悪は、悪魔や堕天使の姿になってこの世に落ちてくるずっと前に、すでにひとつの名をもっていた───気散じである。
マンフレート・シュナイダー (*1)
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テレビをつける。パソコンを開く。スマートフォンやタブレットのロックを解除する。これらはいずれも、現代の情報環境下で「動画(ムービー)」を見るための最初のステップだ。それは美術館の展示空間に入ることとも、映画館の暗闇に身を沈めることとも違う。これらの情報機器はわたしを取り巻くいつもの環境のなかに、日常という連続的な時間の流れのなかに、モノとして埋め込まれている。テレビやパソコン、スマホやタブレットを操作して動画を見ることは、したがって、そうした環境からの一時的な離脱ないしは中断を意味しない。動画を見るわたしは、日常的な環境から切り離されることなく、むしろ日常のなかにますます深く沈み込んでいく……。
テレビやパソコンの画面で動画を見ながら、わたしはソファに寝そべり、お菓子を食べ、ビールを飲み、ときおりトイレにも行く。あるいは電車の座席に座り、揺られながら、眠りながら、スマホで動画を見る。タブやウィンドウを次々に開いてはそれらに目をやり、SNSの感想を追い、残り時間を気にし、片手間に日々の雑事をこなす。アニメ、ドラマ、ニュース、ライブ、ダンス、ゲーム実況、歴史考察……。動画を見るわたしは、だらしなく、徹底的に、環境のなかに溶け込んでいる。動画を見ること以外のさまざまな物事に、潜在的に注意をさまよわせている。
わたしは気の散った状態で動画を見る──。これが動画を見ることの第一の前提だ。わたしはテレビやパソコン、スマホやタブレットの画面に、完全に意識を集中しているわけではない。たとえ没入しているように見えたとしても、わたしの注意は環境のあちこちに拡散している。あるいは少なくとも、いつでもすぐに転換しうる状態に置かれている。このような知覚のあり方を「気散じ」と呼ぼう。
これからわたしは、このひどくありふれた心理現象を手がかりに、現代社会における人間のありようを探っていく。かつてもいまも、自分自身を見失わせる「心の弱さ」とみなされてきた気散じだが、そこにはわたしたちの主体性をばらばらに解体し、集団へと溶け込ませることで、文字通りの「革命」を可能にする理論的ポテンシャルも秘められている。カントとベンヤミン、それに現代の心理学者や哲学者たちの議論を渉猟しながら、いわば「寝そべってスマホで動画を見ることの革命性」について考えていこう。
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わたしたちが日々実感しているように、いまや気散じは、現代の高度情報化社会を生きる人間のデフォルトになりつつある。心理学者・情報科学者のグロリア・マークは、パソコンとインターネット、そしてスマホの爆発的な普及によって「さまざまなアプリ、画面、デバイスのあいだで集中先を頻繁に切り替える新しいタイプの行動が見られるようになった」(*2)と指摘している。現代人の注意力はかつてなく切り詰められ、ひとつの画面への集中持続時間は20年前の3分の1以下にまで短縮された。わたしたちは平均してわずか47秒で、別のアプリ、別の画面、別のデバイスへと注意を次々に拡散させている(*3)。マークはこうした注意のあり方を「動的集中(kinetic attention)」と名づけているが、これはまさに気散じの全面化にして過剰化、ハイパー気散じともいえる状況だ。
もちろん、気散じそのものは決して新しい現象ではない。たとえば18世紀ドイツの哲学者カントは、有名な三批判書のあとに著した晩年の講義録『実用的見地における人間学』(1798)のなかで、気散じをこう定義している。
気散じ〔Zerstreuung〕(distractio 拡散)とは、注意の分散によって、いま意識を支配している何らかの表象から他の異種の表象へと注意が転換される(abstractio 奪去)状態をいう。(*4)
ここでいわれる「表象(Vorstellung)」とは、五感を通じて得られた感覚的データが整理・統合されて意識のうちに現れたもの、ざっくりいえば対象の心的イメージのようなものだ。わたしの意識を占めているひとつの表象から、それとは異なる別の表象へと注意を分散ないしは拡散させること──さしあたってこれが、カントのいう気散じである。
カントはさらに、気の散った状態を意図的な「気分転換(Disspation)」と不随意的な「放心(Abwesenheit)」の2種類に区別している。放心の具体例として挙げられているのは、小説好きの女性たちの「習慣化した気散じ」だ。カントにいわせると、小説を読みふけることは「放心状態=精神の不在〔Geistesabwesenheit〕(現在に対する注意の欠如)」をもたらし、記憶力の減退をはじめ日常生活にさまざまな悪影響を及ぼす。というのも「頭のなかの想像の流れが断片的となり、その結果同じひとつの対象についての表象が散漫に(sparsim ばらばらに)なって、悟性の統一に則ってつなぎ合わされる(conjunctim 一致して)のではなくて、心のなかで戯れる〔spielen〕ことになる」(*5)からだ。
パソコンやスマホで動画を見るわたしも、表象を自由に遊ばせる。注意が散漫になり、いつしか放心状態になる。カントの時代、18世紀に小説に夢中になったヨーロッパのご婦人方のように。だが、ここには明らかに否定的な──そして性差別的な──ニュアンスがある。それは気散じに関する記述が「認識能力における心の弱さについて」と題されていたことからもうかがえる。カントは小説への耽溺を忌むべきものと考えた。ましてや動画を、しかも気の散った状態で見ることは、彼にとって「悪」でしかないだろう。実をいうと、わたしはソファに寝っ転がってアニメを見るのが大好きなのだが……。
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カントに限らず、西洋のほとんどの哲学者や思想家は、気散じを克服すべき「心の弱さ」として捉えてきた。たとえば「アメリカ心理学の父」とも呼ばれる19世紀の哲学者ウィリアム・ジェイムズは、気散じを「混乱し、ぼんやりして、脳内が散らかった〔scatter-brained〕状態」(*6)と呼び、意思の力によって注意を集中することの重要性を説いた。あるいは20世紀最大の哲学者ハイデガーも、現存在(人間)が「本来的自己」を見失い、日常性のうちに「頽落」している非本来的な存在様態のひとつとして気散じを挙げている。気散じとは「めまぐるしく移り変わる新奇と変化による活動と興奮を求める落ち着きのなさ」であり、これによってわたしたちは「絶え間なくその根源を喪失していく」(*7)のだという。これは5世紀の神学者アウグスティヌスからハイデガーへと引き継がれたものだ(*8)。
気散じに対するこうした疎外論的な見方は、21世紀の現代においても変わらない。というより、デジタル化に伴うマルチタスクの常態化や、ユーザーの注意を奪い合うアテンション・エコノミーの急速な発達によって、いまや気散じこそが、わたしたちにとって最も危機的(critical)な課題として再発見されつつある。都市部の書店をのぞいてみれば、すぐに気がつくはずだ。注意力の減退に警鐘を鳴らし、失われた持続的な集中を取り戻す──そして「生産性」を高める──ための啓発書やら解説書やらが、文字通り山ほど積まれていることに。
こういった傾向は狭義の自己啓発書にとどまらない。哲学者の谷川嘉浩は『増補改訂版 スマホ時代の哲学』(2025)のなかで、現代の「常時接続」環境がいかにわたしたちの注意を拡散させ、自分自身と向き合うことを妨げているかを警告する。彼が読者に呼びかけるスローガンはこうだ。「注意の分散に抵抗せよ、孤独を持て」(*9)。あるいはジャーナリストのヨハン・ハリも、わたしたちの注意を搾取するテック企業から持続的な集中力を奪い返すための社会運動、名づけて「アテンション・リベリオン(注意力の反乱)」(*10)の必要性を訴える。
先に触れたマークをはじめ、心理学者や神経学者たちはもうちょっと穏当だが、それでも彼らとおおむね同意見だ。わたしたちは「古代の脳でハイテク世界を生きている」(*11)ため、注意の分散や分割、持続といった認知制御には一定の限界がある。マルチタスクは限りある認知リソースを大量に消耗させ、現代人の疲労やストレスの原因となっている。したがって重要なのは、自らの行動を適切に管理しうる「主体性(agency)」を育むことだ。「主体性を身につければ」とマークは記している、「高いレベルの集中力でタスクを完了させ、戦略的に集中状態をコントロールし、バランスを取りながら『動的集中』を有効活用することができる」(*12)。
*1──マンフレート・シュナイダー『時空のゲヴァルト──宗教改革からプロスポーツまでをメディアから読む』前田良三・原克・高木葉子訳、三元社、2001年、12頁。訳文は一部変更した。
*2──グロリア・マーク『ATTENTION SPAN──デジタル時代の「集中力」の科学』依田卓巳訳、日本経済新聞出版、2024年、21頁。
*3──同書、110頁。
*4──イマヌエル・カント「実用的見地における人間学」、『カント全集15 人間学』渋谷治美・高橋克也訳、岩波書店、2003年、140頁。傍点原文。〔 〕内は引用者による原語の補足(以下同)。なお訳文はドイツ語原文を参照して一部変更した。
*5──同書、142頁。傍点原文。
*6──William James, The Principles of Psychology, Vol. 1, New York: Holt, 1890, p.403.
