藤田嗣治を世界的な画家へと押し上げたものとは何か?【2/3ページ】

藤田嗣治、パリで模索する

 藤田嗣治は1886年に東京で生まれた。14歳で画家になること、そして洋画の「本場所」であるパリに行くことを志し、17歳の時から中学校の夜間部でフランス語を習い始めるなど、準備を進めていた。

 東京美術学校洋画科を卒業後の1913年、藤田はついにパリに足を踏み入れ、モンパルナスに住むようになる。そこで待っていたのは、ピカソやモディリアーニら若い芸術家たち、そして彼らの生み出す前衛的な作品との出会いだった。学校で学んだ事とはまったく異質な「新しい表現」に藤田は圧倒された。この言語も生活習慣も異なる異国の地で、自分が「日本人」であるということについても考えさせられることは少なくなかっただろう。自分はどのような絵を描いていくか。誰かの真似ではない、自分ならではの絵とは一体どのようなものか。パリの風景を描き、そしてピカソに倣ったキュビスム風の絵を描くなどしながら、藤田は必死に考え、模索し続けた。

 やがて彼は自分のルーツである東洋へと目を向け始めた。仏像風のアーモンド型の目や、浮世絵に描かれる人物たちのパターン化された仕草、金屏風を思わせる金無地の背景など東洋美術の要素を取り入れた作品を描くようになった。この試みは成功し、1917年には画廊と契約し、個展を開くこともできた。

 その翌年に描かれた《シーソー》を見てみよう。こんもりと盛り上がった金色の丘の上に、丸太と切り株を組み合わせたシーソーが置かれ、6人の女性たちが乗って遊んでいる。全体的にシンプルな構図で、とくに白と金の二色からなる舞台は、琳派の作品を想起させる。

藤田嗣治 シーソー 1918 紙にテンペラ・水彩・墨・金箔 33×40cm
個人蔵(エルサレム、イスラエル)
© Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 E5785

 女性たちの面長の顔やなだらかな肩は、藤田が親しくしていたモディリアーニの女性像を連想させるが、折れそうなほどに繊細な指の表現には、日本の仏像彫刻にも通じるものがある。そして個々のモチーフを縁取るのは極細の線だ。これは、面相筆に墨をつけ、書道のように画面に対して垂直に保ちながら引いたものである。

 パリという西洋絵画の「本舞台」で、藤田は西洋と自分のルーツである東洋との間で揺れ動きながら、常に自分の立ち位置を探し、バランスを取ろうと苦闘していた。東洋と西洋の美術の表現が共存・融合し、融け合ったこの《シーソー》は、二つの世界の間で自分の道を模索する藤田自身の自画像のヴァリエーションと言えるかもしれない。

編集部