理解できない。そうした意味で『Monolog in the Doom』(仮称:破滅のなかの独白)というタイトルが思い浮かんだ。ただ、観る人が自分なりの視点で作品に入り込めるようなヒントやきっかけになる要素は、なるべく多く入れるようにしている」と語った。

「Monolog in the Doom」展(群馬県近代美術館、2019)の展示風景より、「The Plan」(2019)と「The Record」(2018)のシリーズ

​原風景−−大自然のなかに介入する巨大な人工物

 佃は、香川県高松市で、建設中の瀬戸大橋という、圧倒的な構造物の姿を見て育った。それは、風光明媚な瀬戸内の山々、島々のなかで、異様な存在であったに違いない。また香川県庁舎をはじめ、小学生時代に剣道のために通った船形コンクリート塊のような香川県立体育館など、丹下健三の建築に代表される近代建築物は佃に影響を与えた。こうして、自然のなかに突然現れる巨大なコンクリートの構造物や当時の作品に影響を受け、佃はいろいろな空想を膨らませていったという。佃の作品で、大都市にしか見られないアンダーグラウンドでポップな質感が、なぜかアニミズム的な表現や文化人類学的な視点へとつながる理由は、おそらくここにあるのだろう。

 佃は、「都会のなかにコンクリートの柱があっても、とくに意味を持たないが、山奥に突然コンクリートの柱があれば、それは奇異であり神聖なもののようにも感じられる。そうした面白さをつねに探している」と言い、さらには「自分は、もしかしたら『もの派』の系譜に入るのかもしれない。とくに 李禹煥 リー・ウーファンの活動や文章には、まるで自分が考えていることが表現されているような共感を覚えるから」とも分析する。

  李禹煥 リー・ウーファンの作品は、石や鉄といった素材が自然やホワイトキューブのなかに存在することでその場所との対話を生む。自然のなかにひとつ投入された人工物、あるいはホワイトキューブのなかに投入された自然の象徴としての素材は、おのおのの存在を、境界を浮き立たせる。それは、まさに佃が探し求めている緊張感であり、面白さなのかもしれない。

「Monolog in the Doom」展(群馬県近代美術館、2019)の展示風景より、右に見えるのが《Rise of Dragon》(2019)、左が「Dreams of Doom」(2019)シリーズ、左奥の壁に掛かるのが《Black Hole Monolith》(2019)

コラージュという手法、デザインとアートの違い

 佃は2005年頃からアート作品の制作を開始した。作品の制作を開始した。媒体は手描きのドローイングや絵画、グラフィックデザイン、オブジェからインスタレーションまで多岐にわたる。いずれもその制作の基礎には、ドローイングや自ら撮影した写真に加え、インターネット上で収集されたイメージをコンピュータ画面上で縦横無尽に組み合わせたデジタルコラージュがある。組み合わせる楽しみは、「幼少期にバラバラにしたフィギュアの様々なパーツをひたすら組み合わせて違うものを創出した楽しみに通じている」という。様々なイメージを、それらが表象するものから完全に切り離し、何層にも組み合わせたコラージュは、異質なモチーフや両極にあるものをたやすくつないでみせる。でき上がったイメージを紙にインク定着させればドローイングや絵画となる。シュルレアリスムやマジックリアリズムにも通じる「組み合わせと想像の自由」を可能にするコラージュは、佃の制作活動の根幹にあるのだ。さらに、最初からテーマやイメージを設けることなく自由にかたちをつくり上げていく方法は、精神分析の手法である、抑圧された無意識を解放するための自由連想法のようでもあり、佃が「制作しているのはすべて、記憶や自分の頭のなかにあるものを掘り起こしたものだ」という言葉にも合致する。

 コラージュという手法は、デザインでもしばしば用いられる。佃は「グラフィックデザイナーとして仕事をしていたときから、コラージュ的な手法を用いていたので、そういう意味では変わっていない。ただ、デザイナーとしてはつねに言語化できるものを制作しなければいけないという圧力があった。いまは、自由な組み合わせで、言語化できないものをつくることができる。おそらくは、それがアートとデザインの違いかもしれない」と語った。

 また、ドローイングや絵画をアクリルフレームで包んでいる理由は「ざらざらの画用紙の上にドローイングがあり、その上にカッチリとしたクリアな素材が別の層をつくっているのがいいなと思ったから。最近ではアクリルにシルクスクリーンでプリントを載せるようになっているので、全体としてもある種のコラージュになっている」という。