*7──マルティン・ハイデッガー『存在と時間』上巻、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、367頁。
*8──アウグスティヌスは『告白』(397-400頃)第10巻の第30章から40章にかけて、さまざまな誘惑により神への信仰が逸らされてしまう──つまり気が散ってしまう──ことの苦しみを告白している。本稿では触れる余裕はなかったが、気散じの問題は本来、キリスト教における神への祈り(精神集中)を妨害するものとして語られてきた。17世紀の哲学者パスカルがアウグスティヌスから受け継いだ「気晴らし(divertissement)」批判もそのひとつだ。エピグラフに引いたマンフレート・シュナイダーの一節は、西洋のそのような文脈を踏まえたシニカルな表現である。
*9──谷川嘉浩『増補改訂版 スマホ時代の哲学──「常時接続の世界」で失われた孤独をめぐる冒険』ディスカヴァー携書、2025年、152頁。
*10──ヨハン・ハリ『奪われた集中力──もう一度“じっくり”考えるための方法』福井昌子訳、作品社、2025年、300頁。
*11──アダム・ガザレイ、ラリー・D・ローゼン『私たちはなぜスマホを手放せないのか──「気が散る」仕組みの心理学・神経科学』河西哲子監訳、成田啓行訳、福村出版、2023年、28頁。原文の強調太字を傍点に変更した。
*12──マーク、前掲書、288頁。
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現代の高度な情報環境に適応するため、あるいは「本来的自己」に立ち戻るために、こうした提言が役立つことはまちがいない。それらはまさに注意を集中して読んだり聴いたりすべきもの、つまりハイデガーのいう「傾聴(Hören)」に値するものだ。三島由紀夫が聴衆に求めていたのもこの態度だった。「おまえら、聴け。静かにせい。静かにせい。話を聴け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか、それがだ、いま日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば……」(*13)。そうだ、わたしも寝そべってアニメなんて見ている場合じゃない。気散じにあらがい、動的集中をコントロールして、自分のなすべきことをなさなければ──。
けれど、そんなわたしの脳裏を不意に小さな疑問がかすめる。読書や演説の内容から注意が逸れ、つい余計なことを考え始めてしまう。彼らはいったい何を恐れているのだろう。そしてわたしたちは、何に怯えているのだろうか。本が読めなくなること? 過度のストレスによる鬱病、それともバーンアウト(燃え尽き症候群)? そういえば、 COVID-19の後遺症のひとつ「ブレインフォグ」が恐れられたのも、文字通り頭に「もや(fog)」がかかったように思考力や集中力の減退を引き起こす、気散じめいた症状のためだった。そうだとすればやはり、わたしたちはある種の自己喪失、またそれに伴うQOLの低下を恐れているのだろうか。
いや、たぶんそうではないだろう。わたしたちの気がかりは、たんに自分自身が壊れてしまうことではない。ハリやハイデガーが危惧するように「気が散り続け、自分を見失ってしまう」(*14)ことでもない。そうではなくて、この「わたし」なるものが最初から、ばらばらの情報、ばらばらの属性のたんなる寄せ集めにすぎなかったことが恐ろしいのだ。そしてそれゆえに、このわたしとは別の何者かに変わってしまう──もうすでに変わりつつあるかもしれない──ことが不安なのだ。通り魔、テロリスト、陰謀論者、全身にLEDを巻き付けて疾走する中年男性(ドンデコルテ)……。気散じとは、この非連続的な場面転換、自己の拡散と変容を告げる「徴候」である。
だがそうだとすれば、つまり気散じが個体にとって新生への敷居なのだとすれば、逆にこれを肯定的に捉えることもできるのではないか。わたしたちが(またしても)日々実感しているように、自分自身であることの安堵は、自分自身でしかないことへの諦念とつねに表裏をなしている。そして気散じとはまさに、この自意識の球体を粉々に打ち砕き、撒き散らしてしまうものでもあった。それはいってみれば、恐るべき自己解体の経験であると同時に、ある種の自己解放=自己救済の契機でもあるはずだ。
事実、気散じに対する神学者や哲学者たちの伝統的な非難をひっくり返し、そこに文字通り革命的な意義を見出そうとした先駆者がいる。20世紀ドイツを代表する批評家のひとり、ヴァルター・ベンヤミンである(*15)。
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今日ではメディア論の古典とみなされている論考「複製技術時代の芸術作品」(*16)(1936)のなかで、ベンヤミンは気散じに「規範的な価値がある」とまで記している。彼の理屈はこうだ。写真やレコードといった機械的な複製技術が登場するまでは、芸術作品に対して鑑賞者が精神を集中する、つまり「観想(Kontemplation)」がスタンダードな芸術受容のあり方とされてきた。ところが、複製技術によって多くの人が芸術作品(もしくはそのコピー)に触れられるようになると、大衆による気の散った受容が主流になっていく。
同時代の哲学者たち、たとえばハイデガーやアドルノとは対照的に、ベンヤミンはこうした変化をむしろ積極的に評価した。彼はその理由を次のように説明している。
歴史の転換期において人間の知覚器官=装置が直面する課題を、たんなる視覚、つまり観想という手段によって解決することはまったく不可能なのである。それらの課題は、触覚的受容の導きによって、慣れを通して、少しずつ克服されてゆく。慣れることは、気の散っている人にもできる。のみならず、ある課題を気の散った状態で克服しうるようになって初めて、その解決に慣れたことがわかる。(*17)
ここでは気散じが、たんなる注意の拡散や分散というよりも、むしろそれを可能にする技術的・身体的条件という観点から捉え返されている。その条件とはすなわち、なんらかの課題解決に「慣れる」ことだ。たとえば自動車の運転について考えてみよう。脇見運転や居眠り運転は事故のもとだが、そもそも気の散った状態で車を運転するためには、注意がおろそかになるレベルまで操作方法に習熟する、つまりは慣れる必要がある。自動車をほとんど意識せずに、自分の身体の延長のように扱えるようになって初めて、脇見や居眠りをする余裕が生まれるというわけだ(*18)。
ベンヤミンが想定している「人間の知覚器官が直面する課題」も、基本的には自動車の運転と変わらない。それは一言でいえば、機械的な複製技術を含む同時代の高度なテクノロジーに慣れることだ。ここで彼が具体的に念頭に置いていたのは、たとえば近代的な大都市の交通が引き起こす知覚的刺激の奔流である。「大都市の交通のなかを動いてゆくことは、個々人にとって一連のショックと軋轢を生み出す。危険な交差点で、神経刺激の伝達がバッテリーからの衝撃のように、次々と体を貫く」(*19)。通行人たちは「意識を備えた万華鏡」のようにめまぐるしく注意を転換し、あちこちに分散させなければならない。これはマークのいう動的集中そのものだ。
ベンヤミンの複製技術論がユニークなのは、こういった知覚的課題を克服するための「練習道具」として映画を取り上げたことにある。彼の考えでは、映画には大都市の交通が引き起こすのと同じ「身体的なショック作用」が備わっている。映画の場合にこのショックをもたらすのは、シーンやショットの切り替えによる観想の強制的な中断である。伝統的な絵画とは対照的に、映画の観客たちは「自分の連想の流れに身を委ねる」ことができない。なぜなら「画像が目に入ってくるやいなや、もうそれは変化してしまっている」からだ。「画像を眺める者の連想の流れは、その変化によってたちまち断ち切られる」(*20)。この中断がショックとして経験され、観客の身体を少しずつ組み替えていく。
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映画のショック作用に慣れることで、近代化に伴う知覚的刺激の増大に適応し、気の散った状態で受容できるようになる──さしあたってはこれが、ベンヤミンによる気散じ擁護の理屈である。その先に彼が思い描いていたのは、現代の高度なテクノロジーを「器官」とする「集団的身体」を生み出し、自然と人類の「共演=共同遊戯(Zusammenspiel)」を成し遂げるという壮大な構想だった(*21)。彼にいわせれば、革命とはこの適応を加速するプロセスであり、集団=身体に流れる「神経刺激」なのだという。
