ヴェネチア・ビエンナーレ日本館、草間彌生展のインパクト
林 建畠さんは1990年、93年とヴェネチア・ビエンナーレ日本館のコミッショナーに指名されましたね。1回目は村岡三郎と遠藤利克、2回目は草間彌生の個展形式でした。
建畠 村岡、遠藤の両氏はいまも非常に敬愛していますが、じつは最初に考えたのは草間さんの個展でした。僕はずっと、草間さんはモダニズム・オーソドックスの中核をなす重要作家であると考えてきました。ただし当時、国際交流基金が日本作家の海外展を助成する対象は、グループ展だけだった。ですから自分たちがヴェネチアで個展をやってはそこに矛盾が生じるという考えがあったようです。篠山紀信の回(1976、コミッショナーは中原佑介)も、磯崎新がインスタレーションをやるという条件で、いわば二人展だったわけです。でも、村岡、遠藤の回も、僕からしたらある意味、シンクロする問題を抱えた、同じ方向性を鮮明にした二人展だったのです。それはそれで重要な意味があったと思っていますが、当時コミッショナーは2回続けてやるという不文律があったので、次に向けてずっと個展をやろうと働きかけて、やっと認められたのが草間の回です。
逢坂 私は基金には85年くらいまでいたと思いますが、草間さんのときはICA名古屋で働き始めていて、そのときに草間展を観に行ったと記憶しています。草間展の後は、日本館で個展形式も増えましたね。
建畠 僕は当時、個展は選択肢ではなく、とにかく個展にすべきだとずっと言っていました。でもその後、95年に伊東順二がグループ展にして(日比野克彦、河口洋一郎、崔在銀、千住博)、あれはあれでひとつの方法だったのでしょう。
林 当時は個展実現のハードルに加え、女性であること、また草間さんの抱える精神的な病への偏見などもあったのではないでしょうか。それらも含め、今日に通じる重要な視点がいくつもあったと思います。
建畠 例えば次回のヨコハマトリエンナーレでは、芸術監督がインドのラクス・メディア・コレクティブに決まりましたね。彼らはユニットで、日本以外のアジア出身で、女性メンバーが入っている。そのどれかひとつでも、あの規模の日本の国際展で達成できたらと思っていたら、一気に実現した感じです。こういうことはタイミングがあって、草間さんもそれが実現できる時期だったのだと思います。
逢坂 ヴェネチア・ビエンナーレ全体ではすでに女性作家たちも国別パビリオンに出ていましたが、草間さんの回でとにかく覚えているのは、展示のインパクトがダントツだったのですね。草間さん自身もとんがり帽子をかぶって、黄色を基調にしたドットの衣装で現れて、パビリオンもアーティストもインパクトが圧倒的だった。賞をとるとらないは関係なく、あれを起点に彼女の存在が世界に広く認知されていったのは確かだと思います。
林 石内都さんの回(2005)もそうだったのではと思いますが、ヴェネチアに出ることは、マーケットだけでなく、とくにヨーロッパの美術館が展覧会でピックアップしていくなどして、世界に出ていく機会になりますね。
建畠 たしかに。草間さんはヴェネチアの後、まずロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)から連絡が来て、そのすぐ後にMoMAで展覧会の話になった(1998年、LACMAとMoMAでの「Love Forever: Yayoi Kusama 1958-1968」展)。以降、日本館では石内や内藤礼(1997)、やなぎみわ(2009)、束芋(2011)など女性も続き、そうした意味でも草間さんはシンボリックな意味合いを持っていると感じます。
21世紀の「共生」を
林 同時に、ヴェネチアでは逢坂さんをはじめとする女性キュレーターの選出が続いたことも大きいのではないでしょうか。その際のお話もぜひうかがいたいところです。
逢坂 私が担当したのは2001年で、「ファースト&スロウ」をテーマにした3人展です。21世紀最初の年でしたから、そのこともふくめて日本館の作家を考えました。ダメでもともとという気持ちである作家の個展を想定してお願いにうかがいましたが、やはりダメでした(苦笑)。でも助言を頂き、それは「21世紀は個を超えて共生が重要になるから、個展ではなく複数作家の方が良い」というものでした。
最終的にはこの助言も参考に、用いるメディアの異なる3人を選びました。畠山直哉、中村政人、藤本由紀夫の各氏で、つまり写真と現代美術とサウンドアート。これが功を奏したかどうかはわかりませんが、やはりいまお話に出たように、ヴェネチアは世界への認知が広がるきっかけの場だと言うことは実感しました。その後に藤本さんがヨーロッパでのグループ展に招聘され、畠山さんがヨーロッパでより広く認知されるようになったのは嬉しかったですね。でもその後、9.11で共生とは対極的な力の対立が世界を覆うようになるとは、2000年に準備していたころ想定できませんでした。
