筑波大学准教授・学長補佐、ピクシーダストテクノロジーズ代表取締役・CEOなど様々な顔を持ちながら、メディア・アーティストとしての活動を続ける落合陽一。デジタル装置だけでなく虫眼鏡、万華鏡、時計などアナログ装置を先端技術と組み合わせて作品を制作してきた落合は、これまで「茨城県北芸術祭」(2016)や「Media Ambition Tokyo 2018」(六本木ヒルズ)など、数多くのアートプロジェクトに参加するほか、自身でもたびたび個展を開催してきた。そんな落合の最新作を一堂に展示する個展「山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」が表参道のEYE OF GYREで開催されている。すでに来場者数1万人を突破するなど、大きな注目を集めている本展。落合はこの風変わりなタイトルの個展で何を見せ、何を伝えるのか?
——まず今回の個展ではタイトル「山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」が印象的です。展覧会のテーマについて教えていただけますか?
今回は「工業のバナキュラー(土着性)的美」が通底したテーマです。そして自然との対話。この「自然」は世間一般で言う「自然」ではなく、「繰り返されることで生まれた性質」を意味しているんです。だから「人工↔︎自然」という対比ではありません。
——「計算機自然」という聞きなれない言葉がありますが。
計算をずっとし続けて、処理能力が上がったり、解像度が上がったりすると、やがて「自然」になる。つまり、「放ってくとやがて本質的なものになる」ということです。今回は、それを象徴するものとしてサバをモチーフにした作品《波の形,反射,海と空の点描》を展示しています。これは、和紙に銀箔を貼って、そこに超高解像度で撮影したサバの側面を高精細プリントしています。
サバって、背中は波の擬態をしているんですよ。そしてお腹は太陽の擬態をしている。上からも下からも食べられにくいようにね。だから、そのサバを真横から切り取ると、下が太陽で上が海面の「風景画」になるんです。これが「計算機自然」。サバはずっと上に太陽がある海で生き続けてきたことで、見た目がその環境そのままになってしまった。DNAを演算し続けたら、体が風景を切り取ったんですよ。綺麗ですよね。そしてこの作品自体も、経年で変化し続けていく。
——今回の個展では、タイトルに「山紫水明」「事事無碍」(一切の事象が互いに作用し合あうこと)といった言葉もあります。会場入り口には丸窓や、落合さん流の「生け花」があったりと、日本の古典的な美や美意識を想起させるものが多いですね。
日本的な美的感覚って、茶の湯や能からアップデートされていないような気がするんですよね。そしてテクノロジーを使ったメディア・アートは全然そことつながっていないと思われてる。だから、メディア・アートで茶室をつくってしまおうと。そしたら文句言われないでしょ(笑)。
——少し意外ですが、落合さんはつねに「日本の美」を意識しているんですか?
いや、その逆ですね。日本のコンテクストを使わないのに、なぜか「日本的」になっちゃう。だから「仕方ないな」と思いながらやっているんです。作品名だって英語なのに、ヨーロッパの人からは「君はどうしてそんなに日本人なんだ」って言われるし。僕の作品って何も「和」なところはないんだけど、すごく「和風」らしいんですよね。僕はモチーフとして水墨画や2次元のイラストは使わないけど、日本庭園の芝生や鹿威しなんかは好きなんですよ。だからちゃんと古典美に向き合いながら、メディア・アートを接続したらどうなるんだろうって。例えばシャボン玉の液の膜をスクリーンにした《Colloidal Display》は鹿威しじゃないですか。《Levitrope》だって空間に空いた丸窓のようなものです。
——たしかに落合さんの作品には日本的な「儚さ」を思わせるものが多いですよね。
ヨーロッパ大陸的な永続性をまるで持ってないんですよ。泡や光や音を使った作品ばかりだし。これを改めて自分で認識したら強いだろうなと思って、今回の個展を構成したんです。ルーツを探るよりも本質的なことで、「やればやるほどそう(日本的に)なってしまうのはなぜなんだろう」という問いに向き合うと、できたものってやっぱり美しいですよ。配線すら隠そうとしてないしね。それすら美しいと思ってやってる。
——そうやって自分と向き合い、何か変化はありましたか?
最近は肩の力が抜けたかな。子供が生まれたり会社の規模が大きくなったり、周りが変わり始めてきてる。自分で全部解決しなくてもいいかなって思うことが増えてきた。他人を巻き込んでも責任感を感じなくなってきたというか。気を使わなくても他人に「手伝って」って言えるようになったかな。他人とコラボレーションしたほうが面白いものがつくれるかもしれない。展示にしても、いままでは全部僕がやってきたけど、いまは(学生さんに)ある程度任せて、良いものが出てきたらそれを楽しんでやる。
もちろん《計算機自然、生と死、動と静》みたいな作品は僕が全部つくらないといけないですよ。それを任せたら訳がわからなくなるから。でも他の、例えば《Silver Floats》なんかは一個僕がつくったら、あとは学生さんに手伝ってもらったり。そのあたりの塩梅がよくわかってきたかな。
——姿勢が変わってきたんですね。
だから最近、肩肘張らずにアートを楽しめてるなって思いますね。僕としてはアートの文脈がどうとか、そういうところで闘おうとは思ってないんですね。僕が誰かの目の敵になっている訳でもないし(笑)。メディア・アートって昔は毛嫌いされてたけど、日本の古典美としてやってみて、それが高度な技術論と接続されている状態って面白いじゃないですか。