この謎めいた革命理論についてはいったん措こう。ベンヤミンがいまから1世紀近く前、いわゆるフォーディズムの時代に取り上げた論点のいくつかは、ポストフォーディズムと呼ばれる21世紀の現代社会でも引き続き論じられている。映画のショック作用もそのひとつだ。いまや「1日10時間近く」(*22)テレビやパソコン、スマホの画面を見ている現代人にとっては、当時の映画よりもはるかに大きな影響を及ぼしているかもしれない。
マークが参照している2011年の調査によると、映画のショットの長さはここ数十年、ますます短くなってきている。複製技術論が書かれた1930年代には、ひとつのショットの長さは平均12秒ほどだったが、2010年以降はついに4秒弱にまで短縮された(*23)。この傾向は劇場公開の映画だけではなく、テレビ番組やCMなどでも変わらない。YouTubeで人気のミュージックビデオにいたっては、わずか2秒弱で次々とショットが切り替わっていく。
ショット自体の短縮化に加え、ノンリニア編集やジャンプカット、フラッシュカットといった不連続的な編集技法が多用されることも、動画1本あたりの知覚的刺激の増加に拍車をかけている。「知覚情報が集中砲火のごとく投じられ、さまざまな内容が目まぐるしいスピードで画面を駆け抜ける。まるでジェットコースターに乗っているかのようなこの種のすばやいカットの目的は、視聴者の視覚的な混乱を作り出すことにある」(*24)。わたしたちの注意は激しく揺さぶられ、ばらばらに砕け散って、もはや観想や連想の糸口さえつかめない。そうやって動画を1本見終えたかと思えば、別の似たような動画へと自動的に移り変わり(あるいはついスワイプしてしまい)、気づけば数十分、ときには数時間経っていることだってざらだ。
マークはベンヤミンを彷彿とさせるような口ぶりで、動画におけるショットの短縮化と各種デバイスへの集中力の短時間化、つまり気散じとの相関関係を示唆している。「数十年前は映画の1ショットはもっと長かったが、いま、観客の集中力は次々と切り替わるシーンにも対応できる。なぜなら、デバイス上で、ある画面から関連のない別の画面に移ることに慣れているからだ」(*25)。動画のショットが年々短くなるのと並行して、わたしたちの注意力もますます短く、ますます細切れになっていく。そこでは「人々の集中持続時間が短くなり、社会や文化がその流れに従って、人々の集中持続時間を短いままに保つ条件を作り出す、というサイクル」(*26)が高速で回り続けている。
先ほど見た通り、哲学者や心理学者たちはこのサイクルをなんとか押しとどめる、もしくはそこから抜け出す方法を探している。こういった動画にはマルチタスクや動的集中の「練習道具」としての側面もあるのかもしれないが、認知リソースを消耗することには変わりないし、それによって衝動的な行動が抑えられなくなるという実験結果もあるからだ。このままでは持続的な集中力を喪失し、自分自身すら見失って、猛烈な知覚的刺激に反応するだけの「自動人形」になってしまうだろう。現代の機械装置(デバイス)に慣れることは、結局のところ、バルファキスのいう「テクノ封建制」のクラウド農奴、いやクラウド家畜としての運命を受け入れることでしかない(*27)。いまこそわたしたちは、主体性を回復し、あるいは社会運動を組織して、自分自身を取り戻さなければならない……。
ところがベンヤミンは、こうした変化をむしろ加速させる──とまではいかなくても、少なくとも容認しているように見える。たしかに彼も革命を志向してはいたが、それはテック企業に奪われた集中力を取り戻すとか、人間らしい社会を実現するとかいった、いかにも大都市の知識労働者が好みそうな、意識の高い「リベリオン」とはかなり趣が異なるものだった。というのも彼は、機械装置によってわたしたちの自己意識がばらばらに拡散してしまうことを、自然との「共演=共同遊戯」の前提条件として織り込んでいたからだ。それはいってみれば、機械の奴隷/家畜による、奴隷/家畜のための解放=救済である。人類の身体が新たなテクノロジーに適応したとき初めて「機械装置への奉仕という奴隷状態に代わって、機械装置を通じての解放が生じるだろう(*28)」とベンヤミンは記していたが、それは裏を返せば、そのときまでわたしたちは「奴隷状態」に置かれ続けるということでもある。
*13──「【HD映像】三島由紀夫── “三島事件”最後の演説〜Yukio Mishima last Speech "The case of Mishima."」、 HISTORY CHANNEL、2017年8月21日[最終閲覧2026年5月22日]。https://youtu.be/JiA4HS39eRY?si=MsiDAjswwO-sDece
*14──ハリ、前掲書、289頁。
*15──もちろん、気散じを積極的に評価しているのはベンヤミンだけではない。たとえば映画研究者のミリアム・ブラトゥ・ハンセンは、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」を発表するちょうど10年前に、ジークフリート・クラカウアーが気散じを肯定的に取り上げていたことを指摘している。ミリアム・ブラトゥ・ハンセン『映画と経験──クラカウアー、ベンヤミン、アドルノ』(竹峰義和・滝浪佑紀訳、法政大学出版局、2017年)の第1章および2章を参照。またパスカルに影響を与えたモンテーニュも、人間の避けられない運命や自分の悲惨さから意識を逸らすための知恵として「気を逸らすこと(diversion)」を重視していた。モンテーニュ『エセー』第6巻(宮下志朗訳、白水社、2014年)の第4章を参照。けれど本稿で見るように、ベンヤミンの気散じ擁護には彼らと根本的に異なる側面がある。それは良くも悪くも、彼がカント的な「人間」を解体・変容させる契機としてこれを捉えていた点だ。そういう意味では、むしろ気散じ否定派のハイデガーに近いといえるかもしれない。なお『ベンヤミン・アンソロジー』編者の山口裕之によれば、気散じと精神集中を対立させる複製技術論の基本図式は同時代のフランスの作家ジョルジュ・デュアメルに由来するらしいが、理論的にはるかに重要な参照元は明らかにカントだろう。ヴァルター・ベンヤミン「技術的複製可能性の時代の芸術作品(第三稿)」(『ベンヤミン・アンソロジー』山口裕之訳、河出文庫、2011年)357頁の注22を参照。
*16──ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」には1935年の第1稿、36年の第2稿、39年の第3稿の3種類のドイツ語稿と、第2稿をもとにしたピエール・クロソウスキーによるフランス語訳の存在が知られていたが、2008年にドイツで刊行がスタートした『ヴァルター・ベンヤミン新批判版全集』には、第1稿に先立つ草稿が新たに第1稿として収録されており、ナンバリングがひとつずつズレることになった。『思想』2018年7月号(1131号)所収の「技術的複製可能性の時代における芸術作品 第一稿」に付された竹峰義和の訳者解説を参照。なお本稿では基本的に、ベンヤミンの意向を最もよく伝えているといわれる1936年成立の旧第2稿(新第3稿)を取り上げる。
*17──ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、『ベンヤミン・コレクション1──近代の意味』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年、625-626頁。原文の強調太字を傍点に変更した(以下のベンヤミンからの引用も同様)。複製技術論からの引用は原則的に上記の邦訳から行うが、訳はドイツ語原文を参照して一部変更している。
*18──これは認知心理学の枠組みでいえば、練習による知覚–行為のフィードバックループを通じた「身体スキーマ」の形成に当たる。嶋田総太郎編『認知科学講座①心と身体』東京大学出版会、2022年。とくに第8章を参照。
*19──ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」、『ベンヤミン・コレクション1』、449-450頁。
*20──ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、639-640頁。