林 80年代から90年代前半を通して、白人男性による絵画・彫刻の殿堂たる美術館に、だんだんと非白人、非ヨーロッパ系、女性、写真表現などの存在が入っていく。その中で草間さんの登場は非常にタイムリーでした。さらに90年代はロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)を皮切りに日本では世田谷美術館にも巡回した「パラレル・ヴィジョン 20世紀美術とアウトサイダー・アート」展(1992〜93)のように、精神世界や障がい者による表現なども紹介されるようになります。ここにも今日につながる種があったのではないでしょうか。
建畠 草間さんはモダニズム・オーソドックスの中核作家であると同時に、アウトサイダー・アートという側面もある。その2面性がひとところに向かっている作家と言えます。「パラレル・ヴジョン」とその少し前の「オープン・マインド」展(1989)は、両者ともアウトサイダーを扱いながら、まったく違う展覧会だった点も印象的です。「オープン・マインド」を企画したヤン・フートはお父さんがベルギーの精神科医で、マグリットのカンセリングなどもしていたそうです。このお父さんは第2次世界大戦後に、精神病院の患者を各家庭に差し戻す運動を始めています。これはいまでも用いられる療法で、なるべく拘束などをせずに一般病棟から家庭に戻す。フートが「プロの医者でも治せない患者を、病院から引き離したらもっと悪くなるのでは?」と父に聞いたところ、「患者のためだけにやっているのではない、社会のためにやっている」と答えたそうです。
林 どういうことでしょうか?
建畠 つまり、社会のなかに他者がいることでこそ、健全な社会が成り立つという考え方です。そして、そのことがフートの記憶に残っていた。ドイツではかつてナチが優生思想からユダヤ人だけでなく、心身に障がいを持つ人々の命を奪った歴史があります。その状況を見ていた精神科医たちだからこそ、こうした運動をしたのだと思うのです。
「オープン・マインド」展では、入口に何ヶ国語も使って「すべての優れた芸術は人々を不安に陥れる力を持っている」とある。それを見て、「パラレル・ヴィジョン」と同じ発想を共有しつつ、根本的に違っていると感じました。つまり、僕らがアウトサイダー・アートの天才だと思っているゴッホや草間彌生は、それでも時代に属していた。ある時期に現れ、弁証法的なダイナミズムの転換点を用意した、時代的な存在だということです。ところがアウトサイダーの絵は、1000年前のものもいまのものも変わらない。2、3歳の子供の絵も同じ。つまり時代に属していないと。それをヤン・フートは「クローズド・サーキット」と言い、対して草間やゴッホはオープン・マインドだというのです。
いっぽう「パラレル・ヴィジョン」では、その両者を区別せず、境はありませんよとした。パウル・クレーなんかが「写し」をいっぱいやっているのを見せて、それを証明してみせる。ふたつの展覧会のどちらの視点が良いのかは僕にはわかりません。精神病患者らもまた時代に属しているという主張もある。ただ、どちらの企画も大変興味深かったのは確かです。ともあれ、ヤン・フート的に言うなら、草間はニューヨークに必然的に現れ、抽象表現主義のミニマルからポップへの転換期に必要な役割を果たした、弁証法的な存在だった。
林 語られにくい部分に注目した点では、逢坂さんが水戸芸術館現代美術センター時代に手がけた、「水戸アニュアル’97 しなやかな共生」展も忘れてはならないと思います。
逢坂 「水戸アニュアル」は、現代美術の最先端の紹介を目指す同センターの企画のなかでも、とくにいま私たちが生きている時代との関係性を鮮明に打ち出そうとした企画です。そしてこの時期、世の中に「優しい」「共生」といった言葉が頻繁に使われるようになっていたのですね。例えば「優しい政治」のような感じで。阪神淡路大震災があったのもこのころ(1995年)です。
でも私には、そうした言葉だけが先行して、実態は直視されていないのではとの思いがありました。私たちは何をもって共生というのかを考えるうえで、まずは互いの違いを見せる、知ることかなと思ったのです。それで、多様な人種の作家を招き、男女比を同じにし、またこのころ広く知られるようになってきたエイズに関連する視点を入れるなどして企画を進めました。
逢坂 石内都、嶋田美子ら日本人作家と、外国人作家の数も同じにしました。パーミンダー・コーは「ブリティッシュ・ナウ」で知った作家ですが、インドからの移民です。デイヴィッド・ハモンズは公民権を獲得するまで、パブリックスクールに通っていてもプールに入れなかったそうで「だから自分たち世代の黒人は泳げないんだ」と話していました。他にも障がいに対する偏見、被害者と加害者の意識の違い、韓国や中国の問題など、自分たちが常識だと思っている見方に揺さぶりをかけて、異なる見方を提示することを目指した展覧会でした。
