――ユイグさんはこれまで、ヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタ、そしてミュンスター彫刻プロジェクトなど、数々の国際展に参加してきました。そもそも国際展の持つ意義とはなんだと思いますか?
様々な制約が多いなか、可能性を残している国際展はありますし、そういうものについては作品を展開させるアイデアが入り込む余地があります。
――国際展の数は年々増加していますよね。これについては賛否両論ありますが、ユイグさんはどういうお考えをお持ちですか?
もちろん、それぞれの街がビエンナーレやトリエンナーレを開催することでメリットはあると思います。ただ、その国際展がひとつのフォーマットになってしまっており、それぞれの街がそのフォーマットを利用して人々のアンテナに引っかかりたいと思っている状況です。でもそのフォーマットは自らを疲弊させてしまいます。
――これまで「アーティスティックディレクター」という立場で国際展をキュレーションしたことはありますか?
いえ、今回の「岡山芸術交流 2019」が初めてです。もちろん、私自身の展覧会に他のアーティストを呼んで、グループ展のようなかたちで一緒にやったことはありますよ。アーティスティックディレクターは初めてですが、自分の経験や他のアーティストたちの経験をひとつに集められるという意味では、すごく面白い機会ですね。
――2016年に行われた初回の岡山芸術交流には、いちアーティストとして参加されました。どのような感想を抱きましたか?
当時、私は物理的には岡山に行っていないんです。ただリアムがやったことは見ていますし、初回のディレクターというのは本当に大変な苦労があっただろうなと想像しています。なのでリアムの次で良かったなと思いますよ(笑)。大枠の構造を彼がつくってくれましたから。
彼は岡山で、彼自身の活動を行うときと同じようなやり方でディレクションをしたのだと思います。「Development」というテーマもそうですし、公共性や政治、社会への関わりを考えるという意味で、とてもリアムらしいものでした。私は自分の活動を通じて、その方向性を引き継ぎます。
――そのリアム・ギリックからバトンを受け取ったわけですが、そもそもアーティスティックディレクターを引き受けたのはどうしてですか?
大きな前提として総合プロデューサーの石川康晴さんや総合ディレクターの那須太郎さんとの友情関係、信頼関係があります。彼らとならやれると思いました。また、岡山は東京のような大都市でなく、ちょうどいい規模の都市であることも理由のひとつですね。
それに、自分のことについて考えなくてもいい機会であることが興味深い。展覧会を「ひとつのメディウム」としてとらえ、(自分のことというよりも)いろんな人と一緒になって、グループがひとつの思考を持つようなイメージで考えていくということ。展覧会という形式をどのように押し上げられるかを考えさせてくれます。
――「展覧会がメディウムである」と仰いましたが、キュレーターではなくアーティストがアーティスティックディレクターを務めることの意味はどこにあると思いますか?
そのことについてはちょうど話をしていました。多くは言葉の問題だと思うのです。まず、「アーティストがアーティスティックディレクターを務めること」を考えるには、「キュレーターとは何か」について考えなくてはならない。そして、「キュレーター」ではなくわざわざ「アーティスティックディレクター」と言うのはなぜなのかも。アーティスティックディレクターの役割はいろんな人を招き、ゲームに参加してくれるよう促すことです。それを私がやるということは、私が皆と考案するゲームにアーティストたちが「やりたい」と思ってきてくれるということなので、意味があることかなと思いますね。
ある言葉を与えてしまうと、それに縛られたり影響されたりしてしまう。だから岡山芸術交流は「アートフェスティバル」でも「ビエンナーレ」でもないアプローチを取っていこうという意思がある。例えば私も「インスタレーション」という言葉は絶対に使わないようにしています。「インスタレーション」は、もともと作品を設営(インストール)するという意味なので、私はそれは使わない。
それぞれの言葉が持っている枠組み(フレーム)を理解することで、その枠組みの外に出たり、別の視点で物事を見たりすることができるようになります。
――「岡山芸術交流 2019」の展示についてうかがいます。ユイグさんは「超個体(スーパーオーガニズム)」という言葉で方向性を示しています。これは、個々の作品はそれぞれ自立しつつ、「岡山」という環境のもとそれぞれの作品が(例えば)アメーバのように、結合することによって、「超個体(スーパーオーガニズム)」としてのひとつの大きな展覧会をつくり出す......。そういうイメージでしょうか?
一部はその通りですが、もう少し具体的に考えています。
まず、参加アーティストがどれくらいふだんの活動範囲を壊し、新しい挑戦をしてくれるか。それぞれのアーティストには変化させられることを許容するような作品をつくってもらいたいのです。そしてそれが、物理的になのか科学的になのかデジタルになのかはわかりませんが、実際に近接する他のアーティストの作品と反応しあって変化したり、変態していくようなーー他の作品がもたらす外的要因が実際に自分の作品に影響を及ぼし、変化を生み出すようなーーことをどれくらい考えられるか。
いまはまだ具体的にはわかりませんが、前向きなアーティストもいます。作品が他の作品の影響を受けて変化をし、またそれが他の作品に変化をもたらす......。つまり「変化のサイクル」のようなものを考えています。展示はひとつの生命体であり、超個体なのです。
――それはメタファーではなく?
メタファーとしてではありません。ほとんどのキュレーターは、展覧会の中で作品が2つ並んでいれば「この2つの作品は互いに呼応するのです」と言う傾向が強いですよね。でも、それは象徴的な意味でしかありません。私が引き起こす相互依存の関係性の中では、「実際に」影響し合う関係をつくれればと思います。
自分のつくった作品同士でやるのは簡単ですが、それでは(視野が)狭くなってしまう。どこまでやれるかはわかりませんが、少なくともそういう挑戦はしてみたいですね。