*21──集団的身体の組織化や自然との共演=共同遊戯をもたらす理論的なプロセスは、複製技術論のなかではほとんど触れられていない。そもそも集団的身体という発想自体、とくに何の説明もなく議論の前提に置かれているが、これはベンヤミンが1920〜30年代ごろに取り組んでいた「人間学的唯物論」の中核をなす考え方だ。「精神物理学的問題の見取り図」と題された当時の断片的なメモによると、人間の生きられた「身体(Leib)」は物体としての「肉体(Körper)」と違って実体をもたず、むしろ「精神(Geist)」と同じものなのだという。この「身体=精神」は歴史的瞬間に立ち現れるひとつの形態(ゲシュタルト)であり、個体としての人間を超えて「人類の身体」へと成長していく。そして人類の身体のうちには「生きている者たち全体のほかに、部分的には自然、つまり無機物や植物、動物を、人類の生の統一を形作る技術によって取り込むことができる。最終的に人類の幸福に役立つものすべては、人類の生、人類の四肢の一部となる」。Walter Benjamin, "Schemata zum psychophysischen Problem," Gesammelte Schriften, Bd. 6, Herausgegeben von Rolf Tiedemann und Hermann Schweppenhäuser, Suhrkamp, 1985, p.80. 複製技術論における集団的身体は、この「人類の身体」という宇宙論的な思弁をマルクス主義の文脈に置き換えたものだ。気の散った状態で映画を見ること、映画のショック作用に慣れることは、非人間的な機械装置を「人類の幸福に役立つもの」として、集団的身体のうちに技術的に取り込んでいくことを意味する。それによって生じるものが気散じだとすれば、この身体を動かすのはどのような原理なのか。これがわたしたちの最終的な問いとなる。ベンヤミンの人間学的唯物論については、ノルベルト・ボルツ、ヴィレム・ファン・レイイエン『ベンヤミンの現在』(岡部仁訳、法政大学出版局、2000年)のほか、三宅晶子「集団としての身体の生成 中期ベンヤミンの思想像」(『現代思想ベンヤミン』青土社、1992年)、鈴木明美「集団の身体・集団の夢──ベンヤミンの「人間学的唯物論」」(『美学』第51巻3号、2000年)、石光泰夫『身体光と闇』(未來社、1995年)などを参照。
*22──マーク、前掲書、250頁。傍点原文。
*23──同書、251頁。
*24──同書、261頁。
*25──同上、傍点引用者。
*26──同書、268頁。
*27──ヤニス・バルファキス『テクノ封建制 デジタル空間の領主たちが私たち農奴を支配する とんでもなく醜くて、不公平な経済の話。』関美和訳、集英社、2025年。とくに第3章を参照。
*28──ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、599頁。傍点引用者。
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ベンヤミンの革命理論に踏み込む前に、ちょっと寄り道していこう。複製技術論の発表からおよそ30年後、1960〜70年代ごろに隆盛したフランス発の映画理論に、通称「装置論(Apparatus Theory)」というものがある。これはラカン派精神分析をベースに、映画の観客を「二重の同一化」という観点から特徴づけるもので、フランスからイギリス、アメリカへと移入されて大きな影響力を持った。
その代表的論者のひとりであるクリスチャン・メッツによれば、観客はたんにスクリーン上の登場人物に同一化するのみならず、スクリーンには現れない撮影装置(カメラ)にも同一化している。観客がカメラの移動による映像の変化(たとえば横回転=パン)に難なくついていけるのは、彼が「撮影者の動きと一体となったものとして、一言でいえば、経験的主体としてでなく、〔映画そのものを作り上げる〕先験的な主体として頭をめぐらし」(*29)ているためだ。メッツはこうした観客のあり方を「全知覚者(le tout-percevant)」とも表現する。
メッツの議論が興味深いのは、このカメラへの同一化が同時に「自分自身への同一化」としても記述されていることだ。映画を見る観客は、自分がスクリーン上の映像(想像的なもの)を知覚していることを知っていると同時に、それを知覚しているのがほかでもない自分であることも知っている。「想像的な被知覚対象というこの素材は私の中に、いわば第二のスクリーンに映るように沈殿するということ、それが行列をなし、統一的に構成されるのは私の中であること」(*30)を知っている。つまり観客は、自分自身が「被知覚対象が知覚されるのに必要な条件」であることを意識しているという意味で、「一種の超越論的主体〔sujet transcendantal〕としての自己に同一化している」(*31)。
メッツはここでラカンの鏡像段階論などを下敷きにしつつ、同時にきわめてカントっぽい、というかカントそのままの超越論的な認識主体をカメラ=観客のうちに見出している。これはまたあとで触れるように、知覚を含むあらゆる表象がそのうちで「行列をなし、統一的に構成される」ところの自己意識、すなわち認識そのものを成立させる根源的な条件としての「超越論的統覚(transzendentale Apperzeption)」のことだ。
メッツにとって映画(シネマ/フィルム)を見ることは、カントに始まる18世紀末以来の「人間」──フーコーが定式化した「経験的=超越論的二重体」──を脅かすものではなく、カメラへの同一化を通じてそれを再発見・再確認させてくれるものだった。「映画〔シネマ〕は、あらゆる社会実践と同じく、それに加わる者の心的装置が十分に構成されていることを必要とする」(*32)。わたしたちはあたかも映画を撮るように、超越論的統覚=カメラのもとで諸々の表象=イメージを統一的につなぎ合わせ、この「わたし」に帰属させることで世界を構築している。そこで自分自身が見失われることはありえない。映画を見るわたしは、映画そのものを作り上げる撮影装置の占める場所、すべての知覚経験に先立ちそれを可能にする超越論的な自己意識(全知覚者)の座に君臨している──はずだった。
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20世紀の映画(シネマ/フィルム)から21世紀の動画(ムービー)への歴史的な転換は、いわばこの超越論的主体が急速に弱体化していく、ラカンやジジェクの用語では「象徴界」が機能不全に陥るプロセスとして整理できる。心理学者たちが「メタ認知」によって自身の行動を制御する主体性の確立を訴えるのは、わたしたちの注意を逸らしてしまう知覚的刺激の洪水、すなわち気散じに対抗できるはずの反省的な認識主体が行方不明になっているからだ(*33)。それは哲学者の東浩紀が「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(1997〜2000)や近年の「触視的平面の誕生」(2018〜19)といった論考でクリアカットに論じている通り、主体を構成する理論的モデルがシネマトグラフのスクリーンからパソコンのディスプレイへ、そしてスマホやタブレットのタッチパネルへと移行するプロセスとしても特徴づけられるだろう(*34)。
けれどこの変化は同時に、ある種の先祖返りでもある。複製技術論で展開されたベンヤミンの映画論は、彼の同時代(1930年代)の物語映画というよりも、むしろリュミエールやメリエスに代表される草創期の映画経験と深く結びついていたことが知られている。
たとえば初期映画研究で知られるトム・ガニングは、ベンヤミンのいう映画のショック作用に依拠しながら、19世紀末から20世紀初頭にかけての見世物的な映画のあり方を「アトラクション映画」と名づけている。それはスクリーン上の急激な視覚的変化を「アトラクション(呼び物=注意喚起)」として売りにする、世紀転換期の大衆娯楽の一形式だった。この種の映画は観客に物語の展開を追わせたり、登場人物に感情移入させたりするものではなく、ほぼ同時期に誕生したジェットコースターと同様に「直接的な刺激、ショックの連続」によってスリルやセンセーションを味わわせるものだった。