日本のアジアへのまなざし──福岡アジア美術館
建畠 広く言えばダイバーシティということになるでしょうが、多文化主義を背景に日本でも東南アジアブームがきて、福岡市美術館の開館展がアジアの美術展でした(「アジア美術展第1部 近代アジアの美術:インド・中国・日本」、1979)。これが福岡アジア美術トリエンナーレに発展し、さらに福岡アジア美術館の誕生(1999)につながる。ですから始まりは福岡なのです。また、1990年に国際交流基金アセアン文化センターができて、立て続けにアジアの動きが紹介されるなかで、タイの作家、モンティエン・ブンマーのようなキーパーソンが出てくる。80年代前後はそうした状況も進行していました。言ってみれば、世界でアジア美術がブームになる前に、日本にはすでにそれを迎える素地があったわけです。国際交流基金の先行的な取り組みも関係しているでしょう。まだアジア作家に対する過小評価に直面する場面も少なからずあった時代ですが、第1回の横浜トリエンナーレ(2001)でも、僕は自分の役割分担はアジアの作家だと勝手に決めて、そうした作家を中心に担当しました。
林 第3回アジア・パシフィック・トリエンナーレにも関わり、横浜トリエンナーレにおいては第4回以降(運営主体が横浜市に移動)を牽引なさってきた逢坂さんは、このあたりの動きをどうとらえておられますか。
逢坂 国際交流基金のそうした姿勢は、国として、アジアと積極的に関わろうというものだったと思います。また私自身、アジアの美術館や作家たちと関わるようになって感じるのは、やはり福岡が先進的にアジアへ目を向けてくれていたということです。福岡アジア美術館の当時の後小路雅弘学芸員、黒田雷児学芸員たちの名前は、アジアの作家に浸透していました。現在国際的に活躍中の作家たちからは、若い頃から日本の学芸員が調査に来てくれたことに謝意を示されますし。
林 その点からも、福岡アジア美術トリエンナーレがいま休止しているのは残念ですね。もちろん色々な事情があると思いますが、歴史も評価もある試みですから。
これからの美術館が目指すこと
林 最後に、美術館館長であるおふたりに、2020年代を迎える日本の美術館のミッションについてうかがえればと思います。
逢坂 ひとつは、美術館が社会に根付いて浸透していくために、美術館の制度をよりフレキシブルにすることでしょうか。例えば、学芸員だけを専門家として配置するのではなく、海外の美術館並みにレジストラーなどを配置するなど。またはショップやカフェを活かして収支を支えようというのなら、その領域の専門家を雇う選択もあり得るでしょう。そのように、美術館で働く人々が専門家として配置され得る内部制度をつくるべきだと思います。海外の美術館では契約担当、キュレーター、エディター、設営専門のテクニシャンなどがいますが、日本では学芸員がひとりで多種多様な交渉を行い、そうした多様な相手とも自分ひとりで打ち合わせしなくてはならない。比較的規模の小さいところなど、それはそれでよい場合もあるとは思うのですが。
林 ここでまた1989年に戻れば、この年に広島市現代美術館ができて、周辺の時期に現代美術を扱う館がかなり増えました。当時から30年が経ち、施設の老朽化も進んでリニューアルするところもあります。いっぽう、当時に学芸員として働き始めた方々の多くが定年を迎える時期になり、大きな世代交代の時代にもなっていくと思います。そのなかで新たなマネジメント体制がとられ、美術館が成熟していくべき時期ではないでしょうか。
逢坂 その際も、美術館で女性の働き手が増えてきたのは大きなポイントかと思います。出産や育児ということではどうしても女性側により負荷がかかりますから、その点でもフレックスタイムやワーキングシェアなども取り入れていく必要はあると思います。
建畠 国立、私立の大きな美術館の館長に、馬渕明子さん(国立西洋美術館)、逢坂さん(国立新美術館)、片岡真実さん(森美術館)と3人の女性が就任したのが、僕は偶然とは思えないのです。実際いまはキュレーターも女性が多いから、男女比率を半々にしましょうなどと言うと、かえって女性が損をするような状況ですよね。もちろん昇進の問題などは別にありますが。加えて言えば、他国からの人材ももっと受け入れるべきではと思います。日本に美術館が400館以上もある状況で、館長はすべて日本人のみという現状は、国際的に見ても多様性や人材交流の点から議論に上がっていいのではないでしょうか。
林 まだまだうかがいたいことはありますが、今回はここまでとさせて頂きます。改めて、ありがとうございました。この要の年におふたりにこうしたお話をうかがえたことが、今後につながればと願っています。