 流線型のメカニックな美しいかたちの構造物を描くようになったきっかけは、「幼いときに、ドイツの高名な工業デザイナー、ルイジ・コラーニの手がけた『チョロ』が見せる美しい流線型に感銘を受け、収集したことがきっかけかもしれない」という。コラーニは、流体力学や人間工学に即した自然の持つ流線型を取り入れた未来派デザイナーとして高名である。佃が、自然の持つ「かたち」と工業製品の持つ「かたち」の区別を行うことなく、同じレベルで分類・収集しコラージュする背景には、こうした自由な発想があるのだろう。さらには、佃の祖母が華道の師匠であったことも関係するかもしれない。なぜなら、華道では、空間内での立体コラージュ的な面白い「かたち」を探し求めることが要求されるからだ。

 14年に行われたNANZUKAでの個展「BLACK OUT THUNDER STORM」では、「いつもは画面のなかだけで行っていたコラージュを、絵画を植物やコンクリート、板と展示することで、実際の空間を使った初めてのインスタレーションとして発表した。また、インスタレーションの一部となるように、絵画のかたちを初めて台形にした。このインスタレーションによって、四角いキャンバスやフレームを超え出ることで、コラージュはさらなる自由度と広がりを持つようになり、迷いがなくなった」と語る。

Vol.16 2019 アクリルフレームにシルクスクリーン、紙、墨、インク、鉛筆 176.2×126.2×4.3cm

ハイブリッドな存在−−自然と文明の二項対の向こう側

 佃弘樹の作品は、圧倒的な存在としての「自然」や「文明」を表象する。とくに初期の作品には、山やジャングルのなかの要塞、もしくはハイテクを駆使した別荘にも見える建築物がグラフィカルなイメージとして現れる。これらは、美しいAIが主人公を惑わす映画『エクス・マキナ』のIT会社社長のハイテクな別荘を想起させる。本人も「こんな別荘があれば良いな」と思いながら描いていたそうだが、そこには、自然への憧憬と同時に、都市的なもの、近代建築、テクノロジーへの憧憬が見受けられる。森林や山々、植物、地層といった自然と同時に、建築、構造物や都市環境が描かれた作品では、自然と文明は相反するのではなく、共存することで互いの存在を際立たせる。また、自然から人間を保護する膜としての建築や都市といった人工的な環境も、ある種の自然環境と化していることを思い出させる。こうした視点で見れば、佃の作品に出現する肉感的な身体を持つ頭部だけが機械化したサイボーグなども、テクノロジーによって生身とヴァーチャルのハイブリッドな身体性を獲得した現代人を象徴しているのかもしれない。

 自然と文明の二項対立ではなく、それらのハイブリッドなものとして存在する世界観は、ある種、フランスの社会学者ブルーノ・ラトゥールの提唱する「主体」と「客体 」、「人」と「もの」、そして「自然」と「文明」の二項対立を否定し、それらのネットワークからなる世界を想定するアクター・ネットワーク理論にもつながると言える。そして、それは人間中心主義では想像できない世界観の提示でもある。

 佃は東日本大震災から半年後に、東北の大津波の被害を受けた地域を訪れたという。そこで「人間が地球を大切にしようなどと言って心配するなんておこがましい話で、こっち(自然)が寝返りを打っただけで君たち(人間)の文明は滅びるんだよと言われている気がした。自然はあまりにも圧倒的な存在で、現代文明において人間が自然をコントロールできるかのように振る舞っているのは良くないと思った。自然は怖いなと感じた」そうだ。

Dreams of Doom 01 2019 アクリルフレームにシルクスクリーン、紙、墨、インク、鉛筆 45.2×45.2×4.3cm

「建築」へ向かって

 佃作品の特徴として、建築的な構造体を描いたように見えるものでも、そこに描かれているイメージが実際の構造や建築となりえるかは定かではないこと、それらは実現化からは自由であること、がある。塊としては規則的な構造を持つ構造体であるが、それらの線は空間を自由に展開し、明確な終わりも始まりもなく、浮遊している。とくに最近の作品のなかでは、こうした構造物がひとつの世界を形成している。彼の作品のなかにある構造体が、明確な天地を持たず自由に広がり、時空が限定されていないように見えることは、前述したように、すべてのイメージが佃自身の記憶という時空を超えた場所から発生しているからでもある。

 ただ、本人は建築に大変興味があり、直島の「地中美術館を見たときに、自分がやりたいことを先に実現されてしまったと思った」という。「いつかは建築的な仕事を実現させたい」という佃。それが次元の現実空間で可能なのかは定かではないが、どのようなかたちで実現化されるのか楽しみである。

『美術手帖』2019年10月号「ARTIST PICK UP」より)