1910年代ごろにいわゆる「映画の文法」が確立され、コンティニュイティ編集によって物語を視覚的に叙述できるようになると、アトラクション映画は早々に歴史の表舞台から姿を消していく。けれどガニングのいうように、初期映画を特徴づける「アトラクションの美学」は、後年のハリウッドのスペクタクル大作はもちろん、ミュージカルなどのジャンル映画にもたしかに受け継がれている──というより、いまやこの美学こそが、YouTubeやTikTokに氾濫するおびただしい動画の至上命令となっている。現代美術やメディア・アートで多用されるインスタレーションも同様だろう。そこでは映像や音響、オブジェといった複数の感覚にまたがって展示内容が設計され、気散じを前提とした鑑賞態度が要求される。
これらはいわばアトラクション映画の直系、もしくは隔世遺伝的な末裔であり、メッツらが理論化した「二重の同一化」モデルを無数の知覚的刺激–反応へと発散させてしまう。ガニングは1980年代末に「アトラクション映画は、アウグスティヌスがキリスト教徒としての人生規範にした熟考と警戒心における最大の罪、気散じ〔distraction〕の危険を含んでいる(*35)」と記していたが、これはわたしたちが見てきた問題系そのものだ。
現代社会における気散じの全面化は、物語映画の成立によって一度は抑圧された──それによって「二重の同一化」が生じる余地が生まれた──映画のアトラクション性(身体的なショック作用)がテレビ放送を皮切りに、パソコンとインターネット、そしてスマホの爆発的な普及によって再び回帰してきたものだ。さらにいえば、ガニングの論文冒頭にメッツへの批判的言及が見られるように、1978年のブライトン会議を嚆矢とする初期映画研究の隆盛それ自体が、ラカン派精神分析に基づく装置論の凋落と並行している。カメラへの同一化が超越論的主体を支えるという「グランド・セオリー」は、そもそも精神分析に懐疑的な「認知派(Cognitivist)」の誕生も含めて、1990年代までには持ちこたえられなくなっていた(*36)。
9
1960〜70年代から今日にいたる映画理論の変遷を踏まえると、当時としてはアナクロニズム的だったベンヤミンの映画論が奇妙なアクチュアリティを帯び始める。彼もまたメッツと同様、しかしメッツとは正反対のベクトルで、映画の機械装置のうちにカントの超越論的フォーマットを読み込もうとしていたからだ。複製技術論にはこう記されている。
気の散った状態での受容は、芸術のあらゆる分野においてますます顕著になってきており、統覚の徹底的な変化の徴候であるが、このような受容を練習するのに最適の道具が映画である。映画の持つショック作用は、気の散った状態での受容に対応している。(*37)
ベンヤミンは気散じを、たんなる「知覚」の問題ではなく「統覚」の問題として、しかもその「徹底的な変化の徴候」として捉えている。ここでいわれる統覚とはもちろん、カントが認識の統一的根拠として位置づけ、のちにメッツが映画のカメラに重ね合わせるあの超越論的統覚のことだ。ロドルフ・ガシェが指摘していた通り、ベンヤミンは明らかにカントの認識論、さらには晩年の人間学を下敷きに自らの映画論を構想している(*38)。
「統覚(Apperzeption)」という用語についてあらためて確認しておこう。これは17世紀の哲学者ライプニッツの造語で、語源的にはラテン語の動詞「percipere(つかむ、知覚する)」の名詞形に近接の接頭辞「ad(~のほうへ)」を付けたものに由来するといわれる。つまり「知覚(perception)」に付け加わるもの、付随するものを指す言葉だ。ざっくりいうと、何かを表したり知覚したりしているこの「わたし」の意識、つまり「わたしは考える」という反省的な自己意識に相当する。
カントは『純粋理性批判』(1781/83)のなかでライプニッツの「意識表象(apperception)」概念を換骨奪胎し、わたしたちの認識そのものを成立させる超越論的条件へと作り変えた。先に見たように、この「超越論的統覚」こそが、知覚を含むばらばらの表象を統一的につなぎ合わせ、対象の認識を可能にする究極的な自己意識として位置づけられる。「このような統一がなければ」とカントは記している、「知覚は経験に属することもなく、客体を持つこともなく、観念の盲目的な戯れ〔Spiel〕にほかならず、夢にも劣るであろう」(*39)。これは彼が人間学のなかで、小説好きの女性たちに苦言を呈していた理由と同じものだ。冒頭で見た通り、カントにとって気散じとは、統覚による「統一」がゆるめられ、対象の表象が「散漫」になり、好き勝手に連合して遊び始める「心の弱さ」にほかならなかった。
ベンヤミンはカントのこうした議論を踏まえたうえで、ほとんど「逆張り」的に気散じを擁護している。彼にとって気散じはたんなる弱さなどではなく、むしろ統覚それ自体が変容しつつあることの精神分析的な「徴候(Symptom)」なのだ。かくしてカントが認識の超越論的根拠として理論化した統覚を、ベンヤミンはあっさりと歴史的文脈のうちに投げ入れてしまう。それは個々の人間の生理的条件だけではなく、集団的な知覚のあり方を組織する「媒質(Medium)」の社会的・技術的制約にも依存する、と。彼がメディア論の先駆者とみなされるのはそのためだ。
ジョナサン・クレーリーもまた、統覚による諸表象の統一というカントの認識モデルが近代化の進展に伴い、19世紀後半までに「はっきりと失効した」(*40)と指摘している。にもかかわらず、メッツが映画のカメラに超越論的統覚を割り当てることができたのは、シーンやショットの切り替えによるショック作用を抑圧し、首尾一貫した物語へと変換する編集技法が発明されたおかげだった。初期映画の退場と物語映画の成立が、カントの「人間」を理論上、20世紀後半まで延命させたといえるかもしれない。
逆にいえば、ベンヤミンは初期映画的なショック作用にこだわったことで、その後に顕在化する超越論的主体の危機を結果的に先取りしていた。あるいは少なくとも、わたしたちは彼のテクストをそのような観点から解釈することができる。激しいショックによって自己意識による統一が失われ、注意がめまぐるしく転換する一方、身体はひとりでに機械装置へと接続し、自らの延長として取り込んでいく。それはやがて「人間の統覚および反応の新しいかたちを生み出す」(*41)だろう。この新たな統覚こそ、映画による「練習」を通じて組織される「集団的身体」の認識=行動を可能とするものだ。気の散った状態でショックに慣れることは、その最初のステップである。
*29──クリスチャン・メッツ『映画と精神分析──想像的シニフィアン』鹿島茂訳、白水社、1981年、104頁。
*30──同書、101頁。原文に即して訳を一部変更した。
*31──同上。原文に即して邦訳の「超越的主体」から「超越論的主体」に変更した。
*32──メッツ、前掲書、99頁。
*33──メタ認知、もしくはメタ認識については、マーク、前掲書、292-295頁のほか、ガザレイ、ローゼン、前掲書、229-232頁などを参照。
*34──東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』(河出文庫、2011年)および同『観光客の哲学 増補版』(ゲンロン、2023年)の第9章を参照。
*35──トム・ガニング「驚きの美学──初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」濱口幸一訳、『「新」映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編、フィルムアート社、1998年、111頁。訳文は一部変更した。
*36──映画研究における認知派の代表格である哲学者ノエル・キャロルは、自身の著書やデイヴィッド・ボードウェルとともに編んだアンソロジー『ポスト・セオリー──映画研究の再構築』(1996)のなかで、メッツらの装置論をはじめとする「精神分析的─記号論的マルクス主義理論(psycho-semiotic marxist theory)」を疑似科学として批判し、分析哲学の明晰判明な論理と認知科学や心理学、神経科学などの実証的な知見に基づくオルタナティブな「理論」の必要性を訴えた。キャロルはその後、「ムービング・イメージの哲学」を展開して認知派を確立していく。Post-Theory: Reconstructing Film Studies, eds. David Bordwell and Noël Carroll, Madison: University of Wisconsin Press, 1996.
*37──ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、626頁。傍点原文。
*38──Rodolphe Gasché, "Objective Diversions: On Some Kantian Themes in Benjamin's 'The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction," in Walter Benjamin's Philosophy: Destruction and Experience, eds. Andrew Benjamin and Peter Osborne, Clinamen Press, 2000, pp. 180-201.
*39──イマヌエル・カント『純粋理性批判』上巻、石川文康訳、筑摩書房、2014年、169頁。
*40──ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り──注意、スペクタクル、近代化』岡田温司監訳、平凡社ライブラリー、2025年、29頁。
*41──ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、599頁。傍点原文。
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ベンヤミンが構想していたオルタナティブな主体性、現代のテクノロジーを器官とする集団的身体とはどのようなものだったのか。そしてこの主体はいかにして革命を、そして自然との共演=共同遊戯を成し遂げるのだろうか。議論の鍵を握るのは、いまや「アウラの凋落」と並んで複製技術論の代名詞ともいうべき概念、すなわち「視覚的無意識」である。
ベンヤミンにいわせると、わたしたちは精神分析によって「欲動的無意識(Triebhaft-Unbewußt)」を知るように、映画のカメラによって初めて「視覚的無意識(Optisch-Unbewußt)」を知るのだという。カメラはクロースアップやスローモーションといった撮影技法を通じて、人間の目覚めた意識では決して捉えられない、物質や運動の無意識的な「細部」を可視化することができるからだ。
ベンヤミンが述べている通り、人間の歩き方を説明することは誰にでもできるが、足を踏み出すときのコンマ数秒の姿勢や、心身状態によるその微妙な変化を説明するには、カメラによる技術的補助なしでは不可能である。これらの細部は人間の感覚器官(目)にもたしかに映っている──知覚的刺激としては受容されている──はずなのだが、意識的に処理するにはあまりにも速すぎる、もしくは小さすぎるためだ。「撮影装置が現実から獲得することのできる多様な姿の大部分は、感覚的知覚の通常の範囲の外にある」(*42)。これがベンヤミンのいう視覚的無意識である(*43)。
視覚的無意識の重要性は、この概念が映画のショック作用と同様、カントの認識モデルを相対化してしまうことにある。カメラをはじめとする機械装置は、統覚によって統一的に根拠づけられることのない無意識的な感覚データ、ライプニッツの言い方では「微小表象」を記録することができる。東浩紀は視覚的無意識を取り上げた小論のなかで、これをカントの認識フォーマットと重ね合わせながら、認識可能な感覚データの「速度」または「密度」の問題として整理している。「外界からの情報受容器としての『感性』と情報処理装置としての『悟性』という図式を初めて明確にしたのは言うまでもなくカントだが、彼の用語にしたがえば、ここで問題になっているのは悟性の演算速度だと言ってもよい」(*44)。
人間の悟性が表象を各種カテゴリーに分類し概念化する速度では、機械装置が記録する「速すぎる/小さすぎる」細部を捉えることはできない。それらはカント的な統覚(自己意識)とは別のシステムで、つまりフロイトが発見した無意識において受容され処理されることになる。これは東の言い方では「人間にはたがいに異なる演算速度をもつ情報処理装置が複数組み込まれている」(*45)ことを意味するだろう。
それゆえ、東がドゥルーズ&ガタリを引きながらいうように「統一的な意識(主体)なるものは、その分子運動状態をモル的に抽象化して得られるものにすぎない」(*46)。1モル(約6.02×10の23乗個)の膨大な分子の集合をクロースアップすると、個々の分子のランダムな運動が見出されるように、この「わたし」の背後では意識化されない感覚データがばらばらに、高速で処理されている。「したがって機会があれば、モル的な自己=疑似統一体はたやすく分子状に解体される」(*47)。この自己解体の過程こそカントのいう気散じであり、そしてその具体的な「機会」としてベンヤミンが注目したのが、映画のもつショック作用だったというわけだ。
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東が提示している「分子的解体」の具体例は、ベンヤミンのいう集団的身体について考えるうえでも手がかりを与えてくれる。カント的な統覚に代わる「分散モデル」としての情報処理システムを想定すると、人間同士のコミュニケーションは統一的な主体と主体が相対するものというより、お互いの身体各部がばらばらに接続され、それぞれに異なったリズムで応答し合う、いくつもの同時並行的な「情報=流れ」として記述されるからだ。
たとえば友人同士が電車で同じ目的地に向かうとき、相手が目的の駅で降りようと身体を動かすと、自分の身体はそれに無意識に反応して動き、さらにその動きに相手もまた反応する。わたしたちは「無意識的=身体的にたがいの降りる駅を確認しあう」(*48)。そこでは意識的なコミュニケーションに先んじて身体が降りるべき駅に気づき、自己意識を経由することなく相互に伝達し合っている(もちろん乗り過ごすこともあるけれど)。
ベンヤミンの集団的身体もまた、カント的な統覚をショートカットする無意識的=身体的な相互接続に支えられている。けれど彼にとって重要なのは、この接続回路が人間同士の日常的なコミュニケーションを超えて、人間が機械装置と相互浸透する可能性を開くことにあった。視覚的無意識がそうであるように、機械装置は無意識的な感覚データを記録・開示することができ、そしてわたしたちも日々それらのデータを身体的に処理している。ということは、一緒に電車に乗って秋葉原まで出かける友人たちと同じく、わたしたちの身体は機械装置とも同様に無意識的データをやり取りし、親密に交流、いや交接することができるはずなのだ(伴侶型アンドロイドとの「結婚」の可能性──杉浦次郎)(*49)。現代の技術に慣れるとは、非人間的な装置からショックのかたちで伝達される知覚的刺激を、あたかも長年の友人や恋人同士のように気の散った状態で、無意識=身体のレベルで受け止めることを意味している。
人間と機械装置のこうした相互浸透は、映画/動画のショック作用と同様、現代のほうがはるかに進展しているといえるかもしれない。パソコンやスマホ、インターネットでのわたしたちのプロフィールや行動履歴はテック企業にすべて収集され、無数のユーザーのデータと照合されたうえで、似たような性格や属性、趣味嗜好をもつ人たちの集団へと分類される。そこから得られた行動パターンに基づいて、各種商品・サービスのレコメンドやターゲティング広告が通知され、これらが知覚的刺激となってわたしたちの注意を拡散させる。さらにその結果がフィードバックされることで、アルゴリズムはますます強化されていく(*50)。
たとえばTikTokでは、アップロードされるすべての動画からキーワード、画像、内容の要約などの情報が集められ、さらに個々の動画に応じて、ダンス動画であれば、曲名、ジャンル、場所、踊り手などの詳細なデータが吸い上げられる。視聴者の側からも、性別や年齢、居住地、興味関心などのあらゆるデータを収集し、IPアドレスから得られた利用場所に基づいて地名や政治傾向まで割り出して、同じような傾向をもつ人たちをひとつの集団へとまとめ上げる。さらにはわたしたちが一度に見る動画の数や時間、場所、タイミングまで把握したうえで、ビッグデータ分析に基づく強力な「レコメンドエンジン」によって最適と思われる動画を次々と表示し、わたしたちの注意を拡散させていく(*51)。それは動画の内容的にも、またデータのやり取りという意味でも、意識的なコミュニケーションというよりは無意識的=身体的な相互作用にはるかに近い。
そこでわたしたちは、東のいう「固有名」、つまり固有性をもったわたし自身としてではなく、さまざまな属性や情報の束へと分解され、似たような傾向をもつ人たちの「群れ」の一部として処理される。したがってそこには「主体性」が成立しない──東の言い方では「訂正可能性」が機能せず、自己の同一性を保ちつつ更新していくことができない(*52)。けれどこれは逆にいえば、交換不可能な「わたし」に苦しむ個体が、気の散った集団的身体へと解消されていくということではないだろうか。それは終末(週末?)的な自己解体であると同時に、ある種の自己救済でもある。ベンヤミンが映画のうちに見出した人間と機械装置との相互浸透というヴィジョンは、現代の動画を通じてはるかに高精細かつ大規模に実装されている。
*42──同書、620頁。傍点原文。
*43──現代から見ると何の面白みもない、日常生活を切り取っただけのリュミエールの初期映画が当時の人々に衝撃を与えた理由もここにある。観客たちは突進してくる列車の映像だけでなく、スクリーン上の何気ない「風」や「土埃」にまで驚愕したと伝えられるが、それは人間的な意味(認知の偏り)とは無関係にあらゆる視覚情報がフラットに可視化される光景、つまりカメラによる「非=文化的視覚」に初めて遭遇したためだ。長谷正人『映画というテクノロジー経験』(青弓社、2010年)第1章および3章を参照。
*44──東浩紀「精神分析の世紀、情報機械の世紀──ベンヤミンから『無意識機械』へ」、『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、323-324頁。傍点原文。
*45──同書、225頁。傍点引用者。
*46──同書、228頁。
*47──同上、傍点引用者。ここで東は気散じという概念に直接言及しているわけではないが、彼が参照するジャック・デリダのエピソードは気の散った人間の振る舞いそのものだ。公衆電話から妻もしくは恋人に電話をかける「私」は、深刻な話をするために電話に「精神を集中する必要がある」。ところが電話ボックスの周囲を酔っぱらいがうろつき始め、話しかけようとしてくるせいで、「私」はその酔っぱらいに「気を取られる」。ここにあるのは気散じによる統一的な自己意識の解体であり、それが電話という機械装置によっても生じている点に、ベンヤミンの議論との明らかな連続性がある。
*48──同書、229頁。
*49──実際にベンヤミンは、1928年に著した断章集『一方通行路』所収のテクスト「プラネタリウムへ」のなかで、人類と技術との関係を結婚や性愛になぞらえている。彼によると第一次世界大戦は、技術を器官とする集団的身体の「宇宙に対する大々的な求愛」だったのだが、「支配階級の利潤追求欲が、技術を相手に自分の望みを満足させようとしたために、技術は人類を裏切り、初夜の寝床は一転して血の海となった」のだという。複製技術論では性愛のメタファーに代わり、このあと見るようにカントをベースにした「遊び=賭け(Spiel)」の次元が前面に押し出される。ヴァルター・ベンヤミン「一方通行路」(『ベンヤミン・コレクション3──記憶への旅』浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1997年)139頁を参照。
*50──マーク、前掲書、第7章を参照。
*51──TikTokのアルゴリズムについては、マーク、前掲書、179-184頁を参照。
*52──東浩紀『訂正可能性の哲学』ゲンロン、2023年、第7章を参照。
12
わたしたちの議論は大詰めを迎えつつある。最後にベンヤミンの考える集団的身体の認識=行動原理を見ていくことにしよう。ここで決定的な役割を演じるのは、「当意即妙(Geistesgegenwart)」というあまり目立たない概念だ。複製技術論の注には映画のもつショック作用について、それが大都市の交通が引き起こすショックなどと同様に「高められた当意即妙において受け取られるべきもの」(*53)だという重要な記述がある。
ここでいわれる「当意即妙」とは、直訳すると「精神(Geist)」の「現前(Gegenwart)」、つまり「精神(心)がいま・ここにある」ことを指すドイツ語で、通常は「とっさの機転」や「冷静沈着さ」などを意味する。冒頭でも触れたカントの「放心状態=精神の不在(Geistesabwesenheit)」のちょうど真逆にあたる言葉だ。実際『実用的見地における人間学』の遺稿には、このふたつの概念をラテン語とフランス語で対置する追記がある(*54)。
複製技術論も含め、1920年代後半から30年代半ばにかけてのベンヤミンのテクストには、この「当意即妙=精神の現前」という概念がしばしば現れる。わたしたちにとって重要なのは、カントがこれを気散じのバリエーションである放心に対立させたのに対し、ベンヤミンはむしろ、精神の不在から現前への電撃的な交代、そしてそれが可能にする瞬間的な行動を指し示すために用いているということだ。気の散った身体に無意識的な感覚データが流し込まれるとき、そのショックが「神経刺激」となって身体を駆け巡り、状況に即応した行動として出力される。これが彼のいう「当意即妙=精神の現前」である。
ベンヤミンは1920年代末ごろのある断章のなかで、この概念を未来予知と関連づけている。当意即妙とは「未来の抽出物」であり、わたしたちの身体を日々通過していく「前兆や予感、合図」を一瞬のうちに知覚し、それを実際の行動へと転化することで、望ましい未来を切り開いていくことなのだという。そのための媒体となるのが、わたしたちの身体にほかならない。「未来からの脅迫を充実したいまに変えること、この唯一望ましいテレパシーの奇跡は、身体的な当意即妙=精神の現前の産物である」(*55)。これを先ほどまでの言葉で言い換えれば、機械装置からのショック=感覚的データを身体によって受け止め、処理速度の遅い統覚をショートカットして瞬時に行動へと出力するということだろう。つまり当意即妙=精神の現前は、カントの統一的な認識主体を相対化し、身体各部をばらばらに経由するフロイトの分散的な主体を導入することで初めて成立するわけだ。
ベンヤミンはこうした行動メカニズムを個々人から集団的身体へと拡張することで、来るべき革命の理論を作り上げていく。このとき身体的な当意即妙の範例的なモデルとなるのが、「遊び=賭け(Spiel)」である。これも実はカントに由来するもので、自然と人類との共演=共同遊戯というベンヤミンの謎めいた発想は、賭け事を人間同士の遊びではなく、自然と人間との遊びとして捉える人間学の記述に基づいている。カントによれば「〔賭けで〕競っている二人は自分たち二人が遊んでいると信じている」のだが、実際には彼らの生命力を活気づけるために「自然が二人と遊んでいる」(*56)のだという。この「自然の戯れ(Spiel der Natur)」は、人間の意図を超えたところで結果的に望ましい目的が実現されているというものだ。とはいえ訳者解説でも指摘される通り、物事の必然性と合目的性を保証する「神の摂理」が失われたあとで、偶然に左右され、人間の主体性をストレートに信じ切ることができない、どこかニヒリスティックな世界観・人間観もうかがわせる(*57)。
東もまた、統計的なアルゴリズムに支配された人間の生を賭けにたとえていた。「運命を予感する不安ではない、運命の欠如に絶望する不安。自分が群れの一部であることへの不安。サイコロの目ですべてが決まることへの不安」(*58)。けれどベンヤミンは、むしろ正反対の方向へと歩を進めていく。わたしたちはどうしたらこのサイコロ遊びを、自然との遊び=賭けを楽しむことができるだろうか。どうしたら数字を的中させることができるだろうか。
13
1929〜30年ごろに書かれたとみられる「賭けの理論についてのメモ」のなかで、ベンヤミンは賭け事についてこう記している。「危険における電光石火の神経刺激。それは当意即妙=精神の現前が予言となるケース、それゆえ生の最も高度な、希少な瞬間のケースであり、実験的な遊び=賭け〔Spiel〕によってもたらされる」(*59)。
賭博者が数字を的中させられるかどうかは、このメモによれば、身体的な当意即妙=精神の現前にかかっている。それはつまり、無意識的なデータを瞬時に知覚し、当たりの数字に賭ける行為として出力する必要があるということだ。これを可能にするのが、統覚を迂回するかたちで「前兆や予感、合図」を身体各部へと直接伝達する「神経刺激〔Innervation〕」である(*60)。ベンヤミンにいわせると、賭博者は当たりの数字を実は前もって無意識のうちに知っており、むしろ重要なのは「運動神経刺激〔motorische Innervation〕(霊感〔Inspiration〕)」によって身体(手)が正しくその数字に賭けられているかどうか、なのだという。
要するに神経刺激とは、感覚的データを意識へと転化することなく、高速演算可能な無意識=身体へと直接流し込み、当意即妙な行動として出力するための伝達回路なのだ。ベンヤミンはこの「賭けの理論」をベースに、複製技術論の前年に発表したテクストで次のように語っている。「賭博者が成功裏にゲームを進めている場合、行動へと転化するのは無意識的な知識なのだ。これに対して、この無意識的な知識が意識へと転化してしまうと、その知識は神経刺激にとっては失われてしまう。この賭博者は、なるほど正しく『考える』だろうが、しかし誤って『行動する』だろう」(*61)。
さらに、賭けにおける数字が「解読」されるのは「あらゆるものが殺到する最後の瞬間、(チャンスを逸するという)危険のなかの危機的〔kritisch〕な瞬間」(*62)においてだという。この最後の瞬間、気の散った身体に機械装置のトラウマ的ショックが伝達され、これが神経刺激となって当意即妙な行動へと転化される。「革命とは集団の神経刺激である。より正確には、史上初めて成立した新しい集団に神経刺激を通わせる試みである」(*63)。ベンヤミンが具体的に想定していたのは来るべき戦争であり、その衝撃が「技術において組織される体=自然(Physis)」を駆け巡り、気の散った大衆に一挙に精神を現前させることで、内戦から革命へと発展すると考えていたようだ。「革命のあらゆる緊張が身体的・集団的な神経刺激となり、集団のあらゆる身体的な神経刺激が革命的放電となるならば、そのとき初めて現実は、共産党宣言が要求している程度まで、自分自身を乗り越えたことになる」(*64)……。
身体的な当意即妙をもたらす無意識的データの受容を、ベンヤミンは「世俗的啓示(profane Erleuchtung)」と呼んだ。これは文字通り脱魔術化された宗教的啓示であり、世俗的な手段で無意識的なデータを捉える「唯物論的・人間学的な霊感」のことだ。「阿片使用者、夢見る人、陶酔した人と同じく、読む人、思考する人、待つ人、遊歩者も、啓示を受けた人間のさまざまなタイプである」(*65)。わたしたちはこのリストに「動画を見る人」を付け加えることができるだろう。
ベンヤミンの遊び=賭けは結局のところ、成功裏に終わったとはいえない。けれど彼の理論は、機械装置による自己疎外が全面化した現代においてこそ、アクチュアルな魅力を放っている。わたしたちもいつか気の散った状態で、彼のいう「危機的な瞬間」を迎えるだろうか。それは東アジアの島嶼をめぐって勃発する戦争かもしれないし、大都市を襲う破局的な自然災害かもしれない。戦後日本の欺瞞的な平和が砕け散って、その衝撃が気の散った集団的・列島的身体へと精神を現前させるまで、いまはまだ、ソファに寝そべってぼんやりと動画を見ていよう。もしかしたらその前に個人的な危機に直面して、通り魔やテロリスト、陰謀論者、あるいは全身にLEDを巻き付けた中年男性に変わってしまうかもしれないけれど(*66)。
自分自身をばらばらに分解すること。「主体性」を手放して「群れ」のなかに溶け込んでいくこと。危機のさなかに自然とともに遊ぶこと。「個的存在がときには、なにがしかの人間性を、かの大衆に譲り渡してしまってもかまわないのだ」とベンヤミンは書き残している。「いつの日かその大衆は彼に、それにたっぷり利子をつけて返すだろうから」(*67)。
*53──ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、640頁。ちくま学芸文庫の邦訳では「普段より緊張した意識」と訳されている。
*54──「心の不在(absentia animi)、反対に心がここにあること(presence d'esprit)」。カント「人間学遺稿」、『カント全集15』、366頁。
*55──ベンヤミン「一方通行路」、『ベンヤミン・コレクション3』、130頁。傍点引用者。
*56──カント「実用的見地における人間学」、241頁。
*57──同書、539-540頁を参照。
*58──東『観光客の哲学 増補版』、402頁。傍点引用者。
*59──Walter Benjamin, "Notizen zu einer Theorie des Spiels," Gesammelte Schriften, Bd. 6, p. 190.
*60──「神経刺激」という言葉はフロイトに由来するものと考えられている。ハンセン、前掲書、279頁のほか、前川修『痕跡の光学──ヴァルター・ベンヤミンの「視覚的無意識」について』(晃洋書房、2004年)163頁などを参照。
*61──ヴァルター・ベンヤミン「幸運な手──賭博についての楽しいお喋り」、『ベンヤミン・コレクション6──断片の力』浅井健二郎編訳、久保哲司ほか訳、ちくま学芸文庫、2012年、427頁。傍点引用者。
*62──Benjamin, "Notizen zu einer Theorie des Spiels," p.189.
*63──ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、631頁。
*64──ヴァルター・ベンヤミン「シュルレアリスム」、『ベンヤミン・コレクション1──近代の意味』、518頁。
*65──同書、514頁。
*66──フーコーはカントの人間学について、そこにある「時間」の契機が超越論的統覚による統一に一種のタイムラグを生み出し、気散じをはじめとする「散逸(dispersion)」を不可避的に引き起こすことを指摘している。「多様を組織しようとする綜合の活動は、その活動自体から時間的にずれる。だから、この活動はどうしても継起のかたちをとり、誤謬と、惑わしに満ちたあらゆる横滑りを生じさせてしまう」。つまりカントの認識理論は、現実には「時間によって諸々の綜合が散逸し、ばらばらになってしまう可能性」につねにさらされているわけだ。ミシェル・フーコー『カントの人間学』王寺賢太訳、新潮社、2010年、113頁。これはベンヤミンに対しても同様にいえる。彼のいう気散じ=慣れの理論、あるいは遊び=賭けの理論は、現実の時間の流れのなかでつねに個人差とタイムラグをはらみ、同時的な集団的身体の生成ではなく、時差を伴った、ばらばらの、間欠的な、スタンドアローンの革命(とすらいえない暴力の噴出)を引き起こすだろう。そしてそれは断続的に発生する通り魔事件のように、しばしば陰惨なまでの誤配をもたらす。そこでは「主体性」の安易な(不可能な)回復ではなく、むしろ気散じに、気の散った家畜に踏みとどまる生の技法が必要とされるのかもしれない。
*67──ヴァルター・ベンヤミン「経験と貧困」、『ベンヤミン・コレクション2──エッセイの思想』浅井健二郎編訳、久保哲司ほか訳、ちくま学芸文庫、1996年、384頁。
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